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尚順とスイカ

明治35年の琉球新報からスイカにまつわる記事をご紹介。

西洋水瓜試作好成績
過半、奈良原知事が種子を分与して、郡下各地方に試作をなしたる西洋水瓜アイスクリーム外一種の試作状況を聞くに、中頭郡にては、スイカの本場なる城間の農民二人を選定して試作を申し込みしに、この成績至て好良にして(略)将来有望の副産物なりと云ふ。
明治35年8月7日 琉球新報

尚順男爵の西洋水瓜
前号の紙上に於いては奈良原知事が県下各地方に試作せしめし西洋水瓜の成績を報道したるが、西洋水瓜は、余程当地へ適するものと見え、尚順男が小湾へ試作せる西洋水瓜も本年は殊の外に好成績の由にて、アイスクリームとコールスアリーの二種を寄贈せられしにより、其味を試みるに、アイスクリームの方はなるほど其名に背かず、(略)本県産の及ぶ所にあらず。
(略)
小湾辺は右の西洋水瓜大に流行し、本県産は次第に減少の姿なりと云ふ。
明治35年8月9日 琉球新報


尚順は明治6年(1873)年生まれで沖縄戦で没しています。
パイナップルも尚順が沖縄に導入したもので、桃原農園を設立してさまざまな試みをしていたようです。また食通で名筆でもありさまざまな逸話が多く残っている人ですね。
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上間と津嘉山の境界が定まった由来

上間誌から境界決定の伝承についてです。左は南風原と那覇の境界付近、右は上間矢旗原です。
矢旗原
琉球王府時代末期の頃、上間と津嘉山は両村(字)の境界のことで紛争となった。上間は矢萩毛(現南風原高校)の山頂から伸びる先を主張し、津嘉山はそこからさらに200メートルほど南側の水田地帯を東西に流れる小川、クガーラ川を境界にするよう主張した。今では考えられないことであるが互いに自村(字)の土地が少なくなることを望んだのである。双方譲らずついに石合戦となった。
石合戦が行われたのは矢萩毛のふもと、今の南風原高校の正門付近であった。当時は石畳道の小路が一日橋と津嘉山を結んで、この付近は小高くなって石畳道を登るという意味の石登り(イシヌブイ)と名称していた所である。この辺は石がなかったので女性は竹籠で石を運んだ。この話を語った老婆も石運びしたという。
石運びについては津嘉山にも同様の伝承があった。津嘉山出身の筆者の母によれば、母の祖母(1860年生まれ)も石合戦の石運びをしたという。津嘉山は平地で石が少なく、瓶も割って石代わりにしたという。
(略)上間側が勝利したことによって両村の境界は上間の主張する矢萩毛の頂上から尾根伝いに下りて、西側の国場川の流れに沿って定まった。石合戦に勝って境界を上間側に寄せ、村の土地を少なくして公租高を少なくしたという。これが現在の境界である。
はたして石合戦によって村の境界が決まるものか寡聞にして知らないが、一つの伝承として記録しておく。ただ、地割りについては王府は全く干渉せず村(字)の自由に任せたから右の話は本当かもしれない。
上間誌 p80、81


ほんとかどうかはわかりませんが面白い話ではあります。
矢旗原にあった矢萩毛(ヤファジモウ)は国場誌などで見る事が出来たかと記憶していますが小高い丘で現在の地形からは想像がつきません。あと矢旗(ヤハタ)と矢萩(ヤファジ)は似た音ですが語源は同じなんでしょうか。

参考:山川原・淵下原・東原・矢旗原(上間)
参考:矢旗原(上間)

砂糖委託屋 2

砂糖委託屋の続きです。前まではこんな感じでした。

明治30年代後半、委託販売業者が出現して大阪の鑑定専門家を呼び入れ大阪市況を報道しまた立て替え、貸し付けの便宜を提供するようになったので農家はこぞってその製品を委託屋の蔵置場に入庫し委託商の手で糖商に対して共同販売、競争入札に出されるようになった。
沖縄県史別巻 p278

製糖農家の委託をうけて砂糖を貯蔵し、税務署や物産検査所の検査を受けさせ、砂糖の販売等をもつかさどった商店等を砂糖委託屋といった。
そもそも両砂糖会社の設立の意図は、砂糖農家にとって取引上のガンだといわれた砂糖前代をなくし、砂糖製造農家の取引面での利を守るためにあった。糖業農家に対して資金の貸し出しもなされたが、会社幹部の経営の不手際で販売会社は間もなく解散した。
沖縄県史別巻 p271


農家に高利で貸し付けを行い支払いを(相場より安い価格で)砂糖で受け取る砂糖前代というシステムを廃止する目的で県内資本により委託屋は設立されました。
沖縄県史の砂糖委託屋の項から引き続き抜粋します。

委託屋は生産者が搬入するのを店で傍観していたのではなく、入糖の増加を図るためタオルや暦等をもって生産農家をめぐり搬入の勧誘を行った。また田舎には砂糖買(サーターコーヤー)がいて直接農民から砂糖を買い上げてそれを委託屋に持込むこともあった。
農民が砂糖を委託屋に搬入する際に、直売(じきばい)か止め置き(とめおき)にするかは各自の希望によった。直売というのは搬入した砂糖を搬入した日の翌日の入札にすぐにまわすことである。止め置きとは砂糖の値が上がるのをまって入札にまわすことである。止め置きにする場合は委託屋は農民から倉庫料を徴収したという。止め置きにした際には、大抵の農家は止め置いた砂糖を担保にして必要な金を借りたようである。
沖縄県史別巻 p272


あるていど有利に換金できるようになり砂糖前代による拘束もなくなったようですが、田舎から委託屋までの経路には砂糖買(サーターコーヤー)がまだいたようです。
委託屋は手数料による商売ですので多量に品物を扱わないと損をしました。その性格上大きな資本を必要とすることから那覇の金持ちが経営したようです。

委託屋は自分の商店への入糖の増加をはかるため、地方の砂糖を那覇に運搬してくる荷馬車業者(バシャムチャー)にとりいったという。地方の生産者はバシャムチャーにすべてを任せる傾向にあったので、バシャムチャーは自分に都合のいい委託屋に砂糖を入れることができたのである。1922年に那覇市内に43ヶ所もあった委託屋が1937年には22ヶ所になっている。

糖業組合での入札に参加するのはいわゆる糖商であった。その糖商と委託屋の間にブローカーがいた。砂糖商の依頼を受けて砂糖を調達していたのである。
沖縄県史別巻 p271、272(省略と編集)


県内生産の砂糖の量はあまり変わらなかったでしょうから委託業者が乱立すれば砂糖の奪い合いになるのは目に見えています。委託された砂糖は委託屋の店先に積まれ、税務署と物産検査所の検査を受けてから倉におさめられ、毎日午後四時に糖業組合でおこなわれる入札にかけられました。
整理すると、
•農民は委託屋へ搬入、砂糖買に販売、バシャムチャーへ委託
•委託屋は農民の希望によって直売か止め置き
•委託屋は糖業組合に出品、糖商が入札して内地の市場へ

という流れでしょうか。
砂糖前代の時代との違いは(相場の変動や相場がわかることで)利益を得る人間が増えているというとこです。以前は買い取りと砂糖前代による拘束で農民は安く売るという選択肢しかありませんでしたが「前代・止め置き」の選択も可能になり一方的に損をするだけの存在ではなくなりました。

砂糖委託屋

承前。
グダグダ 砂糖仲買人
グダグダ 沖縄砂糖商店について

これまで砂糖がらみで登場したのは、糖商、仲買人と委託屋です。
糖商が移出する商人(寄留商人)、仲買人は農民から砂糖を買い集め商人に引き渡す仕事です。
そこで糖商は皆各数人の砂糖仲買人に買い集めを委託するのが通常の取引方法となった。砂糖仲買人が「糖商の手先」といわれた所似である。彼らは糖商の縁故者とか商売気のある農村人とかであった。
沖縄県史別巻 p278


委託屋という名称では登場していませんが、「琉球砂糖株式会社」「沖縄砂糖株式会社」が委託屋になります。
両者は沖縄県内の資本で設立され不要な中間業者(仲買人)の排除を目的としていました。
明治30年代後半委託販売業者が出現して大阪の鑑定専門家を呼び入れ大阪市況を報道しまた立て替え、貸し付けの便宜を提供するようになったので農家はこぞってその製品を委託屋の蔵置場に入庫し委託商の手で糖商に対して共同販売、競争入札に出されるようになった。
沖縄県史別巻 p278

明治末から大正、昭和にかけて新手の大手糖商が買い出動し、黒糖の仕入れ競争が繰り広げられ、その間を種々の仲買人が活躍した。この頃の仲買人はブローカーとも称した。農村の有力者や馬車持ち(バサムチャー)も仲買商人の役を努めた。
大正末頃から産業組合の進出著しく黒糖取引は急速にその手に集中されていった。1941年黒糖集荷が産業組合連合会に一元化された時糖商もろとも砂糖仲買人も真に無用のものとなった。
沖縄県史別巻 p278


以下県史別巻から「砂糖委託屋」の項を抜粋します。

製糖農家の委託をうけて砂糖を貯蔵し、税務署や物産検査所の検査を受けさせ、砂糖の販売等をもつかさどった商店等を砂糖委託屋といった。
そもそも両砂糖会社の設立の意図は、砂糖農家にとって取引上のガンだといわれた砂糖前代をなくし、砂糖製造農家の取引面での利を守るためにあった。糖業農家に対して資金の貸し出しもなされたが、会社幹部の経営の不手際で販売会社は間もなく解散した。
会社は解散したが製糖業の隆盛によって個人あるいは産業組合が砂糖の委託販売を行うようになった。
沖縄県史別巻 p271(抜粋と編集)


砂糖は生産農家からなんらかの人間を経て税務署と物産検査所の検査を受けて市場へ輸出されるという構図は変わりません。しかし市場の相場より低い価格での買い取りで売る形から農民が「委託」して販売する(ここは別項で取り上げます)より有利な形になりました。

沖縄砂糖商店について

承前。
グダグダ 砂糖仲買人
グダグダ 前代(まえだい/めーでー)
グダグダ 沖縄砂糖商店

生産者の裁量による処分が可能であった焼過糖(たきかとう)の買い取りに携わっていた砂糖商人は拡大してゆき、砂糖市場はほぼ寄留商人の独占状態になりました。
砂糖商は内地の市場へそれらを販売し、県内の生産農家へは前代と呼ばれる借金などで拘束しそこからも利潤を上げていました。また農村で生産する単位は小さく広範囲に広がっているため砂糖の直接買い付けは仲買人とよばれる中間業者がおこなっていました。

その頃の沖縄の砂糖商人は大阪の相場を標準にして農家を駆け巡り砂糖を仕入れ、便せんがあると次々に鹿児島や大阪に送り出し、市場で入札に付して、引き合えば売り、引き合わなければひかええているという単純なものでした。
黒糖に関しては沖縄商人が商勢を制することができるはずなのに、何の策略もたてず個々別々な一騎打ちのありさまで、上がる利益をあげ得ていませんでした。そのかわり沖縄の糖商はその牙を農村に向け農村からあらん限りの搾取をしようという態度だったのです。つまり農民に対する高利貸なのでした。
沖縄県史物語 p102(省略と編集)


「沖縄県史物語」で新屋敷さんは沖縄の糖商が相場に無知で取引が稚拙であったこと、農村への前代などでの搾取で利益を上げていたことを書いています。この前代という制度は王府時代にルーツを持ち、寄留商人もそれに加わっています。
引用文では「沖縄の商人」のみ商取引が稚拙だったので農民への高利貸をしたという風に読めないこともないのですがそれだと誤解を生んでしまいます。砂糖前代には寄留商人、地元の資産家・高利貸も前代貸に関わっていました(県史別巻 p279)。

商店の場所は、那覇区字西74番地にあって1月14日の新聞に広告も出しております。その沖縄砂糖商店を組織していた7人の氏名を記しておきましょう。
比嘉次郎、島袋加那、川津喜助、呉屋仁栄、島袋永保、小嶺幸之、糸満誠忠
沖縄県史物語/新屋敷幸繁 p120


事実関係から考えるとこの沖縄砂糖商店は「丸七商店」です。
ただ沖縄県史別巻の丸七商店の項目をみると名前と住所などが少し違っています。

明治37年、那覇区字通堂に出資者10余人の匿名組合で設立された。
丸七商店が設立された動機は県農商課の仲吉朝助「琉球新報」主筆太田朝敷らの勧誘によるもので(略)
丸七は大阪から砂糖鑑別人桑山伊作を招き、はじめて那覇で大阪と同じ黒糖の等級選別を行い、入札をした。翌年中頭郡の有力者と合流し、琉球砂糖株式会社と発展し、また島尻郡の有力者も沖縄砂糖株式会社を作った。明治の末から大正の初め頃にかけて、本県出身者の砂糖委託問屋は新里、喜屋武商店を加え、4、50軒を数えるぐらいに繁栄したといわれる。
沖縄県史別巻 p511、512(部分引用)


沖縄県人の有力者がてこ入れして各地の有力者もそれに習ったという形でしょうか。
名称が違う件ですが、「丸七商店」は七人の社員がいたところから名付けられたと県史には書かれていますので新屋敷さんの書かれた「沖縄砂糖商店」は「丸七商店」と同じものを指していると思っていいでしょう。
まぁともかく沖縄側も寄留商人に対抗したことを憶えておけばいいんではないでしょうか。
沖縄県有力者(尚家)対寄留商人(那覇)の争いは明治期に盛んに行われています。

砂糖仲買人

沖縄県史の別巻に砂糖仲買人についてあったので引用します。

主に移出商人の委託をうけて生産農家から黒糖を買い集める仲買商人をいう。サーターコーヤー(砂糖買い)などと呼ばれた。夙に薩摩治下に印判をうけて来沖し農村を巡り歩き焼過糖の私売買に携わる薩摩商人が存在していた。明治以降沖縄糖の移出業は鹿児島等他府県人の寄留糖商によって独占的に営まれた。糖商は数十人に限られていたのに対して大部分極零細な黒糖製造農家は数万戸にのぼり地方分散孤立の状態にあった。糖商自ら農村に赴くこともあったが、それでは地方農村に広く散らばっていてかつ2、3挺ないし4、5挺を産する程度の細農から数千挺ものまとまった量を買い集めることは難しかった。そこで糖商は皆各数人の砂糖仲買人に買い集めを委託するのが通常の取引方法となった。砂糖仲買人が「糖商の手先」といわれた所似である。彼らは糖商の縁故者とか商売気のある農村人とかであった。
沖縄県史別巻 p278


「焼過糖の私売買に携わる薩摩商人が存在していた」ってのは面白いですね。
砂糖仲買人の消滅はこんな感じらしいです。

明治30年代後半委託販売業者が出現して大阪の鑑定専門家を呼び入れ大阪市況を報道しまた立て替え、貸し付けの便宜を提供するようになったので農家はこぞってその製品を委託屋の蔵置場に入庫し委託商の手で糖商に対して共同販売、競争入札に出されるようになった。仲買人は「糖界の寄生虫」「無用の中間者」などと非難され、彼らの盛時は去った。しかしながら委託商は一挺あたり幾何かの手数料を主たる収入源とする営利業であったから問屋となって取扱量を大量化して増益を図らざるをえなかった。他方では生産者は依然零細で地方に広く分布していたから委託商自身が何らかの仲介商人を必要とした。
明治末から大正、昭和にかけて新手の大手糖商が買い出動し、黒糖の仕入れ競争が繰り広げられ、その間を種々の仲買人が活躍した。この頃の仲買人はブローカーとも称した。農村の有力者や馬車持ち(バサムチャー)も仲買商人の役を努めた。
大正末頃から産業組合の進出著しく黒糖取引は急速にその手に集中されていった。1941年黒糖集荷が産業組合連合会に一元化された時糖商もろとも砂糖仲買人も真に無用のものとなった。沖縄県史別巻 p278


部落ごとに製糖するような小さな単位が田舎に散らばっているので集荷するための人間はどのみち必要だったということですね。砂糖前代で拘束しつつ相場より安い価格で買い上げるシステムは農民の無知に半ばつけ込むような形であったわけですが、そのシステムに対抗するシステムがより有利な条件を農民に示してシェアを奪ったというのは面白いです。
ちゃんと調べてはいないのですが、戦前はやたら産業組合結成のニュースがあるのを見ることができるんですが他業種のそういった動きもこういう流れの上にあるのかもしれません。
1941年の一元化は戦時の為でしょうか。

真嘉比の暗渠

多和田川(大湾・銘苅川)の続きです。
多和田川

真嘉比小学校の北側に真嘉比部落があるのですが、71年のゼンリン地図ではその中に二つの水の流れが確認できます。
マカンミチから斜めに出るような形ででている流れ(南側)は途中で消え、その流れに連続するかのような形で道路になりバイパスの向こう側まで続いています(濃茶で表示)。これは流れが暗渠化されて大湾ガーラへ続いているかと思うのですがどうでしょうか。
真嘉比の二つの流れのうち北側の流れはどこに続いているのかはっきりしません。もう少し東側へ行くとアガリヌカーがありますがなにか関連しているかどうかは不明です。

この地図でグレイアウトされている真嘉比小学校と興南高校は真嘉比側での二つの丘になっています(興南高校は古島宇久増原)。
真嘉比は現在整地されていてこの地図の情報も追えないようになっています。再開発以前の真嘉比は道路が曲がりくねっているせいもあって車があまり通らず落ち着いたいい雰囲気の場所だったのですが。

多和田川(大湾・銘苅川)

新都心の水の流れの詳細な図がありました。
多和田川
参照元は「銘苅港川原遺跡/那覇市教育委員会」の中の図です。

まず河口側が多和田川(タータガーラ)、その上流の二つの川がそれぞれ大湾川(オオワンガーラ)、銘苅川(メカルガーラ)です。泊側にある流れには名前がありません。
※これまで混乱した呼び方をしていましたがこれ以降統一します。

地形を見ると流れがあったんだなというのは自然と納得できます。
元の図は「1947年頃の地形と遺跡分布」というものなのですが、多和田川の河口が現在の合流地点とは違います。しかし現在の河口地点にも入り江がありますので小さな流れを改修してそちらに合流するようにしたのかもしれません。
泊の方へ向かう流れは黄金森の手前で終わっています。真和志民俗地図ではこの流れは書き込まれていませんが、道はちょうどこの流れに沿うように弧を描いています。

昔のゼンリン地図を見ると大湾川と道路(線路)を挟んだ向かい側の真嘉比に水の流れがあります。この流れは現在見ることが出来ませんが溝程度の流れで暗渠化されてしまっているのでしょう。

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