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浦添の石工

沖縄本島にはいくつか石灰岩地帯があります。
参考:沖縄県石材事業協同組合:沖縄石の紹介
石にもいくつか種類があり「トラバーチン」は高級材として有名ですが「粟石」も特色のある材料です。沖縄県内ではビルの壁や内装などで目にしたことがあると思います。
引用は浦添市史からですが、那覇でも天久や安謝で採石が行われていたようです。
このブログの扱う範囲は旧那覇と真和志ですが、この二つの地域でほぼ産出しない材料の一番近い産出地域であるということで取り上げます。

牧港の石は、その成分が琉球珊瑚礁と砂から成り立っていて、その塊が粟粒に似ていることから「粟石」と称されている。この粟石は、トラバーチンほどの色艶はないが硬質で、用途も家屋の壁、屋敷囲い墓石などと広い。中でも平板に切り採った石材を「ヒラガー」と称し需要も多く、「マチナトヒラガー」を求めてこの地にやってくる人々は旧美里村や具志川村まで及んだといわれる。

採石場を「イシアナ」と称し、その岩場の持ち主を「イシアナヌーシ」と称す。石は上部から下部へ1丈〜2丈(3〜6M)を、ヒチ(カニガラ)と称する刃の鋭い鉄棒で掘り下げてゆき、「イヤ」や「ヒチャーヂリーユーチ」(斧)でなどの採石道具を用いて切り出す。他の道具として、墨壷、三尺定規がある。
戦前の岩場の持ち主は「ヨナハグヮー」「ジョームイ」「タロウタマイ」「アンガー」「イリナカニシグヮー」「カマーマチジョウ」の屋号をもつ家々であった。

イシバーヤ(石柱)
長さ6尺〜9尺5寸、幅1尺、厚さ8〜9寸の規格に切り取った石で茅葺き家の柱に用いたり、馬小屋の柱に用いた。
ヒラガー(壁石)
平板に切り取った石をいう。規格は、長さ6尺、幅2尺、厚さ6寸である。茅葺き家の壁や屋敷囲いなどに、1尺ほどを地中に埋めて、縦に並べて用いた。

牧港石の採掘は古く、明治時代に遡るとされ、最初のイシチチャー(石工)故メーントゥの翁であろうというのが又吉氏の話であった。本格的に切り出したのは大正時代からで、全盛期は昭和初期から15年間頃で、「ヒラガー」が2円〜2円50銭、「イシバーヤー」が6尺もので70〜80銭、7尺ものが1円、8尺が3円、9尺は4円の値であった。
売値の三分の一は岩場の持ち主、三分の二が石工の労賃であった。さらに遠隔地に搬出する場合は、馬車までの担ぎ賃が5銭貰えた。通常の仕事をした場合の石工たちの一ヶ月の収入はおよそ20円であった。
浦添市史第4巻資料編3 p162〜164(抜粋省略編集)
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仲村 渠

詩人の「仲村 渠(なかむら かれ)」です。
1905〜1951(明治38〜昭和26)、詩人。本名・仲村渠致良。那覇生まれ。北原白秋主宰の『近代風景』に参加。詩作を行う。1932年ごろ詩人グループ、榕樹派を結成。戦後は『うるま新報』記者。
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-42393-storytopic-121.html
仲村渠呉服店仲村渠呉服店
右は仲村渠呉服店です。

「沖縄人物シネマ」から引用します。
兄は軍人で、那覇でも屈指の呉服店の経営者であった。仲村渠さんは兄から資本を分けてもらったのか那覇市辻町の石門より入口角に余り売れない半襟屋を営み、美人の奥さんと暮らしていた。
半襟屋の店先は、友人たちのたまり場となっていた。友人とは元毎日新聞論説委員の古波蔵保好氏、琉球新報の社長(戦後)になった池宮城秀意、私[牧港篤三]を含めて雑誌「那覇」同人の詩人仲間だった。
沖縄人物シネマ/牧港篤三 p166(一部編集)


半襟(半衿 - Wikipedia)というのが手頃な商売であったからなのかどうかはわかりませんが詩人らしい(おしゃれな)商売だよなとは思います。
図で示した仲村渠呉服店は見世の前の超一等地、「辻町の石門より入口角」は図では辻(緑色)下角辺りでしょうか。
名乗りと姓から推測すると仲村渠致元の縁者でしょうね。

仲村渠呉服店の写真は下記サイト様よりお借りしております。m(_ _)m
http://blogs.yahoo.co.jp/pusan_de/3000330.html

関連:グダグダ 大正の仮屋の前

癖のある夫婦 2

癖のある夫婦、池宮城積宝と新垣美登子の話の続きです。
下で引用した船越義彰さんの「狂った季節」は沖縄戦の経験と戦後暫くの経験をまとめたものです。引用は戦争が終わり米軍による規格住宅ができはじめた住宅難の頃の話です。

新垣美登子さんにもいろんなエピソードがありますが、夫である(あった)池宮城さんも大概な人だなと思わされます。この夫にしてこの妻あり、あるいはその逆なのでしょうか。少しついていけません...

私の規格住宅に古波鮫弘子さんが同居していたことがある。古波鮫さんは女流歌人として知られた方であり、久志以来のお付き合いであった。古波鮫さんが同居しておられたお陰で私は池宮城積宝氏を知ることができた。池宮城氏は沖縄の文学史に異彩を放つ存在で、私のような文学青年前期の者でもその名前は知っていた。その池宮城氏が我が家に来られるときの記憶はどうしたことか月夜の光景である。そして池宮城氏はきまって米軍の大きな携帯電灯をぶら下げておられた。昼をあざむくばかりの月光の中では電灯の必要はなかったはずだが今でも天才池宮城積宝氏の真意のほどが測りかねる。
池宮城氏と古波鮫女史の懐旧談は短歌が中心であった。いろんな歌人の作品が話題になったが、今は、かろうじて積宝氏の二首を覚えているだけである。

萠え出づる緑が岡にまろねして
果てなき海の果てしぞを思ふ

老いぬれば美登子の○○のかほりさへ
古酒のごと尊く思ゆ
狂った季節/船越義彰 p167、168

癖のある夫婦

「新しい女」の新垣美登子、放浪歌人の池宮城積宝、この癖のある二人が夫婦というのも(略)。

私の記憶に間違いがなければ旧那覇市の一角、上之蔵通りの真ん中程にあった新垣医院の二階とおぼしき部屋か、それとも植え込みの奥の座敷あたりからその声は響いてきた。もちろん、若い女声、それもかなり張りのあるソプラノで歌をうたっていた。何の歌だったのか忘れたが、歌声は移動するかのように急にきこえなくなった。歌声の主は大胆であたりかまわぬといったおてんばぶりを発揮していた。
後に歌声の主は新垣美登子さんだとわかった。

美登子さんの扮する女性に男性が言い寄る場面、つまり美登子さんが濡れ場を演じている場面で、客席で観劇していた[池宮城]積宝氏がたまりかねて、大声で「幕、幕、幕」と叫びだし、お陰で芝居はぶちこわしになった話は有名である。
沖縄人物シネマ/牧港篤三 p173、175(省略と編集)


新垣美登子さんは若い頃のエピソードなども自分で書いています。しかし読んでみても金持ちのわがまま娘がお転婆やってやがんなとしか自分には感じられません。年とってからもいろんな話があるようですが、そのエピソードもあまり変わりありません。
「新しい女」であるための必要条件は、なによりも生活の不安がない程度の資産だったというのは明白でしょう。

【追記】とはいうものの「那覇女の軌跡」を読むと、いいところのお嬢さんが戦前に髪結いとして自立し、戦後も職業婦人育成のために力を貸したことも書いておかないとフェアじゃないかと思い直しました。
興味のある方には「那覇女の軌跡」をお勧めしますが、小説類はともかくエッセイ類はあまりお勧めしません。

伊波冬子の晩年

「沖縄人物シネマ/牧港篤三」に帰郷後の伊波冬子(伊波普猷夫人)の様子がありました。

昭和36年に親泊政博、宮里栄輝等が中心となって、浦添城趾に伊波霊園を設けて、婦人が遺骨を抱いて帰り、故山に迎えた。郷里に帰られてから冬子夫人は、[伊波]先生の「琉球の五偉人」を平易に書き改めたり、放送したりして生活を支えておられたが、ついに人の情けにすがり私の近くの松川に、わずか六畳の部屋を借りてほそぼそと暮らしておられた。先生のご位牌を安置してあるだけで、琉大に譲り渡した残りの先生の旧稿や遺書を包んだ風呂敷があるだけで、調度品らしいものもなかった。それからタルーヤッチーと若い頃から親しみ慕っておられた山田有功先生ご夫妻のご好意で、先生の離れ家に引き取られて余生を送られた。
沖縄人物シネマ/牧港篤三 p183(一部編集)


1959(昭和34)年の春、冬子さんは郷里沖縄に帰ってきた。冬子さんの本籍地が東京都中野区となっているため、帰郷するのにも、当時はパスポートを必要とした。生まれ島の那覇に帰っても、転々と居を移している。やがて、山田有功さんの離れの六畳間一間台所付きトタン葺きの家屋に冬子さんは住み着いた。
沖縄人物シネマ/牧港篤三 p186


伊波普猷の命日は物外忌として墓のある浦添で夏に行われています。

授産事業としての人形作り

戦争を経て沖縄には未亡人が多数発生し、男女比のバランスも人口の年齢構成も狂いました。

タイトルの授産事業なのですが、琉球人形や日本人形を生活に苦しむ女性への授産事業として生産させたというのは初めて知りました。戦後に女性が経済的自立を目的として理容師(パーマ屋)やドレスメーカーとして手に職をつけたというのはわかっていましたが、土産物の人形作りということにそういう背景があったのかと驚きます。
子供の頃近所で土産物を内職して干していたのを見かけることがあったのですが、どこかの工場で生産するにしろ、内職として作るにしろ、作業自体は軽作業でしょうから手頃なものだったのかもしれません。

第三代会長(1952〜54)は中村信(1905〜97)である。
婦連会長となった中村信が最も力をいれたのは授産事業だった。戦争ですべてを失い、職を求める女性たちが多く、婦連にも子供をつれた戦争未亡人たちが連日おとづれて仕事の斡旋を頼みにきた。(略)これを婦連の授産事業として各市町村から会員120名を集め、1人1ヶ月二千円の補助金を出して婦連会館に宿泊させ、3ヶ月の間毎日天久にあったエーザ社に通い、技術を習得させた。(略)
また人形作りのため東京に会員を派遣、帰って来た後、日本人形や琉球人形の講習会も行った。これも希望者が多く、製品は米人相手によく売れた。戦前までほとんど作られなかった琉球人形などが戦後、米人や観光客に売れるようになったのは、中村ら当時のリーダーたちが壁にぶつかり挫折をしながらもその基礎づくりに努力した結果だといえる。
なは・女のあしあと(戦後編) p206、207(省略と抜粋)

那覇への人口集中

1950年に人口5万人足らずであった那覇市は、54年9月に首里市と小禄村を合併して人口11万人になり、57年に真和志市と合併、人口18.7万人の都市になってさらに膨張を続けていた。その頃には那覇女とならぶ商いにたけた糸満女性たちも商売の本拠地を那覇へ移し、宮古や八重山、大島からも移住する人々が増えた。(略)
食料品や衣類、雑貨から建材まで女性たちは多様な商品を扱っていたが、看板に「卸・小売り販売」の文字が多くみられたのは零細な小売業者まで競ってLCを開設して商品を輸入したからであろう。市場が小さいせいもあるが、沖縄経済は機能未分化のまま推移し、輸出1に対する輸入の割合は7〜10という極端に輸入に頼った経済であった。
なは・女のあしあと(戦後編) p181、182(省略と抜粋)


現在への変化の兆しですね。離島の人達の移住の開始です。
ただ同時期には収容所から戻れない人の発生、土地割当制度、極端な住宅不足が同時進行しています。離島から移住してくる人がいる一方収容所から戻れない人もいるというちぐはぐな状況で、さらには土地接収による集団移動もあります。

機能未分化という指摘には頷けます。昭和の時代くらいまでは那覇市内にも個人経営の商店がまだまだたくさんあり、大概は女性が日用品を広範囲で商っていました。また自分で作って(作らせて)自分で売るような女性衣料品店も機能未分化の名残といえるかもしれません。

平和通りの宮古出身者、離島出身者が経営する飲み屋、むかしよくあった「さしみ屋」を経営した糸満出身者などなど那覇をよく見るとあの時代の名残は少し前までいくらでもありました。

1950年の長者番付

「なは・女のあしあと(戦後編)」から引用します。

1950年3月の長者番付をみると上位30位まで那覇、糸満を含む南部地域に集中し、密貿易ブームから貿易庁ブーム、自由貿易への流れの中で財を築いたことがうかがえる。
注目すべきは、上位20位の中に女性が6名も入っていることで、業種は、雑貨、劇場、飲食店、旅館・料亭の経営者等となっている。すべて那覇市の在住者で、中部や北部地域で女性が皆無であることをみれば、商都那覇に女性の活躍を促がす素地があることがわかる。
なは・女のあしあと(戦後編) p173、174(省略と編集)

1951年2月、待望の民間貿易が開始、貿易解禁とともに銀行にはLC(信用状)を開設する輸入業者が列をなし、貿易庁ブームにのって商売の基礎を築いた女性たちも加わって「LC時代の到来」と呼ばれた。(略)
過当競争にあった輸入業者は1953年頃にはかなり淘汰されていた。
なは・女のあしあと(戦後編) p172(編集)

1950年2月、那覇市へのオフリミッツ(米軍人、軍属の住宅地域への立ち入り禁止令)が解除され、米兵が民間地域で買い物をすることができるようになると、小売業やサービス業を営む女性たちはてぐすねひいて米兵が街へ繰り出す週末を待った。当時の那覇市は空軍基地をはじめ、多くの米軍基地を抱える基地の街であった。8月に旧市街地が開放されると、映画「八月十五夜の茶屋」のモデルとなったといわれる料亭ができ、数年のうちに辻町、波之上一帯は米兵相手の料亭やキャバレー、クラブ等が営業する歓楽街へと変貌していった。
なは・女のあしあと(戦後編) p173(編集)


まとめると、「1950年度の沖縄県長者番付の上位30位までが南部地域に集中、上位20位の中に女性経営者が6人はいっていてすべて那覇市在住者である」という感じでしょうか。
船越義彰さんの「狂った季節」の中でも玉城親慶原(だったかな?)にいた義彰さんが復興する那覇の様子を聞いて那覇へ移り住む描写があります。

今ではわかりにくいのですが現在の自衛隊那覇基地は米軍飛行場、小禄ジャスコ一帯も基地でした。小禄の基地時代を自分は覚えていないのですが開放地と呼ばれた返還後暫くの様子は覚えていますし、基地周辺に米軍相手のバーや売春街の残滓があったのも記憶しています(今もわずかにあるか)。
米兵相手の辻のステーキハウスももう無いですし、現代の若い人に伝えようと思うとと意外とめんどくさいですね...

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