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さしみ

方言で酢のことをアマジャキといいます。

アマジャキ /amaZaki/
(名詞) フェーイ hweeiともいうか。
意味:酢。シー Sii ともいう。昔は甘酒をいったものか。

http://ryukyu-lang.lib.u-ryukyu.ac.jp/srnh/details.php?ID=SN00656


料亭美栄の「夢の五段料理を味わう/古波蔵保好」という文に刺身のことが出てきますがその刺身は酢を使ったものでした。

沖縄でいう「さしみ」は、酢のものである。ナマの魚をつくりにして食べる習慣が生まれなかったのは、高温多湿のせいだった。(略)ナマを食べるより、酢のものにすれば、衛生的にも危なくないし、味も救われるということで、沖縄的な「さしみ」を思いついたのではないだろうか。「さしみ」に使われたのは、メバル、グルクンといった白身の魚である。薄づくりして酢に浸した。酢の作用で、薄づくりの表面が白くふやけてしまうのだが、これが沖縄の「さしみ」で、コドモだったころのわたしは、酢で半煮えみたいになった切り身に妙なおいしさを感じたのである。
http://ryukyu-mie.com/fivemenu/


沖縄には内地風の醤油が庶民階級には普及していません。なので気候のせいもあって酢づくりにしたのたと思いますが酢で食べるのもなかなか悪くないものです。
年寄りだと今でも酢で食べる人がたまにいます。
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安村書店 2

安村書店の写真の時期からもうすこし経った頃の平和通りです。
写真はRemembering Okinawaさんからの借用です。
平和通り
ビルも建ってるし人の服装も華やかになっています。
写真の店舗名(左)と昭和中期のゼンリン地図にのっている店舗名を抜出してみます(右)。


この頃はまだ生活物資を買う通りという感じがしますね。

48、9年頃の平和通り

平和通り(48〜49年頃)
写真はRemembering Okinawaさんからの借用です。この写真は歴史博物館のサイトやまちのたね通信などでも見ることができます。
博物館のキャプションによると「テント小屋からトタン屋根へと変わり、やや落ちついた頃。(1948-1949頃)」となっており、「写真集那覇百年のあゆみ」という書籍に掲載されていると書かれています(この本は持っています)。

写真を見ると、看板は左から「木村屋本店」「高良時計店」「月見食堂」と読み取れます。木村屋本店の看板にはパンという文字、月見食堂は和洋料理と書かれてあるのが見えます。
戦前の西武門付近には木村パン屋という名前の店がありましたがつながりがあるのかどうかは不明です。

この図の参考にしたのは「わかさ民俗地図」です。

高良時計店があった位置は栄橋通りからのつきあたりで下の図の位置、写真の後背部が現在の希望ヶ丘公園であるとすれば位置の推定はビンゴなんですけども。


参考:グダグダ(β) 市場通り(52年)

生和商店/真壁朝昭

東町で中国茶を商っていた生和商店の真壁朝昭です。

真壁朝昭
1884(明治17)年首里生、没年不詳。1905(明治38)年に上京し、その帰途、上海・福州・台湾の各地を漫遊して貿易市場を視察・調査する。1908(明治41)年に田名真亮外7名とともに合資組織として生和商店を創立し、経営者となった。1911(明治44)年には店舗を那覇石門交番所のとなりから那覇警察署の側に移転拡張するとともに、福州南台にも支店を開設し、さらに大工場をも別置して80名の現地労働者を使用する大規模な福建茶の製造を開始した。さらに1916(大正5)年、那覇区東町に店舗を新築し、その営業種目も福建茶のほか、紙傘、革枕、その他の雑貨まで拡げ、福建から台湾の基隆を経由して輸入するようになった。当時、沖縄が輸入する福建茶は年間約4000万斤であったが、その50%は朝昭らの生和商店によって輸入されたという。
近代沖縄の寄留商人から抜粋


革枕というのが耳慣れなかったのですが、写真をみると中国風味ですから中国からの輸入品だったのでしょう。
参考:第6回 革枕
関係ありませんがうちの爺様は陶枕(第4回 陶枕・ガラス枕)を愛用していましたがあれも中国風味でした。
大正5年の新聞記事にも生和商店の名前が見えます。

那覇警察署は古の親見世趾である。親見世というのは御店の義で古外国貿易の事務を管掌したる公衙である。其の前を見世の前と称えている。警察の門前に2株の大きな榕樹がある、4、5年前の暴風で吹き折られて、今は殆ど幹ばかり残っているようなもんだが元は随分繁っていた。昔はこの下に夷神の小祠があってビン人仲村渠姓が専ら祭祀を司っていたそうだ。屋号を同順といって今の仲村渠呉服店がそれである。
右側は西本町5丁目で左側が東町1丁目となっている。生和商店では支那茶を購う客が腰をかけている。森醤油問屋が明るくって目立つ。県庁第百四十七銀行、農工銀行が静かに相対している。
大正5年1月22日 琉球新報(省略抜粋)

生和商店
画像は「沖縄県立図書館 貴重資料デジタル書庫」からダウンロードした「沖縄県人事録/楢原翠邦編(大正5)」より切り出したものです。
【追記】画像内の文字は「生和洋行」となっていますが、当時の新聞広告を見ると福州の製造元が洋行で那覇市勧銀前が生和商店となっています。

関連:大正の仮屋の前

上原清善

上原清善さんが亡くなられました。
小禄出身の方ですが当ブログの番外編ということで取り上げます。那覇との関わりでは戦後神里原で風呂屋を営業されています。

市民のために有効に使って下さい-と小禄出身の上原さん、雅子さんは三日、市内・壷屋にある土地(439平方メートル)を市に無償譲渡した。「時価二億円」と言われる土地だけに、寄贈をうけた市側は大喜び。さっそく本年度予算一億六千万円をかけて「壷屋児童センター」を建設し、上原さん夫妻の好意に報いることになった。
---
今回譲渡した土地は、都心部の壷屋、通称「神里原通り」に面した一等地、同土地は上原さんが、今から30数年前、県下で三番目の“ふろ屋”「神里湯」を営んだゆかりの土地で、上原さんにとって事業の“発祥の地”だという。当時一帯には水道や井戸の施設がなく、ふろ屋経営は「もうけにもうかった」、上原さんは「自分の今日あるのも神里原の土地のおかげ。買い手も多かったが、市民によろこんでもらえる施設建設を」と思い今回の譲渡となった。
友好のかけ橋 上原清善伝 p147の新聞記事から抜粋


この記事は平良良松さんが市長の時代ですので復帰あたりですね。
参考:Google マップ - 壷屋児童館

また首里久場川の団地建設にも関わられています。
篤志家の信念 上原清善の生き方
篤志家の信念 上原清善の生き方
篤志家の信念 上原清善の生き方

コザと小禄でボウリング場を経営されるなど経営者としてもなかなかのものであったようです。
下記サイトで経歴を見ることができます。

小禄のひとびと(生年順)
http://takara.ne.jp/oroku/hitohito.html

南條宏・きみ子

南條みよし(安村ヨシ)さんの師匠、南条宏さんが沖縄出身というのが気になったので調べてみました。番外編です。
引用や情報はすべて「焼け跡のカーテンコール」という名古屋の舞踊史の本によります。

南條宏(高江洲康宏)
1899(明治32)年生、1978(昭和53)年没。
那覇市に士族として生まれ、幼少より舞踊に親しむ。1912年那覇市内の小学校を卒業すると佐賀県立佐賀第一中学校に入学、1926(大正15)年早稲田大学高等師範学校卒業、同年妻きみ子と結婚。1928(昭和3)年、南條きみ子舞踊研究所を開設するがきみ子の他界により南條宏舞踊研究所と改称する。

南條きみ子
沖縄出身。1907(明治40)年生、1939(昭和14)年没。
1925(大正14)年精華女学校時代に石井小浪に師事、洋舞を習う。1926(大正15)年結婚。


宏さんは那覇士族の出身で父は実業家だったそうですが、家が少年時代に事業に失敗したため苦学をしました。苦学時代に援助をしてくれた沖縄出身の富豪がおり、その人の娘が後年妻となるきみ子さんだったそうです。
南條と名乗ったのは「南の島から、はるばる海をわたり、山を越えてやってきたから」であり、「昭和3年以降に使用」したそうです。
創作舞踊からバレエ、日舞に至るまで幅広く教えていたようで、琉球舞踊も踊っていたようです。宏さんの経歴は踊りとは遠いように思えますが琉舞なども踊っていました。
名古屋での南條スクールはかなり大きく、弟子を多数輩出しています。

宏さんは「那覇市の士族の家に生まれる」と書いてあるのですが首里士族なのか那覇士族なのかあるいは他の士族なのかわかりません。高江洲姓で名乗りが康ということなら調べられそうですが調べてません(このブログは士族籍に冷たいことをモットーとしています)。
奥さんのきみ子さんの本名は高江洲きみ子となっていますが、これが旧姓であるのかもわかりません。しかし内地の学校に学ぶことのできる財力がある以上家はかなり裕福だったのでしょう。

【追記】弟子である南条みよしさんの自伝(私の戦後史 第8集)からの情報を追加します。

ある日、南条君子先生のトウシューズをはいてバレエを躍っている写真が新聞に大きく載っていました。その記事を読んでみますと、沖縄県立第一高等女学校出身で、石井小浪先生の弟子、またご主人の宏先生も沖縄県立第一中学校のご出身とのこと。早稲田大学の文学部英文科卒業で、大学時代江口隆哉・宮操子ご夫妻にバレエの指導を受けられたということでした。
納豆売りをしながら苦学、舞踊を研究したそうで。その後も学校の教員をしながら名古屋でバレエ研究所を開設したが、現在ではバレエ一筋に生き、幾多の弟子を養成なさっていることがわかりました。
私の戦後史 第8集 p254(抜粋)

オランダ屋敷 2

オランダ屋敷から続いているようなそうでないような話です。

[南風原]朝保の毎朝の日課は白いスーツに身をつつみ手にはステッキを持ち、[古波蔵]登美さんと手を組んで散歩をすることだった。戦争の傷跡がまだ生々しい那覇の街で、ふたりの姿は目をひいたという。
朝保は那覇市で南風原医院を新たに開業している。場所は泊港に近い安里の高台にあり、港に船が入る様子も手にとるようにわかり、夜になると那覇の夜景が一望できたという。敷地は500坪もあったが、借地である。ここに朝保本人が設計した屋敷と医院を建てた。医院の前には小さいながらも車まわしがある凝った造りだった。この安里は朝保兄弟が貧しい少年期を過ごした村であった。兄弟を女手ひとつで育てた母のためにも、この地で屋敷を構えることができたのは喜びであっただろう。
ここは人々に「オランダ屋敷」と呼ばれた。その理由は、この地に明治末期から大正にかけて、メソジスト派のアメリカ人宣教師シュワルツが暮らしていたからである。(略)南風原医院はここから近い所に建ったため「オランダ屋敷」と呼ばれることになったようだ。
ところが、この医院の問題は高台にあることだった。自動車もそうなかった当時の沖縄で、病人が歩いてこの医院にやってくることは無理だったのだ。このオランダ屋敷の医院はあまり繁盛しなかったという笑い話になっている。
のちに朝保は那覇のメインストリートになった国際通り近くの牧志というところに病院を建てている。
美麗島まで/与那原恵 p208,209(抜粋と引用)


終戦まで台湾で医院を開いていた南風原朝保が沖縄に帰って来てからひらいた南風原医院の話です。文中にも出ていますがオランダ屋敷の敷地ではなく「近く」にあったようです。
「美麗島まで」は南風原朝保の孫にあたる与那原恵さんが家族の歴史をたどった本です。そう言い切ってしまうとそれだけの話でしかないと思われるかもしれないのですが、そういう内容でありながら近代沖縄の歴史を同時に書出すという味わい深いものになっています。

朝保の妻であった登美さんは昭和36年に朝保が死去した後籍を抜いて古波蔵姓に戻り、久茂地に「美栄」という琉球料理店を開きます。登美さんの兄は古波蔵保好さんでこの人は美食家でもありました(説明は改めてします)。
「美栄」は沖縄で高級でおいしくちゃんとした琉球料理を食べようと考える時には必ず名前があがる店です。意外と「ちゃんとした」琉球料理を食べようと思うと選択肢はそれほどないのです。
オランダ屋敷
図の茶線はマカン道、ピンクが大体で推定したオランダ屋敷です(真和志民俗地図による)。南風原朝保のオランダ屋敷はこの近くにあったようですのでお間違いのなきよう。

オランダ屋敷から移った南風原医院は当時の新聞広告を見ると元市役所通り(現グランドオリオン通り)の映画館のそばあたりにあったようです。下図は地図中心363号掲載の図(1955年)を参考に作成しました。

大坪岩次郎・大坪嘉太郎

寄留商人の大物の大坪兄弟です。西本町で大坪商店をやっていました。

大坪岩次郎
1859(安政6)年鹿児島生。1876(明治9)年寄留、通堂に店舗を開き、米穀類、砂糖売買取引を始める。その後兄の嘉太郎と鹿児島汽船会社を設立、解散後も鹿児島郵船株式会社の重役となる。また中馬政次郎・古野島吉と協力して沖縄新聞を創刊する。
1907(明治40)年に那覇区会議員、1909(明治42)年には県会議員。1910年には那覇区会議員に再選されるが同年11月には辞職し、那覇支店(大坪商店)を従兄弟の桑原直太郎に委託して鹿児島に引き上げ本店の経営にあたった。
没年不詳。
近代沖縄の寄留商人から抜粋編集


大坪嘉太郎
1855(安政2)年鹿児島生。1872(明治4)年家督を相続し実業に専念、弟の岩次郎の寄留語は鹿児島沖縄間の地の利を生かして砂糖・米穀類の取引に手腕を発揮した。1897年には鹿児島汽船株式会社を設立して取締役社長、1905年には鹿児島郵船株式会社の取締役。
嘉太郎・岩次郎兄妹をはじめとする鹿児島系商人たちは、鹿児島郵船株式会社を拠点にして、大阪系の大阪商船会社や沖縄土着支配層の広運会社と対抗したが、その主たる狙いは沖縄の砂糖取引を有利に展開するためであった。嘉太郎の本領はむしろ砂糖取引の面で発揮され、1885(明治18)年に大阪砂糖株式会社社長に就任して以来、大阪の砂糖商人のあいだで指導的地位を保持しつづけたばかりでなく、1916(大正5)年8月、資本金300万円で設立された沖縄製糖株式会社の社長にも就任し、沖縄〜大阪間の砂糖取引を左右しうる実力をもつにいたった。
没年不詳。
近代沖縄の寄留商人から抜粋編集


大坪商店は自動車の移入で有名です。
自動車が沖縄にやってきたのは1916(大正5)年5月。那覇区西本町の大坪商店が1台輸入し、糸満、名護など沖縄本島各地を走行して付近の人々を驚かせたと当時の新聞にある。
http://rca.open.ed.jp/city-2002/road/history/index.html

大坪商店

米穀の輸入と黒糖の輸出ですから運送会社が必要、輸出した品物を売る際にも現地の人間が必要です。なので寄留商人は内地と沖縄で店舗を持っている場合がありますが海運会社まで持っているから圧倒的です。沖縄県内の市場は小さいのでこういう商売のやり方が儲ったのでしょう。
それに砂糖は砂糖前代での拘束、前代の利子での利潤、内地での販売価格と沖縄県内での買い取り価格の落差もありますからぼろ儲けでもありました。

写真は下記サイトさまからお借りしています。m(_ _)m
http://blogs.yahoo.co.jp/pusan_de/3116174.html

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