オランダ屋敷から続いているようなそうでないような話です。
[南風原]朝保の毎朝の日課は白いスーツに身をつつみ手にはステッキを持ち、[古波蔵]登美さんと手を組んで散歩をすることだった。戦争の傷跡がまだ生々しい那覇の街で、ふたりの姿は目をひいたという。
朝保は那覇市で南風原医院を新たに開業している。場所は泊港に近い安里の高台にあり、港に船が入る様子も手にとるようにわかり、夜になると那覇の夜景が一望できたという。敷地は500坪もあったが、借地である。ここに朝保本人が設計した屋敷と医院を建てた。医院の前には小さいながらも車まわしがある凝った造りだった。この安里は朝保兄弟が貧しい少年期を過ごした村であった。兄弟を女手ひとつで育てた母のためにも、この地で屋敷を構えることができたのは喜びであっただろう。
ここは人々に「オランダ屋敷」と呼ばれた。その理由は、この地に明治末期から大正にかけて、メソジスト派のアメリカ人宣教師シュワルツが暮らしていたからである。(略)南風原医院はここから近い所に建ったため「オランダ屋敷」と呼ばれることになったようだ。
ところが、この医院の問題は高台にあることだった。自動車もそうなかった当時の沖縄で、病人が歩いてこの医院にやってくることは無理だったのだ。このオランダ屋敷の医院はあまり繁盛しなかったという笑い話になっている。
のちに朝保は那覇のメインストリートになった国際通り近くの牧志というところに病院を建てている。
美麗島まで/与那原恵 p208,209(抜粋と引用)終戦まで台湾で医院を開いていた南風原朝保が沖縄に帰って来てからひらいた南風原医院の話です。文中にも出ていますがオランダ屋敷の敷地ではなく「近く」にあったようです。
「美麗島まで」は南風原朝保の孫にあたる与那原恵さんが家族の歴史をたどった本です。そう言い切ってしまうとそれだけの話でしかないと思われるかもしれないのですが、そういう内容でありながら近代沖縄の歴史を同時に書出すという味わい深いものになっています。
朝保の妻であった登美さんは昭和36年に朝保が死去した後籍を抜いて古波蔵姓に戻り、久茂地に「美栄」という琉球料理店を開きます。登美さんの兄は古波蔵保好さんでこの人は美食家でもありました(説明は改めてします)。
「美栄」は沖縄で高級でおいしくちゃんとした琉球料理を食べようと考える時には必ず名前があがる店です。意外と「ちゃんとした」琉球料理を食べようと思うと選択肢はそれほどないのです。

図の茶線はマカン道、ピンクが大体で推定したオランダ屋敷です(真和志民俗地図による)。南風原朝保のオランダ屋敷はこの近くにあったようですのでお間違いのなきよう。
オランダ屋敷から移った南風原医院は当時の新聞広告を見ると元市役所通り(現グランドオリオン通り)の映画館のそばあたりにあったようです。下図は地図中心363号掲載の図(1955年)を参考に作成しました。

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