寄留商人の大物の大坪兄弟です。西本町で大坪商店をやっていました。
大坪岩次郎
1859(安政6)年鹿児島生。1876(明治9)年寄留、通堂に店舗を開き、米穀類、砂糖売買取引を始める。その後兄の嘉太郎と鹿児島汽船会社を設立、解散後も鹿児島郵船株式会社の重役となる。また中馬政次郎・古野島吉と協力して沖縄新聞を創刊する。
1907(明治40)年に那覇区会議員、1909(明治42)年には県会議員。1910年には那覇区会議員に再選されるが同年11月には辞職し、那覇支店(大坪商店)を従兄弟の桑原直太郎に委託して鹿児島に引き上げ本店の経営にあたった。
没年不詳。
近代沖縄の寄留商人から抜粋編集大坪嘉太郎
1855(安政2)年鹿児島生。1872(明治4)年家督を相続し実業に専念、弟の岩次郎の寄留語は鹿児島沖縄間の地の利を生かして砂糖・米穀類の取引に手腕を発揮した。1897年には鹿児島汽船株式会社を設立して取締役社長、1905年には鹿児島郵船株式会社の取締役。
嘉太郎・岩次郎兄妹をはじめとする鹿児島系商人たちは、鹿児島郵船株式会社を拠点にして、大阪系の大阪商船会社や沖縄土着支配層の広運会社と対抗したが、その主たる狙いは沖縄の砂糖取引を有利に展開するためであった。嘉太郎の本領はむしろ砂糖取引の面で発揮され、1885(明治18)年に大阪砂糖株式会社社長に就任して以来、大阪の砂糖商人のあいだで指導的地位を保持しつづけたばかりでなく、1916(大正5)年8月、資本金300万円で設立された沖縄製糖株式会社の社長にも就任し、沖縄〜大阪間の砂糖取引を左右しうる実力をもつにいたった。
没年不詳。
近代沖縄の寄留商人から抜粋編集大坪商店は自動車の移入で有名です。
自動車が沖縄にやってきたのは1916(大正5)年5月。那覇区西本町の大坪商店が1台輸入し、糸満、名護など沖縄本島各地を走行して付近の人々を驚かせたと当時の新聞にある。
http://rca.open.ed.jp/city-2002/road/history/index.html
米穀の輸入と黒糖の輸出ですから運送会社が必要、輸出した品物を売る際にも現地の人間が必要です。なので寄留商人は内地と沖縄で店舗を持っている場合がありますが海運会社まで持っているから圧倒的です。沖縄県内の市場は小さいのでこういう商売のやり方が儲ったのでしょう。
それに砂糖は砂糖前代での拘束、前代の利子での利潤、内地での販売価格と沖縄県内での買い取り価格の落差もありますからぼろ儲けでもありました。
写真は下記サイトさまからお借りしています。m(_ _)m
http://blogs.yahoo.co.jp/pusan_de/3116174.htmlPR