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桜坂のでき始め

昨年[1952年]那覇保健所長当山堅一が平和通りの東台地に住んだころは、岸本印刷所・音楽学校・珊瑚座以外に建物はなかったという。
大宜味村で北部劇場を経営していた山城善光は、島袋光裕・真喜志康忠と共同経営で、鉄筋コンクリートの珊瑚座を52年2月に完工。
同年珊瑚座の向かい側に飲屋が6軒最初にでき、桜坂オリオンも建った。飲み屋は54年に23軒でき、55年には桜坂中通りの十字路一帯には54軒のバーが並んだ。居酒屋はやぼな店となり、しゃれた作りのスタンドバーや、バーテンのいるバー、ボーイやダンサーを抱えているキャバレー、40人のホステスとバンド付きのキャバレーも現れた。
56年にバー・キャバレー・小料理屋が78軒、ホステスは約500人、泡盛を置いているおでん屋・割烹屋が68軒で、女給は約400人。
57年11月23日の午前11時、旅館の石油コンロから出荷した火は6軒を焼いた。59年4月、桜坂で15軒24世帯全焼。
戦後の沖縄世相史 p57〜59(省略と抜粋)


音楽学校は現在の桜坂劇場向かいあたりでしょうか。敷地は後年那覇無尽になってます。
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戦後初期の辻

都市計画に基づき辻町を区画整理、辻原墓地の墓群は識名霊園に移動させた。そのため今年と翌年[1955〜56年]は建墓ブームになった。しかし、跡地はバーが雲集する歓楽郷になった。Aサインバーはストリップやエロフィルムを見せる。
建築第一号は52年一月に料亭「八月十五夜の茶屋(のち松の下)」の瓦葺き二階建て170坪が完工。
昨年から今年にかけて[1954~55年]建築ラッシュとなり、料亭3軒、バー・キャバレー23軒、女給は約250人である。連れ込み宿が51軒。
戦後の沖縄世相史 p68、69(省略と抜粋)


松の下の経営者、上原栄子は「辻の華」という本を出しています。この人は美貌(だけではないはずですが)でのしあがったのですが、戦前の風貌が木村伊兵衛撮影の「那覇の芸者」という写真で残っています。
確かに美人ですが(自粛)
参考:那覇の芸者 - Google 検索

辻は伝統文化育成・継承の側面もあり売春だけではなかった、というのはよく言われる事です。自分も矯風会のような道徳運動は好きではありませんがそれを抜きにしても酷い面はありました。
内地の遊郭とその後継のような赤線には高利貸の借金による拘束があったと思いますが、戦後沖縄でも売春地帯ではそのようなことが起きています。地方の人間を騙して連れてくる、無法な高利を押しつけ無知につけこんで働かせる等々酷いもんです。

戦前の辻町そばの辻原墓地については下記リンク参照。
参考:グダグダ 辻周辺
参考:グダグダ 辻原

当時の新聞記事にはエロ本など(奇談なんとか)を持込もうとして摘発されている記事があります。エロフィルムも輸入されたんでしょうねぇ。

ハーバービュー

54年から57年にかけて、那覇高校-政府間の俗称ハーバービューには100戸たらずの家しかなかった。この一帯に夜の女が2、300人出没し、その女と組む暴徒がはびこった。
56年には3、4日に一度は暴力・傷害沙汰があった。暗闇から「遊んでいかない」と女の声がかかる。断ると、たむろしていた三人の青年が殴る蹴るの暴力をふるう。警官が駆けつけても犯人は逃げた後で、警察にとってこの一帯は持て余し気味。
57年末、警察と住民による環境浄化運動で追い立てられた売春婦が、58年5月から舞い戻り、100人余が客引きを始めた。それに乗じて傷害前科者の出入りもはげしくなった。
風俗営業者でハーバービュー連合を結成して環境浄化に取り組んだが、愚連隊を追い出す力はない。
戦後の沖縄世相史 p75、76(省略と抜粋)


他の本で終戦後の特飲街として「ミナトムラ」があげられていることがありますが、みなと村作業隊の宿泊地に売春地帯があるとは思えないので隣接したこのあたりを指していったのだと思われます。みなと村は復興を目的とした作業隊の宿泊地のようなもので50年に那覇市に合併されて消滅します。

参考:Category/みなと村
上の引用は54年から58年くらいまでの範囲を書いているのでみなと村が無くなってあとの話ですね。ハーバービューは52年から復帰までですが、高級社交場のそばに売春・暴力犯罪地帯があった時期があるというのも皮肉なもんです。
また琉球警察は給料も安く常に人員は不足していたそうです。

1952年に開設された。正会員はアメリカ人が中心であったが、琉球政府高官など政官財各界の指導階層も名誉会員にしており、社交の場として盛んに使用された。そのため、別名「沖縄鹿鳴館」とも呼ばれた。
ハーバービュー・クラブ - Wikipedia

神里原通りのようす 2

神里原通りの続きのようなもんです。

昼間は商いで活況を呈する神里原通りは、夜もふけると酒屋台が登場する。新栄橋から神里原通りに抜ける路地にも屋台が並び、約30店が深夜4時まで営業、飲屋の閉店で流れて来た酔客同士のけんかが絶えない。神里原には元AJ社の暴れ者だった不良グループが飲み屋をたかり、通行人を相手に揉みクジ賭博をやっている。
神里原通りが衰微し始めたのは53年始め。丸金デパートが経営難で人手に渡り、52年12月、リウボウが2階を借りたが54年4月国際通りに移転した。通りの路地裏にある7軒の食堂に客はさっぱり。半年の寿命で経営者が替わってゆく。戦前、石門通りにあった三角屋はここで四苦八苦。客は新しい桜坂通りにさらわれた。
壷屋にあった東陽バスターミナルも54年頃移転したため、ここにあった食料品の卸市場が消え、地方の人はここを訪れなくなった。
山形屋が55年1月国際通りに、松坂屋も国際通りに移った。横町にある那覇バー街の草分け“銀座通り”は55年に消えた。大洋劇場裏の飲屋・小料理屋の十数軒は細々と営業。暴力沙汰は酒場の激減とともに影をひそめた。
戦後の沖縄世相史 p47、48(省略と抜粋)


当時の経済状況などは経済の背景(2)を参照して下さい。とりあえず左の里芋畑があった湿地帯が右の繁華街に変化しただけでも驚きます。
神里原周辺と大洋琉映館神里原の山形屋

戦前石門通りにあった三角屋周辺のことについて船越義彰さんが思い出を語っています。
参考:グダグダ チコンキ・蓄音機
この三角屋は三越の隣にある三角屋だと思うんですがちゃんと確認はしていません。

【追記】
那覇まちのたね通信 | 那覇(平和通り)/神里原大通り (1951頃)
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=1726

山形屋・マルキンデパート

マルキン・りうぼう
この図はマルキンデパート・リウボウ・山形屋で使ったもので、参考にしたのは昭和26年発行の地図です。
神里原の山形屋
この写真は那覇市のサイトから無断借用(すみません)していますが、「戦後の沖縄世相史」にも同じものが掲載されていて、キャプションは「神里原通り、左の建物は丸金デパート、右は山形屋」とされています。
写真はおそらく330号線側からの撮影。

那覇まちのたね通信 | 那覇(平和通り)/神里原大通り (1951頃)
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=1726

この写真は別方向からのもので、神里原大通りをマルクニ側から330号に進む途中の風景。

神里原通りのようす

神里原通りは、新栄通りの丸国マーケット入口から東の神里十字路まで約500メートルの距離。
里芋畑の低湿帯だったのを、昨年6月から道路工事を行い、城岳の石を削り取って敷いたが排水溝がなく、雨が降るとぬかるんだ。ガーブ河がはんらんするとここも洪水になった。
50年4月、土地所有権が公布されると商店の建築ラッシュが続いた。神里原通りに雑貨店44軒、飲食店・料理屋が11軒、洋裁店9軒、美容店7軒ほか書店・衣料店・製氷店・旅館・金物店・畳店・ビンゴ屋・湯屋・ダンスホールなどが100軒あまりあり、裏通りにも100軒余の商店が軒を並べる。50年4月、通りの入り口に棟割りテナント丸国マーケットができ、5月に最初のデパート山形屋が建ち、12月に最初の鉄筋三階建て丸金デパートが完成した。
戦後の沖縄世相史 p36(省略と抜粋)

神里原周辺と大洋琉映館神里原周辺と大洋琉映館
写真は歴史博物館から無断拝借しております(すみません)。キャプションは「神里原周辺と大洋琉映館/昔の那覇劇場(壺屋1丁目1あたり)から大洋琉映館(矢印・壺屋1丁目3あたり)を眺めたところ」となっています。右図は神里原付近の地図に劇場の位置を書き込んだものです。

当時の道はこんな感じで、その下の写真は那覇市のサイトから拝借した神里原時代の山形屋です。
マルキン・りうぼう
神里原の山形屋
参考:グダグダ マルキンデパート・リウボウ・山形屋

【追記】
那覇まちのたね通信 | 那覇(平和通り)/神里原大通り (1951頃)
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=1726

拡張後の国際通り

国際通りは道路幅を拡張されています。引用した文は1955(昭和30)年頃のようすです。

牧志大通りを幅12間の拡張道路に、市は打ち出したが地主に反対され、歩道を含めて10間幅(18M)に落ち着いた。昨年[※1954年]12月5日早朝5時、牧志通り開通式。
ガーブ橋は公募の多数票で53年6月10日むつみ橋に改称した。
牧志のバス停付近は狭い空地を利用したにわか屋台や、ガム・チョコを売る立ち売り少年らで、ときならぬ盛り場風景をかもしている。
国際通りにはリウボウ・山形屋・たから百貨店・友寄百貨店・松坂屋・大越(57年)・民衆百貨店などのデパートが開店した。国際劇場に向かって右となり球陽堂書店、左となりに井筒屋があり、波上のしにせソバ屋である。国際通りの二階に60年頃牧志卓球場ができた。
戦後の沖縄世相史 p66、67(省略と抜粋)

写真はRemembering Okinawaさんから。ちょうど三越あたりから現在のてんぶすを見た感じのアングルで、中央が国際劇場、右手に球陽堂、写真には入っていない右手にたから百貨店があります。友寄百貨店は平和通り入り口そばです。
また大越は後年三越になります。

たから百貨店に関しては下のリンクを参考にして下さい。
参考:グダグダ たから百貨店
波の上の西武門あたりにあった井筒屋の位置はゆたか屋を参照。

この工事で立ち退きになった人達は新しい埋立地であった重民町(現在は前島になっている)に移動しました。
参考:グダグダ 泊港南岸埋立地

卓球場は小さなブームがあったようで、農連そばの水上店舗にもピンポンと書かれた字が残っています。少なくとも80年代には卓球場はもう無く、水上店舗の二階はビリヤード場がいくつかありました。

Atkinson Jones Construction Company

よく戦後の基地建設でAJ社という名前が出て来ますがアメリカの建設会社のAtkinson Jones Construction Companyの略です。
正確にはロサンゼルスのアトキンソン社とアトランタのジョーンズ社のジョイント・ベンチャー(共同企業体/JV)です。
参考:共同企業体 - Wikipedia

1946〜1949年 AJカンパン
普天間にはアトキンソン・ジョーンズ社というアメリカの会社の従業員住み込み宿舎があり
この会社は基地建設を請け負いました。
AJカンパンには他市町村出身者が多く住み込み、
多い時には3,000人もの人々が働いていました。

http://futima1.ti-da.net/e2847124.html


他には下記アドレスなど。
http://www.oocities.org/gingercleo/Oki1950s.html

例として「那覇市史資料篇 第3巻6」の市長事務引継書から引用します。

労務調 1948年2月25日現在
通勤者2487
住込 940
計 3427

内訳
A.Jカンパニー 227
港湾作業隊 339
556 117
Q M 230
66TT 358
11通信□ 238
那覇エンジニアデポー 179
外他部隊 1739
合計 3427
那覇市史資料篇 第3巻6 p18(編集)


ちなみに東恩納寛仁(昭和21年7月〜昭和23年2月)から仲本為美(昭和23年3月〜昭和24年11月)への引き継ぎ書類で、シーツ善政による那覇市内からの部隊の撤退が始まる以前の話です。
歴代那覇市長は下記アドレスを参照して下さい。

http://www.city.naha.okinawa.jp/mayor/rekidai/index.htm

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