54年から57年にかけて、那覇高校-政府間の俗称ハーバービューには100戸たらずの家しかなかった。この一帯に夜の女が2、300人出没し、その女と組む暴徒がはびこった。
56年には3、4日に一度は暴力・傷害沙汰があった。暗闇から「遊んでいかない」と女の声がかかる。断ると、たむろしていた三人の青年が殴る蹴るの暴力をふるう。警官が駆けつけても犯人は逃げた後で、警察にとってこの一帯は持て余し気味。
57年末、警察と住民による環境浄化運動で追い立てられた売春婦が、58年5月から舞い戻り、100人余が客引きを始めた。それに乗じて傷害前科者の出入りもはげしくなった。
風俗営業者でハーバービュー連合を結成して環境浄化に取り組んだが、愚連隊を追い出す力はない。
戦後の沖縄世相史 p75、76(省略と抜粋)他の本で終戦後の特飲街として「ミナトムラ」があげられていることがありますが、みなと村作業隊の宿泊地に売春地帯があるとは思えないので隣接したこのあたりを指していったのだと思われます。みなと村は復興を目的とした作業隊の宿泊地のようなもので50年に那覇市に合併されて消滅します。

参考:
Category/みなと村上の引用は54年から58年くらいまでの範囲を書いているのでみなと村が無くなってあとの話ですね。ハーバービューは52年から復帰までですが、高級社交場のそばに売春・暴力犯罪地帯があった時期があるというのも皮肉なもんです。
また琉球警察は給料も安く常に人員は不足していたそうです。
1952年に開設された。正会員はアメリカ人が中心であったが、琉球政府高官など政官財各界の指導階層も名誉会員にしており、社交の場として盛んに使用された。そのため、別名「沖縄鹿鳴館」とも呼ばれた。
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