神里原通りの続きのようなもんです。
昼間は商いで活況を呈する神里原通りは、夜もふけると酒屋台が登場する。新栄橋から神里原通りに抜ける路地にも屋台が並び、約30店が深夜4時まで営業、飲屋の閉店で流れて来た酔客同士のけんかが絶えない。神里原には元AJ社の暴れ者だった不良グループが飲み屋をたかり、通行人を相手に揉みクジ賭博をやっている。
神里原通りが衰微し始めたのは53年始め。丸金デパートが経営難で人手に渡り、52年12月、リウボウが2階を借りたが54年4月国際通りに移転した。通りの路地裏にある7軒の食堂に客はさっぱり。半年の寿命で経営者が替わってゆく。戦前、石門通りにあった三角屋はここで四苦八苦。客は新しい桜坂通りにさらわれた。
壷屋にあった東陽バスターミナルも54年頃移転したため、ここにあった食料品の卸市場が消え、地方の人はここを訪れなくなった。
山形屋が55年1月国際通りに、松坂屋も国際通りに移った。横町にある那覇バー街の草分け“銀座通り”は55年に消えた。大洋劇場裏の飲屋・小料理屋の十数軒は細々と営業。暴力沙汰は酒場の激減とともに影をひそめた。
戦後の沖縄世相史 p47、48(省略と抜粋)当時の経済状況などは
経済の背景(2)を参照して下さい。とりあえず左の里芋畑があった湿地帯が右の繁華街に変化しただけでも驚きます。


戦前石門通りにあった三角屋周辺のことについて船越義彰さんが思い出を語っています。
参考:
グダグダ チコンキ・蓄音機この三角屋は三越の隣にある三角屋だと思うんですがちゃんと確認はしていません。
【追記】
那覇まちのたね通信 | 那覇(平和通り)/神里原大通り (1951頃)
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=1726PR