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大正2年の象見物

那覇市史に象が来ていた記録がありました。

[大正2年]3月14日 旧2月7日 晴天 北風
旧郵便局跡にて象を見物したり、但賃金10銭なり、小人は5銭。其色は黒灰色、高さ8尺、長さ1丈、鼻の長さ1尺余、廻りは6、7寸位にして、其のせなかに人間が乗り、ラッパを鼻で吹き、旗を振り、萩の葉を掛けて喰い、また1尺5寸位の四角台に登る等仕業がありたり。インド出産にして台湾を経て来たる由。歳は5才、食物は一日米1斗甘藷の葉500斤なりき。
那覇市史資料編第2巻下/仲浜政茂氏日記 p452(引用と編集)


8尺は2.5メートルくらいでしょうか。インドからと書いてありますが小柄なので東南アジアのアジアゾウのような感じですね。
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真嘉比インターチェンジ

現在の真嘉比交差点そばにあった真嘉比インターチェンジです。インターチェンジというと大げさですが、バイパスは中央分離帯があるため側道に入るには立体交差が必要だったのです。

興南高校の南側でくるっと弧をかいてるのがわかります。
バイパスは昔に比べて信号が増えたという実感があるんですよね。
真嘉比インター
1970年に当時の琉球政府道41号線(現国道330号)のバイパスが安里交差点~古島ICが部分開通したのに伴い供用された。
供用開始から1997年までは市道(真嘉比古島線)から国道側の古島IC方面(北行き)へは高架橋で国道を跨ぎ、左旋回で交差するという方式だったが、国道西側の米軍住宅地返還による新都心地区開発に伴い、市道の高架橋を新都心側(新都心西通り線)へ改良・延長、国道側の出入口を撤去した(高架橋は改良工事のため一時閉鎖、国道へは高架橋を通らずに平面交差)。新都心西通り線が整備された2001年に高架橋が再供用された。
真嘉比インターチェンジ - Wikipedia


カラーの航空写真は国土交通省のもので加工は自分によります。
整理番号 COK-77-1
地形図番号 NG-52-27-7
撮影コース C57
撮影年度 昭和52年度
国土情報ウェブマッピングシステム
http://w3land.mlit.go.jp/WebGIS/index.html

古島インターチェンジ

Images of Okinawa after World War IIに建設中の古島インターチェンジの写真がありました(説明は内間となっています)。
古島インターチェンジ
http://digicoll.manoa.hawaii.edu/okinawa/Pages/viewtext.php?s=browse&tid=233&route=browseby.php&city=Uchima&by=city&s=browse
インターチェンジの北の高所から南へ向かって撮られています。奥の赤い矢印が安里のタンク、その手前のオレンジのポインタが切り通し造成、右側の米軍住宅内の緑ポインタは丘です。


1970年に当時の琉球政府道41号線(現国道330号)のバイパスが安里交差点~当IC間が部分開通したのに伴い供用された(当時は那覇市街方面の南行きのみ)。バイパスが当時自動車専用道路として建設されたため、交わる幹線道路とはICによる立体交差となった。1971年には当IC~大平IC間の部分開通したのにともない、浦添市方面の北行きも供用された。
古島インターチェンジ - Wikipedia


交差する環状2号ができるのは少しあとです。

本土復帰後、那覇市安謝 - 首里儀保町の環状2号線が全線完成(当時は那覇市道)。その後南風原村(現南風原町)新川 - 那覇市上間一日橋間も完成。
沖縄県道82号那覇糸満線 - Wikipedia


昭和のゼンリン地図を見る限りでは、古島インター周辺は人家も少なくブロック工場などがちらほらある場所でした。
復帰前後の道路開通によって様変わりした一帯といっていいかと思います。

カラーの航空写真は国土交通省のもので加工は自分によります。
整理番号 COK-77-1
地形図番号 NG-52-27-7
撮影コース C57
撮影年度 昭和52年度
国土情報ウェブマッピングシステム
http://w3land.mlit.go.jp/WebGIS/index.html

小禄解放地

昭和52年の小禄あたり、航空写真は国土交通省のもので、加工は自分がしています。まだ再開発がされておらず建物が残っていますが、このあと建物が撤去されて野原になり、その後区画されました。新都心もそうですが、ある年代の人達は那覇で野原を駆け巡る遊びをしているはずです。
小禄開放地
整理番号 COK-77-1
撮影年度 昭和52年度
地形図番号 NG-52-27-7
撮影コース C59
国土情報ウェブマッピングシステム
http://w3land.mlit.go.jp/WebGIS/index.html


1977(昭和52)年はまだ自衛隊の道路(図の左側)が開放されておらず、那覇軍港から空港へ向かう高架橋もできていません。現在モノレールが通っている道もまだです。
参考:国道332号 - Wikipedia

モノレール以前の旭町

昭和52年、ベニヤ工場があったころの旭町です。国場川に丸太が浮かんでいるのが見えます。
航空写真は国土交通省のもので、加工は自分がしています。

整理番号 COK-77-1
撮影年度 昭和52年度
地形図番号 NG-52-27-7
撮影コース C59
国土情報ウェブマッピングシステム
http://w3land.mlit.go.jp/WebGIS/index.html


バス駐車場や沖電は昔からですが周囲は様変わりしましたね。

工場が無くなったおかげで釣った魚も食えるようになったらしいですな(笑)。上流の豚舎が少なくなったってのもあるでしょうけども。
今もかわらないのは沖縄電力の殿様ぶりくらいか。

琉煙・沖煙

まず「琉煙」。
wikipediaによると「那覇市壷川285-1」ですが那覇市の住所検索でしらべてみると「壺川1丁目14番地2」になるようです。図は昭和中期のゼンリン地図での位置。


「沖煙」は古波蔵在となっていますからゼンリン地図のこの工場がそのまま会社だったのでしょう。小さな会社だったようなのでこんくらいの規模か。


オリエンタル煙草はWikipediaだと豊見城の根差部になっています(根差部699)。

戦後の煙草

「戦後の沖縄 たばこの歴史」という本を参考に戦後沖縄での三つの会社の成り立ちをまとめてみます。

•琉球煙草株式会社 昭和26年設立
•オリエンタル煙草株式会社 昭和31年5月設立
昭和29年11月以降琉銀の管理課にあった琉球香港煙草株式会社の権利一切を引き受けて事業を開始している。
•沖縄煙草産業株式会社 昭和32年7月設立
アメリカたばこの輸入業者が設立した。


規模は設立順で大きいです。
オリエンタル煙草の前身とも言えるような「琉球香港煙草株式会社」については引用します。

たばこ製造についても外国企業数社から琉煙社に対して事業提携の申し入れが行われるようになった。昭和27年末には(略)沖縄に輸出していた「香港煙草」(イギリス系)と、両切たばこの製造について合弁事業を計画するに至った。しかし、同計画は実行面で不調をきたし、香港煙草社は自ら主導的立場にたってのたばこ製造を意図し、琉煙社もまた自力でもって両切たばこの製造に取り組む方向に展開していった。
---
両切りたばこ巻き上げ機2台の設置計画を基に発足した琉煙社の事業計画が資金調達面で難航している間、前記の香港煙草社は同社製品の輸入先である大島産業商事(後に有村産業と改称)と改めて事業提携を行い、同社製品のいわば現地生産・販売を意図して、28年中に「琉球香港煙草株式会社」を設立した。そして29年4月以降香港から輸入した原料を使って製造を開始(略)売れ行きは芳しくなかったらしく、同社は、製造開始後半年を経ない同年10月に株主総会に置いて解散決議、11月には新聞紙上に解散通知、以降琉球銀行の管理課へ移行する道を辿った。
戦後の沖縄 たばこの歴史/羽田武文 p71、72(省略と抜粋)


この本は力作で戦後沖縄経済史やその背景、煙草葉の配合割合と税金と商品計画がくわしく述べられています。
復帰少し前あたりから沖縄の煙草会社は本土の下請け作業をし、後々下請け作業が必要不可欠なものになっていってしまいます。この事は事実上本土JTへの系列化だと思いますが復帰前にはすでにそうなっていたのかと驚きました。

ハイトーンのことも触れられていますので抜出してみます。

39年1月、アメリカ政府公衆衛生局が発表したいわゆる「喫煙と健康に対する報告書」は、沖縄においてもたいへんな社会的関心を呼び起こし、その反響の大きさに、琉球政府厚生局は「タバコの害から住民を守るにはどうしたらよいか」という面から調査に乗り出した、と言われるようになった。こうしたことを契機に消費者の嗜好は一段と喫味緩和なたばこへと移行するようになっていった。
右のような状況を見て、オリ煙社は、その持ち前であるマーケティング感覚を活かして新しい銘柄開発に着手した。“くせがなく独特の風味と香りをもた緩和な喫味のたばこ”をねらいとして製作された新製品は「ハイトーン」と名付けられ、正月に向けて12月19日に発売された。
戦後の沖縄 たばこの歴史/羽田武文 p177(省略と抜粋)

崇元寺通り(58年)

崇元寺通り
[1958年から]5、6年前、泊エンジニア部隊兵めあてに売春婦と仲介男が右往左往していた女林地帯は、部隊が移動してからだいぶ静かになった。今はハーバービューや十貫瀬のほうにくわれている。いま残っている街娼は20人足らず。稼ぎは家主と折半である。
十貫瀬
沖映通りの信号の右側(東)が十貫瀬通り。完全な赤線地帯である。1M幅の小路が四方八方に伸び、長屋が幾棟も並ぶ。売春婦が一部屋を借り、ベッドのほか鏡台・タンス・水屋、窓にカーテンもあり、女らしい雰囲気である。栄町もそうだが、ベッドのシーツや布団は花もよう。若い女の城なのである。はなやかな部屋とは裏腹に外は薄暗く、古ぼけた家壁、看板もネオンもない長屋横町である。それぞれの玄関口に女が一人座っている。
戦後の沖縄世相史 p78(省略と編集)


引用文は58年頃を想定して書かれています。
那覇市内の開放順序はこれ(旧那覇地区の解放順序)ですが十貫瀬あたりは割と早いですね。当時は若い女の巣だったはずですが...

米兵相手の売春街がありますが、それだけではない売春街というのがあったのかどうかという実際はよくわからないところです。泊エンジニア部隊の近くとはいっても米兵ばかりではなく基地労働者も沢山いました(参考:AJ社)。
58年だと那覇市内の基地は少なくなってしまってるのでほとんどは日本人相手だったとは思いますが、最初のころはどうだったのかは気になります。

参考:グダグダ(β) 崇元寺通り(52年) 2 (泊エンジニア部隊のあるころ)

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