崇元寺通り
[1958年から]5、6年前、泊エンジニア部隊兵めあてに売春婦と仲介男が右往左往していた女林地帯は、部隊が移動してからだいぶ静かになった。今はハーバービューや十貫瀬のほうにくわれている。いま残っている街娼は20人足らず。稼ぎは家主と折半である。
十貫瀬
沖映通りの信号の右側(東)が十貫瀬通り。完全な赤線地帯である。1M幅の小路が四方八方に伸び、長屋が幾棟も並ぶ。売春婦が一部屋を借り、ベッドのほか鏡台・タンス・水屋、窓にカーテンもあり、女らしい雰囲気である。栄町もそうだが、ベッドのシーツや布団は花もよう。若い女の城なのである。はなやかな部屋とは裏腹に外は薄暗く、古ぼけた家壁、看板もネオンもない長屋横町である。それぞれの玄関口に女が一人座っている。
戦後の沖縄世相史 p78(省略と編集)引用文は58年頃を想定して書かれています。
那覇市内の開放順序はこれ(
旧那覇地区の解放順序)ですが十貫瀬あたりは割と早いですね。当時は若い女の巣だったはずですが...
米兵相手の売春街がありますが、それだけではない売春街というのがあったのかどうかという実際はよくわからないところです。泊エンジニア部隊の近くとはいっても米兵ばかりではなく基地労働者も沢山いました(参考:
AJ社)。
58年だと那覇市内の基地は少なくなってしまってるのでほとんどは日本人相手だったとは思いますが、最初のころはどうだったのかは気になります。
参考:
グダグダ(β) 崇元寺通り(52年) 2 (泊エンジニア部隊のあるころ)
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