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円覚寺住職にひかされた尾類

戦前の新聞は辻等のゴシップが結構載っています。

首里円覚寺の僧、雪下恵林は去る8月から嘉手納の一樹昌院から移ってきたばかりだが、神谷小路兼次小カナ(23)にほれ込み、大枚200円で身受け、寺へ連れて行ったが、あと100円の負債を出して欲しい、というカナの要求を蹴ったため、カナは元の廓へ逃げ戻った。
煩悩の鬼はお経の力でもどうともできず、あと100円だしてカナを連れ戻し、楽しい夢にふけっているが、花の廓と鐘の音わびしい両極端の二人の生活は辻の評判になっている。
大正5年10月29日
沖縄の遊郭 -新聞資料集成-より


生臭い話ではあります。
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ジュリとバイオリン

まず日本本土でのバイオリン。

明治になると、鈴木政吉によって日本で最初のバイオリン工場(鈴木バイオリン製造)が設立され、1900年(明治33年)には大量生産されるようになった。
ヴァイオリン - Wikipedia


「演歌」は、「演説歌」の略語であり、明治時代の自由民権運動の産物だった。藩閥政治への批判を歌に託した政治主張・宣伝の手段である。つまり、政治を風刺する歌で、演説に関する取締りが厳しくなった19世紀末に、演説の代わりに歌を歌うようになったのが「演歌」という名称の始まりといわれる。明治後半から、心情を主題にした社会風刺的な歌が演歌師によって歌われるようにもなり、次第に演説代用から音楽分野へとシフトするようになった。
大正になると演歌師の中から洋楽の手法を使って作曲する者も現われた。鳥取春陽の登場である。ただしこのような歌は「はやり唄」と呼ばれ、通常「演歌」には入れない。
演歌 - Wikipedia


また演歌・はやり歌でバイオリンを使う人がいました。クラシック以外にはほぼ使われなくなった現代とはすこし違います。
演歌 バイオリン - Google 検索
添田唖蝉坊 - Google 検索

沖縄ではどうだったのか。大正期の沖縄タイムスにはバイオリン教授の広告があります。

バイオリン 琴 教授
1、時刻 毎日午後8時まで
2、会場 久米電車通り 元天理教会跡
3、親泊玉声氏外2名
沖縄タイムス 大正12年11月15日


辻にもバイオリンを弾くジュリが何人かいたようです。

上の角の「松の下」のツルは、いつもほかの娼妓に先んじて奇抜なことをやる。(略)室内に約4尺4角の硝子池を設け、その透明な水中に金魚や他の川魚を浮かせて、夏向けの風情をつくり、酒を飲む客の目をたのしませ、それに得意のバイオリンで、大正ぶしに磯ぶし、その他、琉歌の流行ぶしまで弾いてサービスする。
沖縄毎日 大正3年3月5日
---
わけても気の毒なのは、粋人仲間で「バイオリン女郎」と謳われた後道はグーヤーノチビの兼久楼内、松の下のカメという若い貸座敷。
沖縄毎日 大正3年6月2日
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当世遊女夏姿(2) 強いバイオリンかめ小
女優オト小にも劣らぬ美しいアダ名である。バイオリンを得意とする妓は多いが、特にこの美名を得たのはこの妓の幸せといわねばなるまい。
大正5年8月9日
引用すべて「沖縄の遊郭 -新聞資料集成-」


Ciniiにある「山内盛彬による戦前期の音楽活動/三島わかな」の5ページ表にバイオリンと見え、続いての6ページ目で沖縄の曲を洋楽器で弾いていたことなどが解説されています。

とりあえずここでの結論はジュリがバイオリンで流行歌などを弾いていたということと新聞広告があったということです。

那覇の私娼

旧那覇にあった私娼窟です。ただし本文中にもあるように辻を圧迫した反動での一時的な避難で人が流れているとも思われますのでご注意。

料理屋はおろか、奇怪なことには、下宿屋まで淫売屋を兼ねぬと稼がれないとして、表看板では何々下宿屋とか何々料理屋とか、しらをきって、ひそかに遊び人や、旅客を相手に金と色欲を交換するところが数々ある。
堂の前岸本屋敷といえば裁判所の西隣、金満家岸本の所有屋敷である。その屋敷にはアンマーがいて遊郭に派遣している。
いろは屋を中心として元明月亭の跡、常盤楼、玉川屋などが分線地で、それらの近所には芸者、酌婦の隠れ穴があって猛烈にあいびきしている。
渡地のイシンチージへ行くと下宿屋営業という看板の裏に目に見えない魔所が潜在しているのだ。
同じウングヮンサガイという場所は以前仲島、渡地が辻遊郭に合併された時に一緒に辻に飲み込まれてしまったが密淫売を働いている。
仲島前の浜と善光寺通りも前記と表裏を異にして手品を変えたぐらいのもので相変わらず社会経営者のお世話を焼かすのであろうと信ずる。
其の他松尾山辺や久米の堂小屋敷や、垣花落平前の新埋立地と泊の避病院前の海岸通などにはこぎれいな淫婦連がゾロゾロ横行している。
因に記す。二三年来、辻遊郭を非常に圧迫した反動で、那覇区内や首里区内に密淫売を自然に励行するようになってきた。
大正元年12月1日 沖縄毎日
沖縄の遊郭 -新聞資料集成- p591 (省略と編集)


料理屋、下宿屋、旧遊郭、人気が少ない場所などで客を引いたようですね。

安謝港の復興

戦後すぐの安謝港です。

松岡政保氏を会長に安謝港復興期成会が結成され那覇市や琉球政府に新港建設促進の陳情を繰り返す。当時、極端に物資の乏しい時期であったが大島航路が開設され、沖縄から貿易庁売り出しの洋服類、布団カバー、毛布、反物等アメリカ製品が、大島からは米や木材が主で、牛、ビール等が輸出入され、交易が盛んに行われた。安謝港が商業基地として俄然脚光を浴びる。

安里賢勇を長として仲仕組合が結成され、安謝の若者が総出で働くようになる。組合員の賃金も高く五日毎の勘定で2000円(B円)から3000円を得ていた。当時の役場職員の平均給与が4000円前後で如何に安謝区に潤いを与えたかはかりしれない。港は盛況を極め、酒場や料亭、旅館が繁盛し大島・沖縄間の旅客の往来も繁く、旅行会社も看板やサンドイッチマン等を立て宣伝に力を入れた。船の出入麹には、人、人で港をうめるほど賑わったものである。
安謝誌 p228(一部省略)

岡野区は、 1946年10月、松岡(政保)氏が工務局長時代復興計画をなし、工務関係の資材置き場として旧ブタノール敷地4万5000坪を解放してもらい安謝資材集積所を作り、日本より輸入して来る民用の資材集積を為し、さらに製材工場を造り、規格住宅を各地区に配給するため工作隊二百名以上の作業員が5、60の住宅を持ち、外に合宿所を作って、移住して以来、この工作隊の関係者が次々と移住して今日の部落を形成するようになった。岡野という名称も、岡の上の野原に自然部落が出来たので岡野と称えるようになった。

住吉区は、旧那覇市・垣花・住吉町の人達が、垣花全体が軍に接収され、土地を失ったので、安謝の海岸一帯に部落を作り、移住し、旧名称のまま住吉区と唱えることにしている。
真和志市誌 p275
グダグダ 岡野区/住吉区(安謝)


1946年に松岡政保により復興計画がたてられ、大規模に工作隊の移住が行われています。ここで考えておきたいのは那覇中心部は未解放、那覇の港である那覇・泊の両港が民間使用できなかったという事情です。
川沿いの寿屋の元工場敷地は大規模な平地であり港のそばでもあることから物資集積所に最適だったのでしょう。安謝誌の記述には「貿易庁」の名前が出てきてるので大体の時期、そして貿易品目もわかります。

「空白の沖縄社会史—戦果と密貿易の時代」では大きな船から伝馬船によって物資を陸揚げする様子も書かれています。大きな船がつけられるほどの港ではなくまだ伝馬船に頼ることが多かったわけです。
上で引用した安謝誌の記述の横には、安謝港仲仕組合の前での記念撮影と伝馬船に乗った人たちの二つの写真が掲載されていて、ブロック造りのしっかりした「安謝港仲仕組合」の前に30人以上の男達が写っています。

安謝のその後で引用した記事では1万人以上がこの周辺に居住し、密貿易を含めたさまざまな物資関係の仕事に就いていたわけです。つかの間の繁栄でしたが復興に大きく寄与したことは間違いありません。

神里原での三角屋

神里原通りが衰微し始めたのは53年始め。丸金デパートが経営難で人手に渡り、52年12月、リウボウが2階を借りたが54年4月国際通りに移転した。通りの路地裏にある7軒の食堂に客はさっぱり。半年の寿命で経営者が替わってゆく。戦前、石門通りにあった三角屋はここで四苦八苦。客は新しい桜坂通りにさらわれた。
戦後の沖縄世相史 p47、48(省略と抜粋)
グダグダ 神里原通り 2


ちなみに三角屋は三越横で現在も健在です。
同じく戦前からの老舗であった井筒屋は1948(昭和23)年に開南で営業を開始しますがこちらはさっさと翌年暮には国際劇場隣(現三越向かい)に移ってしまいます(出典:沖縄・国際通り物語)。

参考:グダグダ チコンキ・蓄音機
参考:グダグダ(β) 神里原大通り(52年) 3(52年の地図に三角屋の名前がある)

この項は当初三角屋の看板が写っているこの写真を神里原ではないかと推測していましたが写真は浮島通りそばでした。検証は千歳橋周辺で行っています。

安謝のその後

密貿易時代の安謝の続きです。
安謝誌に掲載されている沖縄タイムス記事から。

安謝港は市の北部海岸にあり、近世和歌文学の白眉とされた才人、平敷屋朝敏及びその一派が奇禍により処刑されたところとして名高いが戦後は那覇、泊の使用が自由にならなかったころ、沖縄本島中心地と全琉の離島を結ぶ列島内の門戸として重要な役割を果たして来た。その人口も50年1200余名が52年には2100余名に増えた。しかし全琉各地からの無籍者が多数ここに留まって生計を営んでいたから実際人口は常に1万人近く保っていたようだ。
52年末、奄美大島の日本復帰が実現して、多くの奄美人が郷里へ引き揚げて行き、さらに泊港の築港がすすみ、離島航路の小型木造船も泊港に入出するようになったため、その後の安謝は日に日に寂れるばかり。港がはなやかに栄えていた当時は料亭、旅館の数も多く旅行者相手の商店も軒を並べ、沖縄でも最も大きな劇場に数えられた安謝劇場なども建ち、いん賑を誇っていた。
いまでは街も昔の活況がみられず、商業地域というよりはむしろ住宅地域に変貌してしまった。街の人達は昔の夢がもう一度かえってくることを望んでいるようだが、その淡い望みは港の浚渫、桟橋の改修等を要請しつづけているが今後とも泊港のサブ・ポートの役割を果たす程度で大した発展も期待は出来ないと見る向きもある。
沖縄タイムス 1956年7月24日[引用元は安謝誌 p366](一部省略)


那覇の中心部には劇場があったようにここ安謝にも劇場がありました。
新聞記事は57年ですが、すでに民間貿易も始まってしばらく経ち、神里原も寂れ始めて国際通りへシフトしている時期です。

密貿易時代の安謝

住吉海岸での密貿易に関連して。
戦後民間貿易再開までは物資は密貿易に頼るしかなく行政も黙認しているわけですが、那覇港や泊港が使えない中で安謝は那覇の港として繁栄しました。
この時代の密貿易は「空白の沖縄社会史—戦果と密貿易の時代」を参照して頂きたいのですが様々な規模・形態で行われていました。

戦後間もない頃、港原一帯には大宜味村の人が多く寄留(現岡野区)。義理地原には垣花方面の人が多く済んでいた(現住吉区)。その頃は那覇港や泊港が民間に開放されてなく、近辺では安謝港が唯一の貿易港となり、那覇、国頭、大島あたりから大勢の人達が集まり地域は活気づいた。
貿易が盛んになるに伴い、現安謝市営住宅辺りに「琉球中央倉庫」が建設され、多くの安謝区民も働いた。その後、米軍による県道一号線の改修工事が行われ県道は嵩上げされ、地域住民は交通に不便をきたした。
1952(昭和27)年、安里初等学校が当地に移って来た。それに伴い、県道の地下トンネルが開通し、東西間の交通は安全で便利になった。その頃の地内を見ると、学校通り(戦後できた道)のトンネルの東には食堂、飲み屋が立ち並び、校門付近には文具店や一銭マチヤグヮーが。メーミチには病院や旅館が建ち、雑貨店も五軒ほど建った。
当地には那覇、中北部、大島、宮古などからの移住者が多く、人口は年々膨れ上がっていった。
安謝誌 p230、231(省略と抜粋)

関連:グダグダ 岡野区/住吉区(安謝)

那覇市は戦後離島の人達が移住しはじめ現在に至るのですが、離島の人達が移住した場所には濃淡があります。現在でも宮古姓の人達が多い場所などはある程度の年齢の人ならばいくつか思い当たるでしょう。
古い集落の範囲と新しくできた集落、そして戦後の土地解放時期などを重ね合わせて見ると了解できることは結構あります。

石門界隈

那覇の大通りであった石門通りです。
場所については旧那覇の大通り名を参照して頂きたい。

那覇の銀座、石門界隈
なかでも石門界隈は那覇の銀座ともいうべく、いろいろな専門店が軒をつらねて○を競い田舎者の目を驚かせていました。とにかく西端の新星堂書店を基点として三角ソバ屋、竹内化粧品店、安仁屋時計店、シーベードン(塩見)二富士傘屋、服部呉服店、平尾分店とつづき、道路の反対側には城間マッチ店、木口歯科、沖縄薬局、十文字呉服店、盛興堂、よへな薬局、新元雑貨、ユーゲージ小路を越えて金城金物店、平尾西支店、友寄陶器、嘉数陶器、まんじゅう屋、ノーブル洋裁、喫茶「紫煙荘」、うさぎ屋履物店、青山書店と続いていました。
続・沖縄千一夜/徳田安週 p127

上之蔵通りをおりると右手は、辻の「前の毛」につづく道がひらけ角に交番所があった。そしてなおも正面に突き進むと、つきあたりが新星堂書店。新星堂から右と左に道がひらける。右に行くと、本願寺の前と呼ばれる真教寺の前に道が続き、左手にゆくと三角屋(そば屋)につきあたり、それを境に道がふたつにわかれていた。右手が旭館につづく道、左が石門の商店街への道であった。
なはわらべ行状記 p62
グダグダ チコンキ・蓄音機


新元雑貨と青山書店はこの人達ですね。
グダグダ 新元亀次郎
グダグダ 青山書店/小沢書店
シーベードンは塩見となっていますがこのあたりはよくわかりません。
グダグダ 塩谷清兵衛

石門通りはあまり大きくない商店が軒を連ねていたようです。

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