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沖縄県管内全図(明治39)

明治39年の地図で、後年の天妃町が久米、上之蔵が字東だったころのものです。

沖縄県管内全図/沖縄県 著/金港堂書籍/明治39(1906)年
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1089186


上の沖縄県管内全図ではありませんが「新聞資料による旧慣制度撤廃後那覇の地図作成」の図の字境界を強調したもの。下左図が「沖縄県管内全図」と同じ那覇区時代、下右図は那覇市になってからの地図(昭和4年)での境界線を書入れたものです。
参考になれば。


一応これで明治・大正・昭和の各期の地図がオンライン上で参照できるということですね。
グダグダ(β) 那覇区全図(大4) (大正4年/1915年)
グダグダ(β) 那覇地図 (昭和初期/1930年)

近代デジタルライブラリーは転載を届け出制としているようです。なんですが「収録資料の著作権は、各資料の著作権者に帰属しています」とも書いてあり、ライブラリーの資料は基本的に著作権切れとなっています。
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徳田彦左衛門

大正5年の沖縄県人事録から東町の徳田金物店。

徳田彦左衛門
金物商
君は文久3年を以て鹿児島県姶良郡国分村に生る、泡盛及び米穀仲買商を営みゐたる亡休左衛門氏の次男にして既に二男三女を擧げ居れり。明治6年郷里国分小学校を半途退学し、自体夜学に通ひ又独習して専ら実業方面に関する研究をなし、傍ら家業に従事せしが、夙に沖縄県の有望なるに着目し、郷里の名産なる煙草を以て成功せんと其機を窺ひしが、遂に明治24年8月渡沖し直ちに国分特産の煙草仲買及製造業を初め、傍ら琉球反布類の仲買をも開始せるが、数年の後煙草官営となるや其元売捌人となり且つ専売局煙草製造○当人を指命せられ、漸次拡張して隆盛を極め士が其後専売局官制の改正により元売捌を他に譲与し、前業を抛棄して新たに金物商を開き兼ねて米穀商及精米業を開始せる外、鉄工所を建設して年毎に拡張し、今や各業共に繁栄を極め居れり。
(那覇区東町1ノ5 電話148番)
沖縄県人事録/楢原翠邦編(大正5)


http://archive.library.pref.okinawa.jp/?type=book&articleId=50102
画像は沖縄県立図書館貴重資料デジタル書庫の「沖縄県人事録/楢原翠邦編(大正5)」からで、切り出して画像処理などをしてあります。
1863年生、1873年小学校中退し家業に従事、1891年来沖し煙草仲買及製造。制度改正により廃業し大正5年現在に至るという感じでしょうか。
明治41年の開店記事。

徳田商店の開店披露
区内字東県庁門前の徳田商店は従来烟草販売を営みつつありしが先日元売捌人減少の関係よりして同業を廃止し本日より愈々金物商を開始する由因に記す綛糸類販売は従前の通り営業を継続すとの事なり
明治41年11月12日 琉球新報 沖縄県史資料編5 p338

反布同業組合と久米村婦人

反布同業組合と久米村婦人
久米村の婦女子は多く反布小売行商に従事せるが同業組合の発議せらるるや彼等は卒先之に賛同したりしに何者の誘惑に由りしか近頃同業組合の設立を以て或23商人の野心に出てたれば右組合の検査は彼等に不利を与ふものとなし昨今苦情を鳴らして反対の挙動に出んとする由なり目今信用地に墜ちつつある本県反布の現状を知らず只目先きの小利計りを貪る彼等の挙動実に嘆ずるに余ありと当業者の一人は語れり
明治33年11月13日 琉球新報 沖縄県史資料編16上 p137、138


久米婦女子の出稼ぎ(明治37年1月)や反布商の奸手段(明治43年3月)と関連していますが、明治33年から10年以上たっても「奸手段」と書かれてしまうくらい変わらなかったということになります。

ノロクモイと徴兵適齢者

このブログの範囲と直接の関係はないのですが面白かったのでメモ代わりに。

ノロクモイと徴兵適齢者
田舎の風習として災難に罹りしときは早速ノロクモイに祈祷せしむとは屢々聞く処なるが近頃は徴兵適齢者の依頼を受けて種々の祈祷をなし無知の人民を惑はすもの多しとぞ聞く宜しく取締りありたきものなり
明治33年11月7日 琉球新報 沖縄県史資料編16上 p136

昭和初期のトマト生産高・作付面積/輸出数量

「昭和沖縄園芸発展史/宮城桃幸」(p356)の「戦前における主要移出野菜の生産の推移」という評からトマトのみ数字を抜き出します。

年次|作付面積(ha)|生産量(kg)
元年(大正15)|12.6|25125
2年|15.7|23250
3年|29.7|49500
4年|29.7|24000
5年|26.7|34125
6年|42.2|92625
7年|57.6|117750
8年|103.0|169500
9年|108.2|177375
10年|87.8|144000
11年|88.7|145500
12年|75.2|123375
13年|86.2|141375
14年|77.0|126511
15年|83.0|160381
昭和沖縄園芸発展史/宮城桃幸 p356 (一部数字のみ抜粋)


この増加には農業試験場の後押しと組合の設置が影響しているようです。
同じ本の「戦前における主要移出野菜の生産と移出」からトマトのみ。

年次|生産数量(kg)|移出数量(kg)|移出率(%)
11年|251125|28440|11.3
12年|123375|39780|32.2
13年|141375|33750|24.0
15年|160381|123370|43.4
昭和沖縄園芸発展史/宮城桃幸 p357 (表から数字を抜粋)


生産量も上がって輸出割合も半分近くになっています。
昭和沖縄園芸発展史(p361)の「昭和12年移出野菜種別価額」では、総額396891円の内訳は、キャベツ(61%)、トマト(17%)、冬瓜(7%)、西瓜(4%)。数量だとキャベツが77%、トマトが10%で、移出野菜の殆どをこの2つで占めていたようです。
この当時のトマトはパラフィン紙に包まれ緩衝剤(水苔)と箱に詰められて内地へ運ばれていたようです(参照:沖縄県農業試験場百年史 p602)。

久米女の喧嘩(明治33)

那覇に於ては旧3月3日より78日頃迄は3月遊ひと唱へて業を休み各所の年少婦人は数十人一団体を作り「波上」又は三重城辺へ繰出し各々鼓を打ちて舞ひ遊び又は渡地の浜に船を泛べて遊ふを例とせるは世人の知る所なるか久米に於ては仝所の年少女子供は大門西門の2団体に別かれ双方とも鼓を打ち悪口を為すの悪習慣ありとの事なるか去6日即ち旧3月7日の晩の事なりとか西門方の女大将國吉マツル(当24)か数十名の娘連を引卒して池宮城の門前を通行したるに兼て仝所には大門方の女将軍池宮城カナ(当21年)始め湖城カメ(当16年)外二三十名の女兵勇共群をなし屯集してありしか今しも西門方の女軍隊の通行するを見て一同手を打って嘲笑したるにぞ女なからも一方の大将たる國吉マツルは大に怒り直に繊手を堅めて大門方の女兵の面部を打擲したるより双方とも摑合ひの色消し騒きを始め為めに國吉マツルは身体に負傷したりとかにて此旨警察へ訴へ出てたる由なるかは是非曲直は暫く措き双方とも斯くの振舞ひは女の身として○ても/\と呆れるの外はなし
明治33年4月9日 琉球新報 沖縄県史資料編16上 p94、95


3月遊び関係でのもめ事です。
旧那覇は狭いのに字が更に2つに別れて対立してるというのは暮らしにくくなかったんでしょうか...

久米婦女子の出稼ぎ

出稼ぎと云ふ事は琉球では最も奨励され又盛んにやツて居ると云ふ事で同じく那覇の城下にしても西村東村抔は比較的に少数で久米村と云ふ地方の人間に最も多数と云ふ事である
△シテ又持つて出掛けて行く品物はと云ふと云ふ迄もなく彼地の特産物たる織物を漆器其他の品物は極めて稀れに見る処なるが其織物即ち紬類や漆器抔に付て聞ける幾分を御紹介致さうと思ふ
△由来琉球婦人は単に我日本内地計りでもなく台湾、南清の各地に向つても反物や漆器抔の特産物を持ち出して盛んに行商をなして居るものの前にも一寸記して置いた如く同じ那覇の郡の中でも字久米村の住民に出稼者多く字西村又は東村の住民は概して土地にあり特産物の生産に従事して居るのであって夫から首里の住民等は又一風かはり昔から読書人が多く今でも官署や会社抔の小役人になツてるさうな


引用は「沖縄県史資料編16上」(p282、283)です。
明治37年1月9日、11日の「琉球婦人の行商」という記事ですが、元は九州日々所載のものであったようです。

関連:グダグダ(β) 反布商の奸手段 (久米アヤー)

三月遊び(明治35)

3月21日には仲毛で大騒ぎしていましたが本番は静かだったようです。

3月遊び
△3月遊びも大抵下火となり例のコンパニー連中も一昨日位ひまでにて散会したるか如しなれは江内はコンパニー連の遊船が少なくとも230艘は浮び区内の処女たちが腕をかぎりに太鼓をたたき声をかぎりに歌を歌ひ一見恋も興も醒る程のざまをやりそのざまを見物する為睾丸連も浮かれ出す様な騒ぎに江中江辺中々の賑ひなるが本年は尚家忌中に遠慮して歌の声も鼓の音も余り聞へずコンパニーさへ少なく大抵は思ひ/\に芝居に見物と出かけるものあり公園に出て静に遊ぶものあり併し久茂地及ひ湧田辺には例の太鼓騒ぎのコンパニーを見受け遊船も24艘はありたり
△女生徒は教師より厳に諭示する所ありたる為230人位ひ一群となり公園に出て学校にて教へられたる遊戯をして遊ふものを見受けたるが彼の猥褻の唄を歌ひふざけた真似をするものに比すれば年を同ふして語るべからざるなり
△重開き盃も旧4日5日が急に寒くなりたる為め波上辺に出るもの極めて少なくこれも大抵は芝居見物と出かけたり総して云へば本年の3月遊びは余り失態をも演せす例年に比し静かなりき
明治35年4月17日 琉球新報 沖縄県史資料編16上 p204


この年は静かだったようですが例年は2、30艘の船があって見物人も出てたというのがわかります。
尚泰が明治34年8月に没していますので、記事中の尚家忌中というのはこのことだと思われます。

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