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長田原からの陳情

1962(昭和37)年の市民の友、「市民の声」欄から引用します。

寄宮中校うらに道路を新設して欲しい
私ども寄宮中校裏に住んでいるもの78戸の住民は1日も早く道路が新設されることを希望しております。
住宅のある場所に自動車道路もないということは、非常時の際、大きな危険を伴うし、浸水さわぎをたびたびおこすほど環境衛生が悪く、現在のままだと、住宅が急激に増えていく傾向にあって、家屋が密集してからでは道路新設は困難だと思われます。
それにすでに測量も済んでおり早急なる着工をお願いします。
字国場長田原付近一帯住民一同
準備できしだい着工予定
[答]寄宮中校裏一帯の著しい発展に対処するため、市当局としては同地域一帯の土地区画整理を施行するよう計画し、すでに行政主席の認可を得てあります。
したがって寄宮中校裏同地域の道路新設については、この土地区画整理事業と閉校して施行する計画であります。
なお、区画整理の施工については現在、諸調査や測量などが行われているので、準備でき次第着工する計画であります。(都計課)
市民の友 1962年2月1日 第138号

参考:グダグダ(β) 国場の原名

寄宮中学校後方の長田の話です。
この一帯は後年区画整理で大問題になってしまうのですが、1962(昭和37)年当時でも車が入れるきちんとした道路はなかったことが伺えます。とはいえ同時期の那覇はアスファルト舗装されていない道がまだまだたくさんあった時代です。
長田原はもともと畑で雨が降ると水が溢れてくるような土地柄だったようです。
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栄町内公衆便所

1961(昭和36)年の市民の友に栄町内に公衆便所建造の記事がありました。
以前からあった木造の建物を取り壊しているので全くの新設ではなかったことがわかります。

栄町に 
十五番目の公衆便所
このたび、市内栄町市場の中に新しくスマートな公衆便所がお目見えしました。
栄町市場は、付近住民が数多く利用するところで、人の出入りもはげしく、公衆便所の設置は以前から強く要望されていた。
市当局としては、従来使用されていた、古い木造の便所を解体、このほど新しく、ブロック建て、5坪の建物を1,390ドルの工費でたてたわけですが、これも、市場の人たちの努力があったからこそといえます。
現在那覇市内には、14棟の公衆便所が会って、多くの市民が利用しておりますが、こんどできた栄町のは15番目ということになります。
(略)
公衆便所の設置場所はつぎのとおり、
波之上、西武門、若松市場、泊北岸、美栄橋町、御成橋際、子供博物館入口、牧志ウガン入口、公設市場二カ所、安里交番前市内停留所、鳥堀停留所、小禄市場裏、栄町市場内。
市民の友 1961年8月1日 第133号(抜粋)

公設市場建設の経緯

小松かおりさんの「沖縄の市場〈マチグヮー〉文化誌」という本に戦後の第一と第二の二つの公設市場をめぐる経緯がまとまっていたので引用してみたいと思います。

戦前の東町市場は1944(昭和19)年の大空襲であとかたもなくなってしまう。戦後、那覇を基地に使用しようとした米軍に対して、焼け残った壷屋の陶業関係者が、陶業の再建のためという理由で那覇への那覇への入域を認めさせたのは有名な話である。その後、壷屋の関係者をかたってなし崩し的に入域者が増え、陳情によって正式に開南、楚辺に住むものも現れた。1947(昭和22)年には開南から松尾にかけて、およそ50名の露天商による闇市が形成された。ここはウィーヌマチグヮー(上の市場)と呼ばれ、米軍からの配給物資や本土や香港、台湾からの密貿易品が並んだという。禁制品の闇市を放置するわけにいかず、島産品を扱うことを条件に、1948(昭和23)年にガーブ川沿いの現在の那覇市松尾2丁目に公設市場として移転したのが、牧志公設市場である。この頃は、奄美、沖縄、宮古、八重山にそれぞれ政府があり、自由貿易は禁止されていたので、牧志公設市場は沖縄本島の産品を中心に扱うことになった。しかし、密輸品を扱う闇市としての正確は、遅くまで残ったようである。公設市場とはいえ、最初は、店舗も業者任せで各々がバラックを建てていた。湿地帯のため。雨が続くとガーブ川が氾濫して、毎年のように周囲一帯が泥だらけになったという。
1950(昭和25)年には食料品市場、1951(昭和26)年には雑貨市場と衣料市場の建物も完成した。食料品市場は、約1300平方メートルのセメント瓦葺きの平屋の建物であった。1964(昭和39)年に衛生状態の悪化などから市の改築案が出されたがうまくゆかず、以降、1972(昭和47)年に改築が成るまで10年近くにわたって牧志市場の改築問題が続く。
沖縄の市場〈マチグヮー〉文化誌 小松かおり p21、22(省略と抜粋)


壺屋への入域については自分はこの話を知りません。
開南から中央劇場の一帯のウィーヌマチグヮー、新天地市場の経緯については過去に触れました。

最初の案では、旧市場の跡地に市場を再建する計画だったのだが、市場敷地の90%以上を所有する地主が土地の返還を求めて反対。また食料品売り場を地下にする案に、業者も反対した。
1966年に、当時の西銘[順治]市長が別の場所に市場を移築して完成の一ヶ月後には敷地を明け渡す、との覚え書きを地主と交わして新市場建設[※第二]にふみきった。地主は覚え書きを根拠に土地の返却を求め続けこれが市場問題の中心的な課題となる。1967(昭和42)年には、市場の西側に購入した土地代を含め120万ドルの予算で新市場[※第二]が着工した。[※69年完成]

この頃保守の西銘市長から、市場の強制着工に反対して当選した革新の平良[良松]市長に変わったことが事態をややこしくした。
移転の反対業者は、公約の実行を求めて、土地の明け渡しの覚え書きを破棄するように市長に迫り、
平良市長は巨額の予算をつぎこんだ新市場の処遇をめぐって攻撃する野党と、
[西銘]前市長の覚え書きをたてに跡地の明け渡しを迫る地主、
公約の実行を迫る業者の間で右往左往した。

その後保守が惨敗した市議選などを挟んで、新市場は旧市場[※第一]と競合しない業種で開設することになった。これが第二牧志公設市場である。
第二牧志公設市場は、新たに移転を希望した水上店舗の花屋通り会や、旧市場から移転に同意した業者が半分を占め(略)客足が伸びなかった。この市場は不採算のまま業者が減り続け、2001年にとうとう閉鎖された。

新市場の開設で市と議会が一致した直後、旧市場が不審火で焼失し、半数の業者が焼けだされる事件があった。その直後に地主が土地への新たな建設を禁止する仮処分を申し立て、土地問題がこじれる中で開南へ急造された仮店舗への移転を拒む業者が現れ、また市と契約を結んでいる名義人と、実際に商売している業者のずれから、仮店舗のコマ数が足りないという事態が起こる。市場の管理を実質上業者に任せていたので市も市場利用の実態を把握しきれずにいたのである。
1970(昭和45)年12月には、土地の賃借や譲渡に応じない地主に市が土地収用を決めて改築工事が始まったが、裁判所が土地の帰属が決定していないとして建築を止める事態となり、それが解決すると、建築予定地の柱を立てる場所に立ち退きを拒否する業者が数ヶ月にわたって占拠する問題が起こり、議会は工事の手続きをめぐって粉糾した。
このような問題を経て、地主との土地譲渡交渉が決着し、1972(昭和47)年の9月に第一牧志公設市場がオープンしたのである。現在の第一牧志公設市場は、1972年建築の建物と設備で現在まで営業している。
沖縄の市場〈マチグヮー〉文化誌 小松かおり p23、24(省略と抜粋/注約)


戦後那覇の都市形成は失敗と成功の両面があり、失敗面はもちろんなし崩しに出来た市場に都市計画が引きずられてしまったことです。
生活を守るという業者の言い分に引きずられて行政が追認を与え、結果的に第二牧志公設市場の不振や道路計画が実行不可能になっていることを忘れてはいけません。

大城外科そばの廃道

大城外科医院(壺屋1-28-18)付近の道の話です。
まず現在取り壊されている大城医院がまだあった頃のストリートビュー(8/29現在ストリートビューは更新されていません)。
大城外科(ひめゆり通り)
この近辺の道。

道に関してはひめゆり通り(330号)を挟んで那覇側と真和志側で好対照です。壺屋の集落は那覇側が古くて真和志側に拡大していってるのですが、那覇側は旧道がそのまま使われている箇所が多く残り、真和志側は区画整理が行われて格子状の道路ができ旧道はあまり使われなくなっているか消滅しています。しかし僅かに真和志側にも旧い道筋や痕跡は残っていて、ひめゆり通り(元線路)に分断される前からと思われる道や道の跡がひめゆり通りを挟んで正対しています。
壷屋の那覇側にある道路、たとえばグランドオリオンに行く道などには正対する大きな道が無く、日野通り()とは十字路になっていません。しかし旧い道筋を見ると正対する細い道(巾1.5M程)と繋がっていたのだと了解出来ます。

大城外科(ピンク)の側には昔は道があり()グランドオリオンの通りに合流していました。大城外科の後ろからは残っていています。
図中でグランドオリオン通りと大城外科からの通りは別の色で表しているのですが、もともと大城外科からの通りはグランドオリオンに行き、現在グランドオリオン向けにひめゆり通りから入ってゆく道は壷屋部落の中へ入って行くような交差する二つの道だったわけです。大城外科の側は道が無くなり、現在の道がグランドオリオンへ続くように整形されているのが現在の道筋です。
大城外科そばに道があったとわからなければわかりにくいですが、現在の道筋も完全に直線化はされていないので過去のおもかげは残っています。

図中の赤い箇所は那覇民俗地図ではビズル嶽(ビジュル)になっていて、確か現在も祠があったかと記憶します。
図は「最新沖縄県番地入地図(74年)」と那覇民俗地図、それに「那覇市壺屋地区における石敢當と集落形態」中の図を参考にしました。

参考:グダグダ(β) 壷屋の旧道(1920年代)

下水道

1965年9月10日の市民の友(第182号)には「下水道いよいよ着工」という記事があります。
下図はそこにあった敷設計画の図を模写したものです。

 

沖縄県土木建築部下水道課のページには年表がありました。そこから工事開始時前後を抜粋します。

昭和38(1963)年 那覇市が「那覇市下水道事業基本計画」を策定する。
昭和39(1964)年12月 米国民政府によって「沖縄中南部統合下水道計画」策定される。
昭和40(1965)年 6月 琉球政府は「沖縄中南部統合下水道計画」により事業推進を決める
昭和40(1965)年 7月 那覇市が米国民政府の援助金を受けて若狭町と辻町で下水道工事を始める。
昭和41(1966)年 6月 那覇市都市計画下水道計画が、都市計画法により事業認可される。
昭和41(1966)年 7月 米国民政府が統合下水道の那覇下水処理場の建設工事に着手する。
下水道関係年表(抜粋と編集)

http://www.pref.okinawa.jp/gesuidou/gesuidoukankeinenpyou.files/gesuidoukankeinenpyou.htm


【追記】国土交通省のページで水についての調査図が閲覧できます(「沖縄本島(中南部)」の「利水現況図」)。
最初にあげた図とくらべるとわかりやすいんではないでしょうか。

http://tochi.mlit.go.jp/tockok/inspect/landclassification/water/w_national_map_pref.html

公衆便所の設置

市民の友第103号(1959年)には公衆便所の設置希望に対しての回答が載っています。その回答から抜粋します。

現在、那覇市の公衆便所は泊港北岸入り口、若松通り市場、西武門交番隣り、波之上護国神社裏、美栄橋市民会館側、子供博物館前、牧志うがん入口、那覇公設市場内、首里鳥堀バス停留所前、一区野菜市場内、小禄高良市場側に各々一ヶ所ずつ設けてあり、59年度中に御成橋側と与儀派出所付近に設置すべく都計課と設置場所を検討中であります。
60年度予算では那覇港付近ペリー入口、久茂地、前島町1丁目にそれぞれ増設する計画であり(後略)
市民の友 1959年5月10日 第103号(抜粋と編集)


今も残っているところもあれば消えてしまったところもありますね。今思い出せるところはこの二つ。
与儀派出所は公園側以前はどこにあったのか思い出せない...
与儀派出所付近 - http://g.co/maps/zajw
西武門交番隣り - http://g.co/maps/xbnf

御成橋側は憶えていますが再開発の道路拡張時に消えてしまいました。前島1丁目は仲良橋を牧志から渡った右手(通称三角公園)にあったかな?
栄町の中は公衆便所だったかな... きっと他にもあるでしょうね。

【追記】御成橋の写真に写っていました。
那覇まちのたね通信 | 御成橋
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=3408

仲良橋

市民の友1959年4月15日(第102号)に仲良橋の完成記事がありました。

「仲良橋」完成
前島-牧志を結ぶ幹線道路
前島-牧志の久茂地川に架けられる橋梁工事(長さ12米、巾員12米)は4月10日完成した。この工事は市の59年度予算で、泊港事務所前から前島小学校を通り牧志通り(大見病院通りから国際通りに通ずる)間の久茂地川と安里川の交差点近くに架けた橋で昨年12月4日宇良組(代表者宇良宗四郎氏)の手で工事が進められ5月10日完成予定のところ1ヶ月も早く完成したもの。
これで1号線と国際通り間に(今までは御成橋と久茂地橋の二つだけ)橋が一つ増え車両のみではなく、前島一帯の市民や前島小学校への通学に非常に便利になった。
この橋の名前については前島小学校長名渡山○秀氏、PTA会長高良嘉永氏等が自発的に同校学童や学区市民から募集したところ多数の応募があり、学校職員、PTA評議委員会の審査の結果、市の発展と市民の親和を意味し、学童の通学路ともなる意味で学童にも親しめる橋名ということで「仲良橋」と決定、その旨市長陳情がなされて来た。市当局としてもこのような自発的な市民の意思を尊重して「仲良橋」と命名した。
※○は不明文字/兼か?
市民の友 1959年4月15日 第102号(抜粋と編集)


1959(昭和34)年ですから戦後14年も前島と牧志の間には橋がなかったんですね。戦前には前島板橋小(メージマイタバシグヮー)という橋があったようです。
仲良橋(前島)
少し驚くのは59年にはこの近くで久茂地川にかかる橋が御成橋(久茂地)と久茂地橋(久茂地小そば)しかなかったことです。昭和中期のゼンリン地図で橋を確認してみるとバツ印を付けた箇所には橋が架かっておらず、青で印をつけた場所には橋が架かっています。

仲良橋が「なかよしこよし」の仲良だったとは思いもしませんでした(笑)。
ちなみに工事費は一万ドルだったそうです。

波之上の水上店舗(69年/77年)

波の上の水上店舗の写真がありました。


Okinawa; 1967-1971, Part 1 Naminoue Shrine view of ocean
http://d1001087.site.infoquest.com/SlideShows/Okinawa-Part-1/1/details/Okinawa_1969_05_s12.htm


以前とりあげたImages of Okinawa after World War IIの波之上の写真ではここまで大きくありませんでした。最初の写真で建物の中庭のようになっている場所がプールだとすればさすがにやりすぎな感じがします(笑)。
水上店舗(波の上)波の上プール/スケート場
左は国土交通省の77年撮影の写真(加工は自分)、右は地図をもとにしたもの。

こちらは若狭側からの波の上宮。
那覇まちのたね通信 | 那覇 波上宮/1963年 7月
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=874

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