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琉煙・沖煙 2

琉煙・沖煙の続きです。
左が壺川の琉煙、右が古波蔵の沖煙。航空写真は国土交通省の昭和52年度撮影のもので、加工は自分がしています。

整理番号 COK-77-1
地形図番号 NG-52-27-7
撮影コース C59
国土情報ウェブマッピングシステム
http://w3land.mlit.go.jp/WebGIS/index.html

左写真左下のオレンジ線は壺川大通り、右写真の左上を斜めに走るオレンジ線は与儀大通りです。右写真の右手はガスタンク跡の造成が行われていますね。

【追記】wikimediaに琉煙工場内部の写真がありましたので追加しておきます。
http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Inside_Ryukyu_Tobacco_Factory.JPG
琉球煙草工場
琉球煙草社工場(RYUKYU TOBACCO CO.FACTORY)
51年1月、那覇市壺川大通りに創設。55年、鉄筋ブロック2階建4000坪の工場を増設、原料から製品に至るまで、全行程の近代設備が完成した。月2000ケースの生産で年間1億5000万円の収入をあげ、島内自給に目覚ましいところをみせている。また原料生産面でも56年度は60町歩の植付に12万斤の収納を予想し、輸入煙草に相当割り込んでいる。
新郷土地図 第一巻/沖縄タイムス社 p53


上の説明は「新郷土地図」で同じ写真についているものです。
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オキコ製麺工場

パンのイメージが強いオキコですが当初は瓦を作っていたようです。

1947年 豊見城村(現豊見城市)に、同社の前身となる沖縄興業株式会社を設立。当時は赤瓦、カメ煉瓦の製造、販売事業を行っていた。
1953(昭和28)年 那覇市に製菓工場を開設。製菓事業を開始。瓦製造業からの事業転換。
1954(昭和29)年 製麺工場を開設。オキコそば、そーめんの製造販売事業を開始。
1960(昭和35)年 オキコ株式会社に商号変更。

http://www.okiko.net/?men=6&cat=3
オキコ - Wikipedia


旭町関連でオキコの名前が出てきたことがあります。ただ1965(昭和40)年に売却したということで旭町の埋立はもっと早いと思います。

旭町公有水面埋立地の売却
△オキコ株式会社仲田睦男氏に547坪を32846ドル(坪当たり60ドル)で売却。
市民の友 1965年7月15日 第155号


1965(昭和40)年の地図では寄宮中学校体育館の場所はオキコ製麺工場となっていて、ゼンリン71年版では駐車場になっています。寄宮中学校の20周年記念誌から体育館ができるまでの変遷を拾ってみます。

1967(昭和42)年9月 体育館用地買収契約
1971(昭和46)年8月 塀着工
1971(昭和46)年9月 体育館開き


それと57年発行の「新郷土地図/沖縄タイムス社」にオキコについて紹介があったので引用しておきます。
本では写真に下の文が添えられています。

オキコ(OKIKO.CO)
沖縄興行株式会社の製菓工場は壺川大通りにあって、敷地は500坪、施設に約700万円もようした。島内需要の菓子の約60%をみたし、日本本土、香港、東南アジア向け、月1万ドルも輸出している。
新郷土地図 第一巻/沖縄タイムス社 p53


そのほか製麺工場についても少しだけ触れてありました。
このページには麺を吊るして乾燥させている写真と、素麺のようにまとめて箱に詰めている写真があります。素麺にしてはすこし太いように見えますが...

製麺工場(BUCKWHEAT FACTORY)
首里の西森にあるクイン商事製麺工場。他に真和志市の寄宮に、沖縄興行株式会社の工場がある。ともに優秀な施設を誇っている。
新郷土地図 第一巻/沖縄タイムス社 p55

喜屋武元持

沖縄県人事録(昭和12)から喜屋武元持さんです。

喜屋武元持
那覇市通堂町1ノ2
米穀商
通堂実業界の大立物喜屋武元持君を紹介す。君は明治11年を以て首里市崎山町に生る。父の代より酒造業を営み居りしため、明治31年頃原料米仕入部を大阪市に設置し、自ら之が仕入に当つて米穀商としての経験を積み、同37年酒造業より米穀商に転じて今日に至る。目下米穀の傍ら、セメント肥料を商ひ、他に砂糖委託部、石炭部等を兼営し、本県実業界の王座を占めて家業何れも隆盛を極む。
【家庭】妻カマドさん(明11)、長男元省君(昭9)、次女静子さん(大13)


喜屋武元持さんは砂糖委託でもかなり儲っていたようです。

委託商ももっぱら旧那覇とくに西新町に集中した。たとえば委託商の数は前出『沖縄県糖業要覧』の記録によれば。1923(大正12)年期に36あげられているが、そのうち西新町12、旭町5、西本町2、通堂1、東町1、不明4となっている。またこれらのうち取扱額の大きいものをあげれば、[下一覧]などである。
---
屋宜宣忠商店/旭町/35406挺
喜屋武元持商店/西新町/28518挺
新里康昌商店/西新町/23401挺
大城加那商店/西新町/20783挺
照屋秀幸商店/西新町/20073挺
那覇市史通史編2 p335


新里康昌さんの名も見えますね。
引用文の後半には1924(昭和2)年の扱い額上位の名もありますが喜屋武元持商店は三位です。

喜屋武元持商店/西新町/69781挺
那覇市史通史編2 p335


関連:グダグダ(β) 那覇長者番付(S12) 3
参考:グダグダ(β) 新里康毅

我喜屋良徳

沖縄県人事録(昭和12)から我喜屋良徳さんです。

我喜屋良徳
薬種商
那覇市松下町1ノ10
君は明治27年を以て国頭郡今帰仁村字勢理客に生る。郷学を卒へて直ちに実業に志し、那覇市楠見薬店に店員となりて精勤すること十ヶ年、多大の信用を博して重く用ひられるところありしが、大正8年8月独立経営の為に同店を退き、同時に現住所に於いて薬種商を営み今日に至る。今や市内屈指の薬舗として発展し、声望隆にたるものあり、更に一段の大成を期待さる。

我喜屋薬舗

場所は「戦前の久茂地村民俗地図」を参考にしました。県庁側から御成橋を渡り、マークヤードスージをまっすぐ行って久茂地大通りを左折した右手です。
「戦前の久茂地村民俗地図」では「我喜屋(くすり)」と書かれていますが、昭和初期の那覇市街図(国場組社史掲載)では「我喜屋薬舗」と書かれています。
我喜屋さんは後年琉薬(琉薬 - Wikipedia)の社長も務められたようです。

1955年7月2日 代表取締役社長 我喜屋良徳就任
沿革 | 琉薬

http://www.ryuyaku.co.jp/history/index.html


検索してみると1958(昭和33)年のオキナワグラフに人物紹介で掲載されているようです。手元の人事録には写真も載っているのですが青年といった風貌で、オキナワグラフでの63歳時の風貌との差がなんとも年月を感じさせます。
オキナワグラフは電子書籍化されていて試し読みができます。

オキナワグラフ 1958年4月創刊写真ニュース誌  1958年11月号
http://okinawa-ebook.wook.jp/detail.html?id=212086


関係ないのですがマークヤードスージには宮古宿跡(現琉銀?)があります。

マークヤードゥ /maakujaadu/宮古宿
宿の名。宮古の役人の宿泊所。1609年まで、先島関係の上納事務のすべてを行っていた。通堂町の那覇埠頭(現在の沖縄製粉付近)にあった。

http://ryukyu-lang.lib.u-ryukyu.ac.jp/srnh/details.php?ID=SN51575

宮古宿跡

秋山常盤

沖縄県人事録(昭和12)から秋山常盤さんです。
この人を寄留商人と分類していいものか迷いましたがとりあえず。

秋山常盤
那覇市垣花町1ノ2
琉球織物製造 琉球青果移出
君は明治21年原籍地福岡県浮羽郡水分村に生る。明治41年島尻郡女子工業徒弟学校助教諭に招聘されて来県し大正7年退職現業に従事して今日に至る。本県機織界が製造工程に於いて手織より機械織へと飛躍し、更に質的に於いても染料の工夫、斬新な柄の選択等で、とにかくも他県品に伍して今日の地位あるは専ら君の尽力に因るものという敢て過言に非ず。業界への貢献頗る大なり。天資寡黙なれど闊達、然も情誼に厚く、思慮極めて綿密なり、機業の傍ら青果類の県外移出を兼業しこれ亦成績頗る良好なり。趣味は釣。
【家庭】妻ミヤ子さん(明23)、長女秀子さん(大12)あり頗る円満である。


小禄間切立女子実業補習学校[明36] ⇒ 島尻女子工業徒弟学校[明41] ⇒ 廃止
旧制中等教育学校の一覧 (沖縄県) - Wikipedia


県内の実業学校についてはこの論文がまとまっています。島尻女子工業徒弟学校の年表は14ページ。

明治から大正期の沖縄における女子実業教育について(第1報)―女子実業学校とその教育の情況―: University of the Ryukyus Repository
http://ir.lib.u-ryukyu.ac.jp/handle/123456789/7027


息子さんの秋山眞和さんが宮崎で「綾の手紬染織工房」という工房をやっているようです。秋山眞和さんは昭和16年生まれとのことなので最初に引用した沖縄県人事録(昭和12)時点ではまだ生まれていないことになります。

明治42年/熊本県立工業学校染織科卒業後、沖縄県立島尻郡女子工業徒弟学校に奉職
大正7年/上記学校が工業試験場となったため、教職を辞す
大正10年/染織業に展開
昭和2年/撚糸業も併設、首里上布を開発
昭和15年/沖縄県織物組合理事長となる
昭和19年8月/太平洋戦争戦況悪化のため、郷里福岡県田主丸町に強制疎開
昭和19年10月/戦火により無人の那覇市の工場を罹災、沖縄でのすべてを手放す
昭和36年/秋山眞和へ染織業引継ぎ

http://east.tegelog.jp/index.php?itemid=10333 (一部編集)



写真は上記アドレスからで、説明は「沖縄時代の工房(大正11)」となっていますから秋山織物工場なのでしょう。那覇市史の垣花町の説明で秋山織物工場の名があります。
参考:グダグダ(β) 垣花町

綾の手紬染織工房のルーツは沖縄にあります。
秋山眞和の父、秋山常磐が染色業を興したのは、大正年間のことでした。しかし、戦争により、郷里の福岡県田主丸に疎開し、その間に無人の沖縄の工場は戦火に遭い、すべてを失ってしまいました。宮崎での再出発は、昭和26年のことでした。同じく沖縄から疎開して、宮崎に住み続けた約600人の人々は仕事を持てない状況にありました。その人たちの授産施設を作るため、秋山常磐が招かれたのです。沖縄での経験を買われたからです。宮崎で、沖縄の技法による織物が始まりました。

http://east.tegelog.jp/index.php?itemid=10333


興味深い話です。

イユサギ毛

県立図書館近くの大通り沿いにあるイユザキ毛です。

イユサギ毛
「那覇市旧跡・歴史的地名地図」と「真和志民俗地図」を参考にしています。
この「トングヮー(糸満人拝所)」というのが何であるのかさっぱりわかりません。繁多川には魚崎原(イユサキバル)という地名があり、それに関連しているであろうエピソードもありますが...

「那覇復興地図」では宮城ノ嶽が15メートル、イユサギ毛あたりも同じくらいの高さはあるようですがとくに丘という地形ではなかったようです。真和志民俗地図では現セントラル病院あたりは丘になっています。

与儀から寄宮十字路の大通りは昭和に大きく拡張(?)されていて、イユサギ毛あたりの通り沿いの地形も変わったような記憶があります(たしかバス亭辺り)。
真和志民俗地図(戦前相当)でみると寄宮十字路周辺は中心となるような集落が無く、通り沿いに図のような形でちいさな集落があります。

安謝とシュガーヒル

浦添から那覇を望む空撮とシュガーヒル周辺の空撮があったのでご紹介。

Chapter XIII: The May Attack on the Shuri Defenses
http://www.history.army.mil/books/wwii/okinawa/chapter13.htm


WEST FLANK ZONE, where the 22d Marines, 6th Division, crossed Asa River toward Naha. (Photo taken 5 May 1945).


SUGAR LOAF AND HORSESHOE HILLS, photographed after the battle had moved on into Machisi and almost to Naha. Between Sugar Loaf and the hillock in foreground, where Marine attack centered, 10 knocked-out American armored vehicles can be seen.
2番目の写真は現新都心上空から大道方面に向かって撮影されたようです。


関連:グダグダ(β) 安謝からの空撮

瓦工とムチゼーク(漆喰左官)

屋根獅子の歴史紹介のサイトから。

まづ、その発生に因んで、明治以降瓦葺の家屋が増加するにつれ、壺屋の荒焼窯の職人達の中から瓦工へ転業するものがあった(小橋川永仁氏)ということに注目します。というのは、この職人達が瓦葺のムチゼーク(漆喰左官)を兼ねて、各地で漆喰製塑像をつくりはじめたと考えられるからです。
屋根獅子の様式、形式、素材 (抜粋)

http://www.zyyms.net/yanejisi3.htm

この4種類の窯は、それぞれ規模や形式の違うもので、上焼屋の窯は登窯様式の袋窯で、荒焼屋のそれは登窯様式のトンネル窯、窯小焼は荒焼窯の規模を小さくしたもの、また、アカムヌーの窯は今日の石灰を焼く窯の結構に似たものであったといわれています。
上焼窯はいうまでもなく釉薬のかかったものを焼き、今日でもその伝統は連綿として続いています。また荒焼窯は、今では一基だけしか残っていませんが、明治36年、7年頃にはその窯数およそ40にも及び隆盛をきわめていたとのことです。
この窯で焼かれたものは、方言で「カーミ」と呼ばれている穀物や酒、味噌などの貯蔵に用いられた素焼の壺類、水ガメ類等が主でありました。
ここで注目すべき点は、この窯こそ屋根獅子やお獄用の魔除獅子等が、注文によって、焼かれた窯であったということと、いまひとつは、時には屋根瓦を焼くこともあったという事実であります。
屋根獅子のつくり手 (抜粋)

http://www.zyyms.net/yanejisi4.htm


荒焼で作られていた屋根獅子が上焼で作られるようになる経過と、瓦の需要増での荒焼職人の瓦工への転身などですね。
壷屋の隣りにある牧志周辺には瓦窯や石灰窯があったようですが、これらは明治以降のことなのかもしれません。
参考:グダグダ(β) 島小(前島)

沖縄では古くから瓦をつくり、瓦屋根を葺き、それを漆喰で固めていく職人及び大方これ等の人々で構成されていた部落を、総括的に、又は個別に「からやー」と呼んでいます。
戦前は、その中で「那覇からやー」「首里からやー」がよく知られていました。那覇からやーは、今の那覇高等学校グラウンド西側にあった部落をさしているが、ほかに牧志部落にもあったようです。
首里からやーというのは、元来観音堂北側の大通り下の部落のことで、行政区画上は山川町になっている。首里にも、もう一つ鳥堀にからやーがあったらしく、どちらも首里からやーと呼ばれ、まぎらわしいのでこれと区別するため、翁長氏は自ら「観音堂からやー」と呼びならしているようです。
観音堂からやーは近年(戦後も含めて)まで部落のほとんどがこれらの職人で占められていたが、今では本職の職人は2、3名しか残っていません。この部落には、部落東端に瓦焼窯も残っていたといいます。年数にして今から55年位前だということで、大正の初期にあたります。
この事実からみて、この時期を前後する頃から「からやー」というこれまでの総合的な性格から、はっきりと職業的に瓦づくりと左官の分業がはじまったのではないかと考えられます。
したがって、漆喰製屋根獅子づくりのにない手は、それ以前は「からやー」と呼ばれた職人達で、それ以後は「ムチゼーク」と呼ばれている瓦葺屋根左官達であるといえます。勿論この二者は本質的には同一の職人なのです。
屋根獅子のつくり手 (抜粋)

http://www.zyyms.net/yanejisi4.htm


関連:グダグダ(β) 山川カラヤー

観音堂の交差点から細い道を下りてどこかの横道にはいると、瓦を積んであった記憶がありますが現在はどうなってるんでしょうか。那覇高校グラウンド西側の「那覇カラヤー」は手持ちの地図などには表示がありません。
【追記】見落していましたが県庁裏のあたりがカラヤーです(那覇民俗地図)。

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