沖縄県人事録(昭和12)から秋山常盤さんです。
この人を寄留商人と分類していいものか迷いましたがとりあえず。
秋山常盤
那覇市垣花町1ノ2
琉球織物製造 琉球青果移出
君は明治21年原籍地福岡県浮羽郡水分村に生る。明治41年島尻郡女子工業徒弟学校助教諭に招聘されて来県し大正7年退職現業に従事して今日に至る。本県機織界が製造工程に於いて手織より機械織へと飛躍し、更に質的に於いても染料の工夫、斬新な柄の選択等で、とにかくも他県品に伍して今日の地位あるは専ら君の尽力に因るものという敢て過言に非ず。業界への貢献頗る大なり。天資寡黙なれど闊達、然も情誼に厚く、思慮極めて綿密なり、機業の傍ら青果類の県外移出を兼業しこれ亦成績頗る良好なり。趣味は釣。
【家庭】妻ミヤ子さん(明23)、長女秀子さん(大12)あり頗る円満である。小禄間切立女子実業補習学校[明36] ⇒ 島尻女子工業徒弟学校[明41] ⇒ 廃止
旧制中等教育学校の一覧 (沖縄県) - Wikipedia県内の実業学校についてはこの論文がまとまっています。島尻女子工業徒弟学校の年表は14ページ。
明治から大正期の沖縄における女子実業教育について(第1報)―女子実業学校とその教育の情況―: University of the Ryukyus Repository
http://ir.lib.u-ryukyu.ac.jp/handle/123456789/7027息子さんの秋山眞和さんが宮崎で「綾の手紬染織工房」という工房をやっているようです。秋山眞和さんは昭和16年生まれとのことなので最初に引用した沖縄県人事録(昭和12)時点ではまだ生まれていないことになります。
明治42年/熊本県立工業学校染織科卒業後、沖縄県立島尻郡女子工業徒弟学校に奉職
大正7年/上記学校が工業試験場となったため、教職を辞す
大正10年/染織業に展開
昭和2年/撚糸業も併設、首里上布を開発
昭和15年/沖縄県織物組合理事長となる
昭和19年8月/太平洋戦争戦況悪化のため、郷里福岡県田主丸町に強制疎開
昭和19年10月/戦火により無人の那覇市の工場を罹災、沖縄でのすべてを手放す
昭和36年/秋山眞和へ染織業引継ぎ
http://east.tegelog.jp/index.php?itemid=10333 (一部編集)
写真は上記アドレスからで、説明は「沖縄時代の工房(大正11)」となっていますから秋山織物工場なのでしょう。那覇市史の垣花町の説明で秋山織物工場の名があります。
参考:
グダグダ(β) 垣花町綾の手紬染織工房のルーツは沖縄にあります。
秋山眞和の父、秋山常磐が染色業を興したのは、大正年間のことでした。しかし、戦争により、郷里の福岡県田主丸に疎開し、その間に無人の沖縄の工場は戦火に遭い、すべてを失ってしまいました。宮崎での再出発は、昭和26年のことでした。同じく沖縄から疎開して、宮崎に住み続けた約600人の人々は仕事を持てない状況にありました。その人たちの授産施設を作るため、秋山常磐が招かれたのです。沖縄での経験を買われたからです。宮崎で、沖縄の技法による織物が始まりました。
http://east.tegelog.jp/index.php?itemid=10333興味深い話です。
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