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社会主義者たちの派閥

金城芳子(1901生)さんと外間守善さん(1924生)の対談から引用します。

金城芳子 伊波先生が教会に移っていらっしゃって、ハルヤー(別荘)が空いたわけですよ。そのハルヤーに比嘉春潮が引っ越すんですよ。そうするとその春潮さんが住んでいるハルヤーに、島袋盛敏とか、屋部憲重とか、それから比嘉春潮の奥さんの文鳥(比嘉栄子)の前の旦那さんだった永島可昌とか、そういう新しい学校の先生たちの精鋭だな、そういう連中が集まって、社会主義研究をしていた。
外間守善 泉正重はそこには入っていますか。
芳子 泉正重さんはそこには入らなくて、山田有幹がジャーナリストたちを集めて、そこで、社会主義研究をやるわけよ。これは行動派だったからな。学校の先生たちは、どっちかっていうとまだ穏健派。山田有幹組のほうはわりと行動的なところがあって、そこに泉正重なんかがいたわけよ。池宮城積宝とか、渡久地政憑、それに城間得栄たち、ああいう人たちもいた。古波蔵保好たちもそこに集まるわけよね。
外間 じゃ、あれですね。伊波先生の思想的限界を感じた若い世代というのは、今いう山田有幹さんや泉正重さんたちなのであって、比嘉春潮グループというのはまだ穏健派として、伊波先生の周りにおられたわけなんですね。
芳子 そうなんです。
外間 ああ。その関係が大分はっきりしてまいりました。
芳子 そこのところには女はいないさ。やっぱり怖かったんじゃないかな。
外間 社会主義が。
芳子 社会主義が怖いんじゃなく、行動が怖かった。警察が怖いのさ。それから新聞記者たちの生活もふしだらなところがあったりで...。だから、私たちは大正デモクラシーだな、伊波先生はデモクラシーのにおいをたくさん持っていらしたから。そこにはわれわれ女性がたくさんいたわけよ。とにかく比嘉春潮のグループからも、山田有幹のグループからも、私たちと伊波先生はちょっと敵になっていたわけだ。われわれに「伊波氏をめぐる五人の女」という名前をつけたのはそういう連中じゃないかと思うんだ。
沖縄を語る 金城芳子対談集 p27

曝書山房
参考:グダグダ(β) 別荘(ハルヤー)


なるほど。
参考:島袋盛敏 (しまぶくろ・せいびん) - 琉球新報
参考:古波蔵保好 - Wikipedia

戦前に新聞記者たちと酒盛りをする当間重剛。瀬長亀次郎(元新聞記者)の名があるのが意外です。

泡盛よもやま話 其の二八/仲村征幸
http://www.awamori.co.jp/uruma/uruma33.html
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芋酒広告

新聞に芋酒の広告があったので書き留めておきます。

広告
一 芋酒 壹舛ニ付キ金拾五銭ヅ、
  芋葛 壹舛ニ付キ金拾銭ヅ、
右製造販売仕候間多少ニ拘ラズ御求被下奉願候啓白
明治三十一年泉崎五十五番地
九月七日 宮里良英
琉球新報 明治31年9月11日


【追記】芋酒について参考になるpdfがありました。「沖縄県立博物館紀要 第17号」です。

宮古・八重山諸島における 「酒」 の歴史的変遷
http://www.museums.pref.okinawa.jp/museum/issue/bulletin/image/kiyou17/17-2.pdf
http://www.museums.pref.okinawa.jp/museum/issue/bulletin/index.html

琉銀(1955年頃)

Wikimedia Commons から1955年頃の琉銀。

琉銀(1955)
http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Bank_of_Ryukyus_Head_Office_circa_1955.JPG

この写真は沖縄タイムス社の「新郷土地図 第1巻(1957年)」32ページからのもののようです。新郷土地図にはこの写真の他にも1950年代撮影の空撮写真があります。
左図はその空撮(p8)からの風景を基にして推定した1950年代の琉銀(青)のだいたいの位置で、右は戦前のその一帯の地図です。

両図に共通するポインタで、「薩摩藩在藩奉行所跡(後 沖縄県庁)」が赤、「勧銀支店第147支店」が緑です。緑ポインタの位置は大体でしかありません。
参考にしているのは、「那覇民俗地図」と「那覇市旧跡・歴史的地名地図」、そして「新郷土地図 第1巻」の空撮写真です。解放されてまもない当時の旧那覇市一帯は建物があまりなく、琉銀の周囲も空地で近辺には琉球海運、沖縄通運、沖縄製粉があり、少し離れて円山号跡が社会局、天妃小学校が那覇市役所となっています。
※東町の琉銀本店建物は第百四十七銀行那覇支店の建物だったようです。

那覇まちのたね通信 | 那覇/第百四十七銀行那覇支店/明治16年(1883)に設立された鹿児島の銀行である/戦後この建物は琉銀が利用していた
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=1165&from=pc


コメントで情報を頂きましたので追記しておきたいと思います。
冒頭の東町にあった琉銀本店は1966年に久茂地の現在位置に移転したようです。

1966年に東町より移転/3階建てで1969年に5階に増築
那覇まちのたね通信 | 企業/完成した新しい琉銀本店

http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=2171


そのほか現琉銀本店建設以前の写真。

那覇まちのたね通信/御成橋・琉球銀行本店敷地・琉球政府/昭和35年(1960) 3月1日
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=3408

那覇まちのたね通信 | 沖縄タイムス社前/1965年3月16日
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=604


参考:琉球銀行 (特殊銀行) - Wikipedia (復帰以前)
参考:琉球銀行 - Wikipedia

山形屋の扱い品目(1957年)

新郷土地図第3巻(1957年)に山形屋の広告がありましたので抜粋してみます。

1F/化粧品、アクセサリー、婦人肌着、婦人洋品、紳士洋品、子供洋品、靴、レインコート、学生服、帽子、化粧品、石鹸、お菓子、缶詰、食料品
2F/純毛婦人服地、純毛紳士服地、服地、ワンピース、ツーピース、婦人服誂部、紳士背広服、紳士ズボン、タオルねまき、仕立着物、お召し、銘仙、京呉服、布団綿、台所用品、漆器、琉球人形、琉球漆器、紅型、絵葉書
3F/文具、玩具、子供乗物、和家具、洋家具、応接卓、テーブル掛、カーテン、掛軸、置物、博多人形 特売場 食堂
4F/小鳥、金魚、盆栽、植木鉢 展望台 休ケイ所
新郷土地図第3巻


広告には写真もあり下記アドレスの写真とほぼ同じです(同アングルだが撮影時期は違う)。

那覇まちのたね通信 | 企業/山形屋
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=2291


コザ市胡屋大通りコザ支店もあり、「創立年月日 1950年6月1日/資本金 10,000,000円/代表取締役 当間嗣徳」とも書かれています。
山形屋は1980年に設立三十周年記念誌が出ているようなのでそれを読めばだいたいのことはわかると思うのですが未読です。

以下余談。
山形屋の向かいには松坂屋という百貨店(?)があったようですがここは情報があまりありません。神里原から国際通りに移転して鉄筋造りの建物で営業していたようですが自分が憶えているころには宝石屋になっていました。
山形屋向いの跡地は駐車場になっているようです(画像左手)。

http://g.co/maps/ga783
左は国映館から山形方面空撮、右は山形屋斜め向かいの映画看板。

左画像で黄色で囲んだ部分が右の看板があったところだと思います。角も看板だったような気がしていたのですが建物がありますね...

【追記】公文書館の写真に松坂屋前の写真があり、店舗前の看板が写っていることをコメントで教えていただきました。

http://www.archives.pref.okinawa.jp/hpdata/DPA/HTML/GRI/R08/006753.html

玉陵問題

玉陵は60年代に学生センターになる可能性があったのですが回避されています。その関連記事を抜出してみます。

聖公会の学生センター建設決まる/玉陵一帯の千坪に/那覇市が建築申請確認
那覇市建築家は、このほど市内字大道宗教法人沖縄聖公会からだされた首里玉陵の学生センター建築申請を確認した。

沖縄聖公会が一昨年、日・米聖公会と協力し、世界組織の一貫として学生センターの建設を計画▽琉大にちかく授業の合間や終了後にも利用できる▽学徒の修養にふさわしい静かな場所▽最小限千坪以上の土地を必要とするといったことから玉陵を候補地にあげ、敷地を買い取ったが、郷土の文化を守る会(山田真山会長)らからこの計画にものいいがついて三年らいもめ続けた。

(略)60年10月全会一致で玉陵への学生センター設置反対を決議した那覇市会へ玉陵保全の陳情をした。これと前後して沖縄聖公会、琉大学生会も那覇市会へ学生センター設置陳情するなど、争いは市会へもちこまれこれまで審査を続けていた。この建築確認は、政府のすすめによるもので、技術的基準にふれない限り建築確認を拒否することはできない。つまり学生センターの設置を拒否する法的根拠がないという。(略)
“円満解決を”
沖縄文化を守る会会長山田真山氏の話
  わたしたちは聖公会の学生センター教会設置には賛成で喜んでいる。ただ沖縄の特別重要文化財である王様の墓地が傷つけられることは、将来沖縄の文化財に大きな損失で残念なことであり、反対している。できるだけことを円満に解決するためちかく幹部が集まって聖公会に直接お願いし、お互いに損害のないようにしていきたい。聖公会としてはすでに土地も買い上げたようであるが、その点一般住民にも呼びかけ、他に土地を求めるように聖公会にお願いする。
沖縄タイムス 1962年4月25日
---
学生センター建設に反対/那覇市総務委/「文化を守る会」を支持
琉球新報 1962年5月11日
---
玉陵保全陳情など/けさ那覇市会で採択
(略)なお3月の定例議会から継続審査になっていた玉陵保全の陳情は郷土の文化遺産を守るという建て前から全会一致で採択。沖縄聖公会の学生センター設置陳情、琉大学生会から出た学生センター設置陳情はそれぞれとりあげなかった。
沖縄タイムス 1962年6月27日
---
政府が買い上げ/玉陵敷地/二年九ヶ月ぶり解決
政府は25日博物館敷地として玉陵の聖公会の学生センター敷地1117坪を正式に買い上げた。契約は副主席室で行われ、政府から瀬菜が副主席、文化財保護委員会荻堂事務局長、文教局大宜味社会教育課長、聖公会からハイオ主任司祭、儀武息茂弁護士が出席した。
契約金額は27000ドルで、政府は尚詮氏らから寄付金3000ドル、博物館敷地買い入れ資金6000ドルのほか、工業高校拡張費からもふりわけることになっている。
これで玉陵問題は文化財保護委員会に持ち出されてから二年九ヶ月ぶりで解決したわけ。(略)
沖縄タイムス 1962年9月26日


尚家の土地であっただろう玉陵が売買されているというのは不思議な気がします。しかし尚家も金を出し、各種予算を切り崩して対応しているというのはあわてたんでしょうね。
ちなみに復帰前の玉陵は荒れ果てていました。その後整備され、首里城建設あたりでもう一度きれいにしたかと思います。

参考:玉陵 - Wikipedia
那覇まちのたね通信 | 文化財・史跡/玉陵/尚円王統歴代の陵墓
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=3312

那覇まちのたね通信 | 文化財・史跡/崩壊した玉陵(尚円王統歴代の陵墓)
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=3311

那覇まちのたね通信 | 文化財・史跡/荒廃した玉陵/尚円王統歴代の陵墓
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=3088

那覇まちのたね通信 | 文化財・史跡/玉陵/尚円王統歴代の陵墓
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=3087

新庁舎落成座談会 2

新庁舎落成座談会の続き。

大城/那覇市民はどうしたものか。昔からナーハイバイのようですね。
長嶺/たしかに団結心はまだまだといえる。
当間/みんないっぱしのサムライと思っているのだろう。偉い人が何かいうと、すぐ「クサムニーシ」とくる。
本社/戦前は「那覇気質」が強かったようですが、長嶺さん、那覇の外部にいての感じはどうでしたか。
長嶺/ぼくなんか、ナーハンチュはこわかったよ。よくソーミナー(メジロ)取りが小禄に来て、屋敷内を荒らしまわっていたが、みんな「ナーハンチュ」とおそれいったものだ。
当間/サムライとしては、下の方だったので、いなかにいってあばれていたんだな。
山里/那覇市内でも「トマインチュ」「クニンラー」などと派閥があったくらいだからな。中でも泉崎だけは、本島につながっているため「はしうち」だといって大いばりしていたな。ほかは浮き島のため、外地人だなんていってね。
当間/しかしまあ、よくもあんなちっぽけな市でわいわいしたもんだ。10・10空襲で焼け野が原になった那覇市を見たらほんの一つかみしかないのでびっくりした。

本社/戦前の偉人、奇人伝をひとつ...。
大城/当時の三代偉人としては漢那[憲和]少将、岸本[賀昌]参事官、伊波[普猷]文学士の三人がよくいわれましたね。岸本参事官の子どもには「参事官の太郎」と呼び、二代目までもてはやされていた。
当間/参事官といったって、内容は琉球政府の参事官みたいなものさ。
長嶺/要するに、部長候補生といったものだな。たしかに頭脳はあったんでしょうな。
当間/山田真山さんも都計の仕事かなんかで役所にいたことがあるが、「500円の月給ではオレの三日間の生活費しかない」とタンカを切ったりして上司をおどろかせたものだ。とにかく名物男だった。
山里/山田さんの金の使いっぷりは、たしかに見事だった。
琉球新報 1965年9月17日[那覇市議会史p386から抜粋] (抜粋と編集)


参考:岸本賀昌 - Wikipedia
参考:漢那憲和 - Wikipedia

当間重剛さんも士族だったと思うのですがばっさり切ってますね(笑)。
湧田は「はしうち(橋内)」の気取りが鼻につくので那覇人はサバカチと言っています。

東ボンボロー、西ハーガー、久米村(クニンダ)ビタタイ、湧田サバカチ、久茂地ヌヰー、若狭町サラグヮー、壺川ホーホー、泊マースー、垣花ヒヨー。
---
湧田には、富裕な旧家が屋根門、石垣を構えたのが多く「橋内」と誇っていたのに、それには目もくれず、湧田の先(地蔵堂の上方)に居たという、しがないサバ(草履)づくりで代表させたのが皮肉だ。
グダグダ(β) 那覇人気質 2

新庁舎落成座談会

琉球新報の1965(昭和40)年9月17日に当間重剛を交えた座談会が掲載されていたので抜粋してみたいと思います。

本社[琉球新報]/当時の市長選挙はどんなものでしたか。
当間重剛/区会議員が指名して、内務大臣を通して天皇までいった。任命権は一応、天皇だった。
大城朝亮/戦前の市長はいまの市長より格は上だったわけですね。
本社/今の主席と同じですね。
当間/当時は選挙権も多額納税者のごく一部にしかなかった。だから「税金を上げてくれ」という人も多かった。「対外的信用」ってわけさ。せいぜい十何票も取れば、議員に当選できた。
長嶺秋夫/いまもそうあってほしいですね。その方が銀行からの借り入れもしやすくなる。
本社/ところで、こんどの完成した新庁舎ですが、本土の類似市に持っていくとどうですか。
長嶺/人口が30万以下の都市としては、いい方だ。同クラスの市では、那覇市におよぶものはちょっとない。もっとも45万人を目標に、あすの大那覇市にそなえて建設してあるわけだから...。
当間/じゅうぶんスペースもとられており、いい庁舎だ。しょっちゅう作りかえるわけにもいかんし、そのくらいはあったほうがいい。

本社/当間さん、そのころの市政について一つ...。
当間/ノンキなものだった。戸籍課の職員等、タバコぼんを前にキセルをポンポンたたきながら、市民と対応していたよ。市民の方がペコペコ頭を下げてね。
山里永吉/あのころは、公僕なんていう精神がまるっきりなかったからね。なにしろナハンチュ(那覇人)の最高の出世は、役所吏員になることだった。
当間/ぼくが、役所にはいったころは出勤簿等もめちゃくちゃだった。欠勤しても「欠勤」とはしなかった。「所労(しょろう)」疲れておりますということで堂々たるものだった。
山里/新聞記者もノンキなもので、ゲタバキ、ユカタ姿でゆうゆうと市長室をカッポしていた。
琉球新報 1965年9月17日[那覇市議会史p386から抜粋]


出席者は以下。
当間重剛/ラジオ沖縄社長/元那覇市長/元主席 1895(明治28)年生
長嶺秋夫/立法院議長 1908(明治41)年生?
山里永吉/琉球文化連盟副会長 1902(明治35)生
大城朝亮/那覇市教育委員

波の上外人バー街

波の上外人バー街
テケテケテケ・・・・とネオンの巷にエレキギターの音もけたたましく鳴りひびく、点滅するネオンは、エレキで踊っている風に見える。波の上バー街は、ジュークボックスがだんだん姿を消していく。最近はバンドがつかない店には、客もあまりつかなくなった。時代の流れであろう。
この波の上は、昔は観月、納涼などから海水浴場として知られる波の上宮の近くにあり、東支那海の波が岩をかみ、風光明媚なところ。そしてその近くはその昔辻遊廓があったが今は外人バー街と変って観光客向けの料亭やアメリカ人専用の歓楽街となっている。
そして戦後23年目にして、外人バー街も、化粧直しといった感じで、エレキバンドがテケテケテケと客をよんでいる。
『AOI』という店をのぞくと、カウンターを背にして、盃をかたむけている客をみて「世も変わりつつあり…」と感嘆する。Aサインバーが80軒ほどあるが、その中の10軒がバンドをつけて客のサービスに答えている。女・酒・音楽ということなのでああろう。外人も興味が現代的になったものである。
---
楽しませてくれる酒場は、なかなかありえない。
ホステスがすばらしいから寄ってもみるのだが、どうもムードが、そぐわない。どうも音楽が耳ざわりだ…というた不福にぶつかるものだ。ホステス・酒・音楽 etc…とにかく最高でなければ夜の時間が惜しい。
さて、クラブ、AOI(葵)へご案内しよう。ところは波の上歓楽街。
波の上の中心街にあり“AOI”のネオンはあなたを招いている。美女とエレキバンド、高級ウイスキー、とにかく最高づくめ、軍資金はポケットマネーでまにあう。
新しい沖縄/沖縄グラビア社 (1969年5月発行)


観光客向けの冊子のようでページ数の表記もありません。見開き2ページには外のネオン、外人のいる店内、舞台にいるバンドなどの写真が掲載されています。
ネオンのある通りの写真はコザ辺りの裏通りのような感じです。

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