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新栄橋通り(51年)

沖縄主要地・主要商工年鑑(1951)から第三図表の新栄橋通り。


店舗名は1新田家具店2の区間は新栄橋をこえて丸国向け中間まで。
上原商店、狩俣商店、牧志商店、京屋、フジヤ製靴店、末吉理髪店
3の区間は浮島通りまで。
赤田時計修理所/義手義足製作修理、土井ラジオ店、更科食堂、上原商店、大城雑貨店、大城食堂、花井書店、山本雑貨店、宮里商店(角)
4は丸国マーケット向かい。
和合舎、中松タタミ店、野原ラジオ店、コクラ時計店
5はその向かい、店舗名は平和通り側(上)から。
民衆食堂、すみれ洋裁店、マルクニマーケット
6は浮島通りから新栄橋方向中間まで。
三十四號商会、六六商会、新田商店、毎日マート、久銘次商店、渡久地商店
7は中間から新栄橋まで
振興商会、上原商店、○商店(ヿに久)、富原商店、開南工業所(角)

参考にしているのは「沖縄主要地・主要商工年鑑/上原 軟剛」で出版社は實業と文化建設社ですが、この本は52年に再販されていて店舗名等も変化しています。
上の図での4と5の区間を1952年の再販バージョンも加えて比較してみます。

51年の丸国向い(4)は浮島通り側から和合舎、中松タタミ店、野原ラジオ店、コクラ時計店、そして向い側(5)は丸国マーケットからすみれ洋装店民衆食堂となっています。
丸国向かいの道の奥の店舗は最初の図では省略しましたがモナミ美容院です。
再販バージョンの52年版。
(4)は浮島通り側から共栄堂すみれ美粧院和合舎、道をこえて十字屋楽器店か乃屋野原ラジオ店古倉時計店○儀商店。道の奥の店舗はたかさご美粧院。
向い側(5)は浮島通り側から丸国デパート、三共デパートとなっています。

壺屋通り(50年代?)で丸国向かい(図での6の区間)の店舗名を検証したのですが、十字屋という店舗名と「楽器 レコード」という看板がありました。その際にはこの二つを結びつけて考えられなかったのですが今回「十字屋楽器店」という店舗名がありましたので確定かと思います。
検証に使った図と写真を再掲します。

左図で読みとれたのは十字屋、右写真からは十字屋という名前は読み取れませんでしたが三階建てのビルの看板から「楽器 レコード」と読み取れました(写真)。
そうすると「沖縄主要地・主要商工年鑑」の51、52年の両方ともに中央の道の奥に美容院(美粧院)がありその角に十字屋楽器店があったことになります。この道の位置は現在のえびす通りとはあきらかに違います。
なんらかの変化があったとは思うのですがよくわからんとこです。

以下余談。
与の旧字体は「與」、誉の旧字体は「譽」。誉の旧字体の「譽」は与の旧字体(與)の下に言と説明できるかと思います。

一番右が「○儀商店」としてあったんですがこれは与の俗字か略字?
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硫黄鳥島の石臼

泊前島誌の「泊・前島と硫黄鳥島について」から抜粋します。

戦前、前島町の中央四叉路西角に豊里友堅が石臼を精製加工する作業所があった、この石臼の原材料は硫黄鳥島から産出され、ポンポン船で泊港経由運ばれて来た。石臼の原材料は山形といって硫黄鳥島の住民が旧噴火口の火山岩から切り出した荒削りの雌、雄一対で、船が入るたびに10〜20対運ばれて来たのを豊里友堅の弟友賢が久茂地の作業所に、友睦が糸満に二男友信の作業所が県庁通りの突き当たり、名度山愛順の家門にあってそれぞれ精製加工されて沖縄本島のみならず、宮古や八重山及び離島の山間僻地に至る迄石臼が販売供給された。
石臼は全世帯の必需品であった。これらの石臼は長い間使用していると山が擦り減って空振りするので補修する必要があった。豊里系統の方々が金槌を持って各市町村を巡回していた。
このように豊里家と硫黄鳥島の関係は深く、真喜志駿の母カナは明治22年に硫黄鳥島で生まれ、弟友信が2歳の時に父母共々泊前島に引き揚げて来たのである。処で硫黄鳥島住民の国吉、仲宗根、糸数、東江、仲村姓は豊里家と姻戚関係があり真喜志駿の幼い時、硫黄鳥島からこれらの方々が鳥島言葉丸出しで豊里家によく出入りしていたのを思い出す。
泊前島誌 p399、400(抜粋と編集)


引用箇所の前では硫黄屋(ユーワーヤ)やそれらに関わった人達について触れられています。ユーワーヤのあった場所は那覇民俗地図によると中の橋から泊小学校に行く道(ユーワーヤースージ)の右手になります。
新屋敷周辺で使った図を再掲。

右手から伸びてくる緑色が丘のようになっていて、本文中では「赤平丘陵地」と呼んでいます。この丘陵は戦後米軍が削り取って埋立に使ってしまいました。
ユーワーヤの硫黄は硫黄鳥島からのものですがWikipediaの硫黄鳥島には明治期の説明がないので本文中に引用されている「鳥島移住六拾年のあゆみ」(S38)から抜き出します。

一、硫黄鳥島の概況
(略)又硫黄に次いで挽き臼の産地として世人に良く知られた島である。島は良港なく交通に不便であった。明治38年小学校設立せしも36年の移住とともに具志川小学校へ校舎を移す。
昭和拾四〜五年頃より硫黄鉱業復活し鉱山へ出稼ぎ者増加し児童も増え戦後に鳥島小中学校設立す。昭和34年異変発生で又総引き揚げをなす。現在硫黄鳥島は無人島となり、噴火口の煙が依然として天空に吹き続いている。
二、経過(六拾年のあゆみ)
1、移住の起因
明治36年4月鳥島硫黄坑が大爆発をなし、その惨状は真に筆舌に著す事の出来ないものであった。
3、調査の報告
これ以上の惨状は無いが数年毎に又大爆発は免れないと予告す。当時の人口増加や生産の状況からおしても永住の見込みなき事で強行に移住を進めた。
6、久米島へ出発
明治36年12月20日に仁寿丸で久米島へ第一着(略)明治37年2月11日版第二回船で旧鳥島と最後の別れの出発
8、その後の状況
大正年間硫黄鉱業盛んになるや久米島より硫黄鉱山へ出稼ぎにゆくもの、又戦後硫黄採掘会社が設立された事や石臼原材料の山形を採掘する為に人口も増えつつあったが時代の波は硫黄を採掘しても採算が取れずに失敗に終わり、石臼採掘も一時期好況であったが石臼に変わる電動機械化による簡易な絞り機に取って代わり絶滅の危機に陥ったのである。
折しも昭和34年7月硫黄坑口の突然の異変が発生し爆発の危険に晒されたのでこれを機会に琉球政府の援助によって総引き揚げを断行したのである。7月30日晩、旧鳥島と別れ31日午前9時満潮丸にて泊港着。引き揚げ完了する。世帯数37戸、人口129名以降硫黄鳥島は無人の島となる。
泊前島誌 p400〜403(抜粋と編集)


まとまりがありませんが泊・前島が硫黄と縁の深いことと、硫黄鳥島でとれる石臼原料を加工して販売する泊前島の人達がいたということです。
余談として文中に少し出てくる真喜志駿さんのプロフィールを本の中から抜粋。

大正7年生、本籍前島1丁目
昭和13年近衛歩兵第三聯隊入隊
昭和21年シンガポールより復員(大尉)。広島県の南方復員本部で復員事務官。
ブリジストンタイヤ沖縄販売会社代表取締役会長。


参考:近衛歩兵第3連隊 - Wikipedia

壺屋通り(50年代?)

以前丸国周辺で動画に写っていた地図を図に起こしました。
次図は左が起こした図で右が画面キャプチャ、番号は後述する写真検証で使うために振ってあります。

この図と同時期であろう写真がありました。撮影者位置は新栄通り側、左が浮島通りで右が丸国マーケットです。

那覇まちのたね通信 | 那覇(平和通り)/新栄通り、丸国マーケット前
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=1893


その写真から丸国マーケット向いを切りとって番号を振りました。

最初の図と写真から店舗名を読み取って推定してみました。
(1)すずらん美容院、(2)○○本店、(3)那覇商会、(4)、赤嶺商店、(5)四星呉服、(6)十字屋、(7)○○、(8)○○○帽子店、(9)日本堂時計店、(10)不明、(11)嘉手川商店、(12)不明

60年代中期の地図には新生デパート向かい(中間あたり)に南陽相互銀行(赤)があります。まちのたね通信では三階建てくらいあるビルの全景が見え、ビルの看板には「楽器 レコード」と書いてあります(この時点では銀行ではない?)。

ちなみに60年代中期の店の並びは角から、だるま、国吉ミシン、赤嶺、ヲナハ(ヨナハ?)、南陽相互、ナハ商会、仲間、ヨギとなっています。

関連:グダグダ(β) 丸国周辺
関連:グダグダ(β) 三共デパート(新生デパート)

角萬漆器(嘉手納漆器店)

角萬漆器の前身である「嘉手納漆器店」は、琉球王朝時代からの歴史と伝統を受け継ぐ琉球漆器の老舗で、太平洋戦争前には、沖縄県那覇市若狭町にありました。
戦後、[嘉手納]並裕氏はビールの空き缶を塗装した筆入れや米兵のジャンパーに絵を描くような仕事から始めて、昭和23年に嘉手納漆器店を再開しました。
戦後の沖縄の社会情勢が落ち着いてくると、一般の人々が重箱や椀類などを買い求めてくるようになりました。並裕氏は、事業の目処が立ってきたことで事業の拡大を決意し、昭和33[1958]年に三代続いた「嘉手納漆器店」を現在の「角萬漆器」に改称し、那覇市前島に工房を建設しました。

琉球漆器最古の老舗 角萬漆器|角萬漆器の歴史 (※抜粋と編集をしています)
http://www.kakuman.jp/kakuman/history.html


琉球漆器最古の老舗 角萬漆器|店舗情報を参照すると現在の店舗は三店舗(前島・国際通り・開南通り)のようです。
1959年の「琉球人名商社団体要覧」では次のようになっています。

角万漆器 経営主 嘉手納並裕
那覇市新生デパート向い・電話1091
◉琉球漆器製造販売(元若狭町嘉手納漆器店)


新生デパートは丸国マーケットとなりにありました。下図に関しては丸国周辺で説明してあります(時期的には50年代?)。

不明瞭であったかなかったかよくわかりません(すみません)。
60年代中盤の地図を見ると新生デパート向かいに角萬(角万)漆器は無く、山形屋の並びに角萬漆器はありますのでこの頃までには移転していたのだと思われます。
※後日59年以降の記録を参照して追記します

戦前の嘉手納漆器店を「わかさ民俗地図」で探すと漆器店とは書かれていませんがいくつか「嘉手納・カデナ」という名前があり、新里酒造のすぐ近くの「カデナ」が大通り沿いですのでここではないかなと思いますが確証はありません。
参考:グダグダ(β) 新里酒造

以下余談。写真は角萬のサイトのものを加工してあります。

向かって左に「知念」、右に「仲」と「建築」と見えます。52(昭和27)年頃だそうです。

三坂栄造

七つ墓の近くにあった三坂ナービヤーの人です。

那覇民俗地図では「ミサカ鍋屋」、字史などでも三坂ナービヤーと呼ばれているのですが、三坂鉄工所などと書かれているものも目にします。
明治末期の工場で引用した明治43年の工場名では「三坂鋳物工場/牧志/三坂市兵衛/明治34.3/砂糖車/5人」となっていて、当時の新聞広告で川畑黙志の工場とともに三坂の砂糖車の広告もあります。
明治末期の工場主は三坂市兵衛となっていますが、昭和12年の人事録では三坂栄造の名だけがありますので世代交代したと思われます。

鉄工業(三坂鉄工所経営)
三坂栄造
那覇市前島町1ノ1
本県鉄工業界に最も古い暖簾を有し、父祖伝来の家業に百尺竿頭更に一歩を進めて隆々たる声望あるを三坂鉄工所主三坂栄造君とす。君は明治30年を以て鹿児島県姶良郡加治木町に生る。少年時代より那覇市に育ち大正8年沖縄県立第一中学校を経て大阪専修高等工業学校に入り、同13年卒業後暫く満鉄に勤務せしが、大正14年退社、家業を継承して今日に及ぶ。当家は先代の頃より鉄工業を以て家業とし、本県同業の元祖にして君又家業を継いで良く之をまもり今日の隆盛を見るに至れり。殊に君は近代科学の洗礼を受けただけに発明心に富み、昭和8年4月及同年10月の2回に亘り三坂式甘藷圧搾機を考案して新案特許を獲得し、本県製糖界への貢献少なからず。
沖縄県人事録/高嶺朝光編 (抜粋と引用)


泊前島誌には昭和32(1957)年当時の地主名簿があり三坂栄造さんの名もあります。

本籍 那覇市前島1の2/調査時の住所 那覇市1区23組/坪数 101,00/名義人 三坂栄造
泊前島誌 p437 (表より抜粋)


昭和26年6月に発行された「最新那覇市地図」を見ると1区23組は今の橋の側辺りか道路だと思われます。「最新那覇市地図」では料亭那覇の後方になっていますので戦後も戦前と同じ場所に住んでいたんでしょう。

参考:グダグダ(β) 戦後の那覇の区
参考:グダグダ(β) 料亭那覇の旧位置

仲本興正

浮島通りの由来となったホテル浮島のオーナー、仲本興正さんです。

ホテルうき島
ダンスホールうき島
南洋群島帰還会長
仲本興正
那覇市10区12組
氏は明治24(1891)年那覇市に生る。学業を卒ゆるや家業の傍ら刻苦勉○以て沖縄県巡査採用試験の難関を突破し、警察界の人となる。大正9年警部補に累進すると共に選抜されて東京警察講習所に入所、法学の万全を期して大正11年同所を卒業して勇躍母県にかへり衆望を一身に受く。翌年南洋庁に出航を被命、昭和4年には抜擢されて警部に任官、更にサイパン島沖縄県人会長に推され、同6年には南洋日日新聞社を創立し、其の社長として操こう界に奮迅、傍ら南劇場を経営、尚ガラパン町副総代、パラオ沖縄県人会長などを歴任、在留県人の良き指導者として声望厚く、1948年帰還するや宏壮極まる大ホテル「うき島」近代設備をほこる「ダンスホール」を設立、爾来家運隆々として商勢日々○昇る。傍ら空手同好興道館長を勤め尚南洋群島帰還会長を勤める風来堂々たる紳士なり。
琉球人事興信録(1950)


ゼンリン地図69年版での浮島ホテルはここ。

19人が語ったマチグヮーの歴史

那覇市が少し前に冊子を作ったようです。

この冊子は、1950年代後半から1980年代前半にかけてマチグヮーに関わった19人のみなさんへの聞き取り調査を行い「19人が語ったマチグヮーの歴史」として冊子500部を作成し、中学生が授業で活用できるように市内中学校や、公民館、図書館などに配付を予定しています。
http://www.city.naha.okinawa.jp/sisei/kaiken/y2011/m03/kaiken110323_02.htm


冊子はpdfにもなっているようで上記のページからもダウンロードできます。
直アドレスは下記。

http://www.city.naha.okinawa.jp/sisei/kaiken/y2011/m03/stuff/110323_2siryou.pdf

辰野元造さんの息子(榮一/昭和17年生)さんが登場していたりします。
参考:グダグダ(β) 辰野元造(広島屋)

この冊子はマニアックな情報もあります。例えば下記記事は「沖縄主要地・主要商工年鑑(1951)」を参考にしてるんですが、冊子で出てくる八軒食堂通りは記事での食堂街のことです。
参考:グダグダ(β) 市場通り(51年)

難癖をつけるならこの人に聞くならもっと違うこと聞いて欲しかったという気がするインタビューが多いし、市場内の変遷にもあまり触れていない気がします。つまり初期の個人による小資本の商売が集まっていただけの通りから商店街への変化、そして地元民以外を相手にする商売になった現在への変化です。
マチグヮー賞賛もいいんですが、世代交代の失敗や購買行動の変化への乗り遅れ、そして市場周辺の立地的魅力の喪失に目をつぶってもしょうがないんじゃないかと。

以下は個人的な意見ですが上記の冊子とは特に関係はありません。
個人的にはマチグヮー再生は取り組むのが20年遅く、市場の記録を残すべき時期もそのあたりだったんではないかと思います。名著「沖縄・国際通り物語—「奇跡」と呼ばれた一マイル」でインタビューを受けている人たちも軒並み故人ですし、初期からマチグヮーに関わった人の年代もその位のはずです。
昨今のノスタルジアの入ったマチグヮー礼讃や内地からの評価を軸にしたウチナー礼讃は嫌いですし、沖縄で「三丁目の夕日」をやりたい人もいるのかもしれませんがそんなもんは最初からダメなのです。

【追記】pdf中から浮島通りの木村屋前(南島製菓そば)の写真を切り出しました。右図は撮影位置。

ボウリング場

沖縄県ボウリング場協会のページに閉鎖されたボウリング場一覧がありました。

沖縄県ボウリング場協会について
http://www.bpa-oki.jp/close-center.htm


住所が那覇のものを拾ってみると、栄町ボウリングセンター、那覇ボウリングセンター(天久)、沖縄国際ボウリング(東町)、松下レーンズ(松山)、琉映ボウリングセンター(国際ショッピングセンター内)、沖縄グランドキャッスルボウル(ホテル内)、エコーグランドボウル(上間)などがあります。
そのほか那覇レーンズが浦添市勢理客556で1965〜78年。


那覇市天久907の那覇ボウリングセンターは58号線から東急ホテルゆく道のそば(細長い建物があった記憶があるがあれか?)。 ->地図
松下レーンズは那覇市松山1-5-1にある建物がそうなのか?
琉映ボウリングセンター(1972〜1990年)は国際ショッピングセンターの中(参考)。
エコーグランドボウル(1973〜1990年)は南風原高校のすぐ横にあった。
栄町ボウリングセンター(1965〜1976年)はおそらく後年サンキューになった建物。サンキュー時代は一階が駐車場で二階は広いフロアになっていた。

【追記】復帰すぐくらいの電話帳からボウリング場関連を抜き出します。

那覇レーンズ/取締役社長 宮城仁四郎
松下レーンズ/取締役社長 仲村 弘
琉映ボウリングセンター/取締役社長 宜保俊夫
沖縄国際ボウリングセンター/取締役社長 国場幸昌

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