那覇市が少し前に冊子を作ったようです。
この冊子は、1950年代後半から1980年代前半にかけてマチグヮーに関わった19人のみなさんへの聞き取り調査を行い「19人が語ったマチグヮーの歴史」として冊子500部を作成し、中学生が授業で活用できるように市内中学校や、公民館、図書館などに配付を予定しています。
http://www.city.naha.okinawa.jp/sisei/kaiken/y2011/m03/kaiken110323_02.htm冊子はpdfにもなっているようで上記のページからもダウンロードできます。
直アドレスは下記。
http://www.city.naha.okinawa.jp/sisei/kaiken/y2011/m03/stuff/110323_2siryou.pdf辰野元造さんの息子(榮一/昭和17年生)さんが登場していたりします。
参考:
グダグダ(β) 辰野元造(広島屋)この冊子はマニアックな情報もあります。例えば下記記事は「沖縄主要地・主要商工年鑑(1951)」を参考にしてるんですが、冊子で出てくる八軒食堂通りは記事での食堂街のことです。
参考:
グダグダ(β) 市場通り(51年)難癖をつけるならこの人に聞くならもっと違うこと聞いて欲しかったという気がするインタビューが多いし、市場内の変遷にもあまり触れていない気がします。つまり初期の個人による小資本の商売が集まっていただけの通りから商店街への変化、そして地元民以外を相手にする商売になった現在への変化です。
マチグヮー賞賛もいいんですが、世代交代の失敗や購買行動の変化への乗り遅れ、そして市場周辺の立地的魅力の喪失に目をつぶってもしょうがないんじゃないかと。
以下は個人的な意見ですが上記の冊子とは特に関係はありません。
個人的にはマチグヮー再生は取り組むのが20年遅く、市場の記録を残すべき時期もそのあたりだったんではないかと思います。名著「沖縄・国際通り物語—「奇跡」と呼ばれた一マイル」でインタビューを受けている人たちも軒並み故人ですし、初期からマチグヮーに関わった人の年代もその位のはずです。
昨今のノスタルジアの入ったマチグヮー礼讃や内地からの評価を軸にしたウチナー礼讃は嫌いですし、沖縄で「三丁目の夕日」をやりたい人もいるのかもしれませんがそんなもんは最初からダメなのです。
【追記】pdf中から浮島通りの木村屋前(
南島製菓そば)の写真を切り出しました。右図は撮影位置。

