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沖映・パラダイス通り(51年)

沖縄主要地・主要商工年鑑(1951)の第十四図表から沖映通り・パラダイス通りです。


1は世界館の斜め向いから入る道の両脇、国際通り側からの左手に二軒奴茶屋(角)、喫茶食堂 まるしまです。
その向い(右手)は松尾遊技場、市丸食堂、御宿松葉
2は国際通り側から入って沖映通りに進むようにゆくと左手にニュパラダイス、太陽食品加工場、その向かいは御宿知念、白赤味噌製造 外間政成です。
3は沖映通りに国際通りから入って左手からデイゴ美髪館(角)、上原測量○○所、○木製材所、中嘉山商店、丸三旅館、少し離れて糸数商店。道(パラダイス通り入口)をこえて旅館○栄、梅若亭、柏旅館、丸真組
4は国際通り側から路地の奥に司商事、川沿いに○茶グリーン、少し離れてレストランブルーライト、崇元寺に行く道に村本産業株式会社。表通りに戻ってなるみ旅館、南海林産株式会社、料亭那覇

この図で解りにくいのはダイナハ附近から曲がる川の流れが直線として描かれていることと、ダイナハ附近からまっすぐ58号線に伸びる道がまだ存在していないことです。
関連:グダグダ(β) 料亭那覇の旧位置

沖映通りの橋の位置に関しては60年代の沖映通りで取り上げたOkieitori_gabu2.jpgを参考にしました。沖縄銀行牧志支店より少し国際通り側、写真にある「耕一路」の前に橋があります。
この「耕一路」はゼンリン地図69年版でも存在しますが、その向い側にあったはずの路地や店舗はもうありません。

※タイトルを沖映通りとしてありますが沖縄主要地・主要商工年鑑(1951)には目次を含め沖映通りという名称はありません。52年版では「那覇亭通り」と「沖映通り」の表記が図によって混じってあります。
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泉崎の酒造

玉那覇 蒲(加眞)の続きのようなもんです。

明治初年の久米大通りでとりあげた嘉手納宗徳さん作成の「明治初年の久米大通りの図」から泉崎を切り出して加工しました。この図の元図は明治初年を想定して作成されている「那覇市街図」で旧那覇全体が書かれています。

下左図は上の図に「泉崎、湧田民俗地図」で酒屋と表示されているものと玉那覇(玉那ハ)とかかれている箇所を描き入れました。下右図は昭和初期の地図での位置です。
参考にしている「泉崎、湧田民俗地図」は旭町が存在する昭和期を想定して作成したと思われるものですが、敷地や道など埋立以外は明治初年とあまり変わりません。つまり下左図は明治の地図に昭和期の酒屋関係を描き入れたものということですのでご注意。

図中の酒屋は、城間酒屋(A)、神元酒屋(B)、比嘉ヌ酒屋(C)で、Dのポインタは壺川ガーで井戸です。
泡盛の文化誌(p112)に泉崎の玉那覇について以下のような記述がありました。

玉那覇酒造は明治末期から大正初期の創業といわれる。初代の玉那覇有和は首里から酒造りのために[石垣島に]来島した。
当地での酒造業が成功したので、本家の玉那覇を呼び寄せた。父玉那覇蒲(加眞)がその人であった。父は那覇の泉崎で酒屋を営んでいた。
グダグダ(β) 玉那覇蒲


図作成の参考にした「泉崎、湧田民俗地図」では玉那覇(玉那ハ)という名は二軒ありますが酒屋とは書かれていません。この記事は以前玉那覇についてわからないまま書いていたのですがコメントで情報をいただきました。引用します。

泉崎の玉那覇酒屋(玉那覇加眞)は軽便鉄道の上泉の踏切の前(踏切ヌメー)にあり、商標は玉を〇で囲み下に一を書きマルタマイチと呼んでいた。
昭和の初期に石垣に移る


那覇民俗地図では、松田橋から「タナカスージ(ピンク)」と「上ヌ段(青)」の2つの道をこえて真っ直ぐ行き壺川ガー手前で右に折れると踏切になります。右図だと城間酒屋のそばが泉崎橋で川沿いの道を河口に向って進む途中にあるのが松田橋、そのまままっすぐ行ったところにあるのが旭橋になります。松田橋から踏切に向かう道は明治初期には海岸沿いでした。
玉那覇に話を戻すとこの踏切の前にあったということですから左図に書き込んだ2つの玉那覇は条件に合わず、この踏切前に酒屋があったことになります。「泉崎、湧田民俗地図」の想定年代は玉那覇 蒲(加眞)さんが昭和初期に石垣へ行った後のことなのかもしれません。

神元酒屋は以前取り上げた神元繁宜さんだと思われます。
参考:グダグダ(β) 神元繁宜
昭和12年の長者番付には上泉に神元繁宜さん、下泉に城間安起さんの名前があります。二人とも職業は酒造となっています。
参考:グダグダ(β) 那覇長者番付(S12) 4

コメントでの御教示に感謝申し上げます。

参考:グダグダ(β) 新聞資料による旧慣制度撤廃後那覇の地図作成
参考:グダグダ(β) 昭和初期の久米と景観推定図
参考:グダグダ(β) 昭和初期の久米村図

バスターミナル設置決定の記事

バスターミナル関連(50年代)の続きです。見出しだけ取り上げた記事の全文で、市民の友第39号(1954.10.25)に掲載されています。

バスセンター実現/明るい街に、那覇市の主要道路/十一月下旬完了
那覇市都市計画に基づく牧志道路拡張工事を機会に、政府では懸案のバスセンターを警察本部裏の元甲辰小学校跡に各バス営業所並に発着場を設けることに決定し、いよいよ11月下旬から営業を開始することになった。
政府工務交通局では
○市内における自動車交通の秩序を確保することによって
交通安全の完璧を期し都市機能の円滑な運用を図り、公共の福祉を増進する。
○バス輸送の秩序を確立するとともに
一般需要者の利便を図りバス事業の適正な運営、公正な競争を確保することにより、総合的な発達を図りもって公共の福祉を増進する為バスセンターを設置する。
1. 市内バス営業所の廃止
2. 那覇市下泉町警察局裏に設置する
3. 現在のバス事業6社を3社に統合、保有台数は320台とする。
4. 停留所
△下り線 安里にむかって右側
市内バス(乗降共)
政府前、旧税務署前、むつみ橋
市外バス(乗車)
松尾廃道跡、至青バス跡
△上り線 安里にむかって左側
市内バス(乗降共)
大宝館前、旧税務署前
市外バス(降車)
旧合同バス前、松尾琉銀支店前、政府前
開南交番付近両側
△下り線 バスセンターからみて右側
市内バス(乗降共)
市外バス(乗車のみ)
△上り線 バスセンタから左側
市内バス(乗降車共)
市外バス(降車のみ)
戦後市内の各所に各バス営業所を構え、歩行者にずいぶん迷惑をかけたが、こうした畸形的な都市から明朗な繁華街に育成してゆく政府と那覇市都計の趣旨から決定されたものである。
バスセンターの設置とともにバスの発着で混雑を極めたむつみ橋附近もアスファルト舗装の完成により那覇市の主要道路として明るい街が実現するわけである。
市民の友 1954年10月25日 第39号(抜粋と編集)


当然復帰前ですので今とは逆の右側通行です。
参考:730 (交通) - Wikipedia (1978年7月30日)

仮バスターミナル(泉崎)

現那覇市役所敷地にあった仮バスターミナルをみてみます。
50年代の仮バスターミナルはバスターミナル関連(50年代)、仮バスターミナル関連の流れはとりあえずここを参照して下さい。流れとしては50年代の牧志街道の拡張工事終了とともにあちこちに乱立していたバスのりば等をまとめようとして現那覇市役所の位置に仮バスターミナルができ、その後1959年8月27日に現在の那覇バスターミナル(Wikipedia)が開設されたようです。

前に書いたことの繰り返しになりますがもう一度。
那覇まちのたね通信 | 那覇(航空写真)/県庁前交差点(琉球政府、バスターミナル)/1954年頃
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=1853

左は54年頃の泉崎辺りからの撮影で右はその解説(のつもり)。武徳殿に注意。

左は武徳殿取り壊し後の少し前の地図、右は武徳殿があるころの国土交通省の1977年撮影の写真。


市民の友(1954.10.25/第39号)には現市役所敷地に「バスセンター」として図が掲載されています(当時那覇市役所は天妃小学校)。元図は現市役所敷地のみの図でその他の情報はありません。その他にはバス停留所として建物の図がありますがこれは後述します。

図は少し前の地図を加工して作成してありますが、県庁と警察の敷地内は空白にしてアンテナ(赤)と武徳殿(茶)のみ描いてあります。敷地内のピンク色は給油場、青はバスのようです。
写真を見てみます。

これは開南小学校から現パレット向けか。
1. 那覇まちのたね通信 | 交通・運輸/仮バスターミナル(1954)
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=2246

手前が赤十字病院(現パレット)。
2. 那覇まちのたね通信 | 那覇/バスターミナル付近<(1963年頃)
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=1793

泉崎ロータリーから国際通り方向。
3. 那覇まちのたね通信 | 那覇(航空写真)/県庁前交差点(琉球政府、バスターミナル)/(1954年頃)
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=1853


そのほか現バスターミナル敷地にあった旧バスターミナルビル。この建物がおそらく市民の友にあった「バス停留所」。
4. 那覇まちのたね通信 | 交通・運輸/新バスターミナル建設中(1959)
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=2247

5. 那覇まちのたね通信 | 那覇/旧バスターミナルビルと待機するバス
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=1795

6. 那覇まちのたね通信 | 那覇/壺川から旭橋方面(1960年代後半)
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=1794


撮影位置の推定図。


【追記】1959年頃の航空写真に仮バスターミナルが写っていました。市民の友にあった図はこれでわかりやすいかと思います。

那覇まちのたね通信 | 那覇(航空写真)/県庁上空より国際通りと周辺を望む(1959年頃)
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=1863

バスターミナル関連(50年代)

市民の友からバスターミナル関連の記事タイトルと記事内容の一部を抜き出してみます。流れとしては、牧志街道(国際通り)道路拡張でバスのりばを現市役所の位置へ移動、現バスターミナルへの移動案が可決されるが瀬長亀次郎当選により融資困難になり中断という流れです。
とりあえず50年代だけ抜き出してありますので、この後市役所建設とバスターミナルの建設がありますが、それは別項にて。

バスセンター実現/明るい街に、那覇市の主要道路/十一月下旬完了
那覇市都市計画に基づく牧志道路拡張工事を機会に、政府では懸案のバスセンターを警察本部裏の元甲辰小学校跡に各バス営業所並に発着場を設けることに決定し、いよいよ11月下旬から営業を開始することになった。
1954年10月25日 第39号

バスターミナル那覇駅跡に/花城都計・宮平建築課長状況視察
現在の政府前の仮バスターミナルを元鉄道跡に移転が計画されている。
1956年2月10日 第59号

定例議会/バス・ターミナル/市営住宅管理条例等/慎重審議さる
3月定例会は3月28日市会議室において開かれた。(略)バスターミナル設置についての市長提出議案をはじめ(略)審議された。
1956年4月15日 第61号

バスターミナル建築案成る/「管理特例」事前の話合いを
市民の足ともなる交通機関の規正を図りその機能を発揮するため、バスターミナルの建設の必要性が痛感されるのであり、都心部の牧志街道に7つのバス会社が設置され、各自の発着場を同地に設け加うるに道路巾員が狭隘なるため交通は混乱しバスの持つ機能が十分発揮されな状況にあったので、牧志街道改修工事と同時に現在の仮バスセンターの設置をみたが(略)旧那覇駅跡に恒久的なバスターミナル設置計画がなされた。
1956年4月15日 第61号

琉球政府が都計事業をサボタージュ/市建設部関係者が近く声明文発表
◇バスターミナル問題
バスターミナルの設置は56年3月定例会で当時の当間市長が3800万円の全額起債で市が主体となって設置する件を提案市会が可決、琉銀からの融資も認可されていたものであるが、瀬長市長当選による不当な融資打ち切りで工事未着工のまま現在に至っている。
1957年8月1日 第78号

バスターミナル会社敷地譲渡を陳情
沖縄バス、ターミナル会社(社長上原敬和氏)はバス・ターミナル用地内の市有地7088坪を会社に譲渡し、ターミナル建設を一任させてほしいと那覇市会議長高良一氏へ陳情した。
1957年10月7日 第81号

住所表示の変更(50年代)

那覇の区で扱ったように戦後しばらくは区での住所表示になっていました。

現住所は旧番地で表示
2月12日から実施

1957年2月12日から行政事務を円滑且つ能率的に運用するために、従来何区(何組)何班何号で表示していた現住所の表し方を、今後戸籍、臨時戸籍、寄留その他、総ての行政事務処理上すべて土地台帳び地番号(何丁目何番地)で表示することになりました。
▽例
× 那覇市5区6組
○ 那覇市牧志町2丁目1番地
× 那覇市松尾B3号
○ 那覇市松尾25番地
▽村又は字に地番がない場合は無番地としますが、別に村や字毎に仮地番を附すことも出来ます。
▽行政区画上所属不明の地は普通呼ばれている名(通称)で示し()でかこむようにする。
▽自分の家が二ヶ所以上の市町村、字又は敷地番にまたがるときは自分の希望する市町村、字、地番等で表すこともできる。
▽現住所を表示するときは小字名、原名は使用できない。
▽官有地又は埋立地のおように地番が無い土地に居住する場合は、次の方法でやります。
イ 何町何丁目地先官有(何町何丁目地先海岸埋立地)
ロ 仮地番又は本地番は、字又は丁目毎に起番うぃする字何地先官有(字何地先海岸埋立)何番地
地主についても解りますが現住所の地番号がお解りでない方は市土地係で便宜をはかっています。その際、地主名がわからないと土地係としてもその調査に相当手間どりますから地主名をお調べになってからおいで下さい。
市民の友 1957年3月12日 第73号 (抜粋と編集)


これも割当土地制度や土地登記の混乱などを考えると興味深いものではあります。

戦後の灯火管制

朝鮮戦争の影響もあるんでしょうが灯火管制が度々行われたようです。
これは現在還暦くらいの戦後生まれの人も憶えてるんじゃないでしょうか。

燈火管制の強化
赤白の警報とは

最近世界情勢の推移に伴い燈火管制の成否が重要視されています。燈火管制は敵の空襲から住民を保障するとともに駐留米軍に協力する唯一の方途であります。去る[1955年]1月25日に実施された「予告なしの警報」に発令時の燈火管制状況の成績が悪く軍から注意されましたが、今後も予告なしの警報発令が継続的にあるものと予想されますので先の諸点を留意の上管制に万途を期してください。
1. 灯火管制に協力することはすべての個人(大人及び学童)の責任である。即ち各自は実際に空襲監視人たる事を自覚すべきであります。現代の飛行機は超音スピードを持っていますので第二次大戦より敏速に警報に応ずる必要があります。
2. 赤(アカ)警報は長い波状サイレン一回、4分間連続で鳴らされ、「空襲が接近」していることを示し白(シロ)警報は高低のないサイレンを2分間連続で鳴らされ「解除」であります。
3. 警報が夜間に鳴ったら各人は全ての燈火を消し空襲避難所に選定された地域に行くこと。若し本物の空襲がある場合は各人は各自の両腕で顔をおおい避難する。
4. 学校に行っている学童は窓際から離れた床にかがみ両腕で顔をおおわなければなりません。
5. 夜間の空襲の際には車両の運転手は各自の車を道端に停めて明を消し、運転手は“警報解除”まで各自の車の知覚にいなければなりません。日中の空襲の際には車を道端にとめて、他の車と50ヤード位の間隔を置かねばなりません。実験空襲がある場合運転手は車を道端に停めて車の床にかがみ両腕で顔をおわなければ[ママ]なりません。
特に市民にお願いしますのはサイレンの赤、白の警報にご注意下さい。
市民の友 1955年2月25日 第44号 (編集と抜粋)


沖縄出身の方の記憶。
「灯火管制。」 - 日本バプテスト連盟 多摩ニュータウン・バプテスト教会
http://blog.goo.ne.jp/tamanewtown-bpch/e/c319226b38b2120b52c54d386fdf2a58


51年生まれの方の記憶。
私のトリビア:沖縄では戦後も空襲警報がなっていた。
http://www.okinawa.med.or.jp/activities/kaiho/kaiho_data/2011/201101/077.html

国際通りの柳

国際通りには柳が植えられていた時期がありました。関連する記述を市民の友から抜粋します。

夏!!やなぎ通り
しかしながら市内の歩道に街路樹があるだけでも幾分その気をそそる。樟やヤブニッケイの街路樹も木麻黄もよいとして気の利いた「柳」が4本、人目をひく。それは国際中通り10区8組大湾洋服店の主人大湾宗安氏が枯れた街路[ママ]を見るに忍びず積極的に植え替えたもので、特別に手入れも行き届き大事に育てられている様もうかがえる。
(略)
大湾氏の話によると国際中央通り会の集りで街路樹の枯れたのを「柳」に植え替えることを決めたそうである。
市民の友 1956年6月18日 第64号 (省略と抜粋)


1959年に市民の友へ池宮城秀意さんが寄せた文では那覇市に欠けたものとして街路樹・掃除・公衆便所があげられています。

この那覇の街を美しくするのはペンキでもなければネオンでもない。街路樹が唯一の条件となる。これまで街路樹を植えなかったわけではないが、街路樹をおざなりに植えていたことになろう。心から街路樹を育てようとする心がけがたりなかったためである。緑は平和のシンボルとなっているが、那覇の市民たちが緑を忘れて十年余り暮らしていたということはみんなの心に平和が失われていたということになる。それがやっと、国際中央通りの商店の人達が柳の並木の育成に熱心になっている、というのも、十余年経って、ほっと、平和な心をとり戻したというわけか。美しい街路樹を育てあげることが、那覇市政の一つの大きい目標であることを市○事者も市民もいま一度、思いついてほしいものである。
市民の友 1959年1月1日 第98号 (省略と抜粋)


まちのたね通信にある1958年の大湾洋服店あたりの写真には柳があります。
那覇まちのたね通信 | 国際通り1/昭和33年(1958) 3月10日/山形屋前からむつみ橋向け
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=3429


71年。
国際通り

【追記】市民の友(59年3月/第102号)には「銀座の柳/100本那覇市へ寄贈」とあり、那覇市の要請に銀座通り会が応えて現在発想準備中、国際通りかむつみ橋〜蔡温橋間に植える予定であると書かれています。

参考:グダグダ(β) NAHA, OKINAWA - 1966
参考:グダグダ(β) Downtown Naha, 1967 (山形屋向かい)
参考:グダグダ(β) 福山商事ビル近辺 (山形屋からむつみ橋手前だけに柳がある)

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