忍者ブログ

グダグダ(β)

メンテナンス中/内容について一切保障できません
3/24アクセス解析再設置/不快に感じられる方はJavaScriptオフを推奨

MENU  ブログ内検索は左のMENUからできます

ENTRY NAVI

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

昭和12年の製麺業

「日報の沖縄人名録(昭和12年版)」から製麺業組合を抜粋します。

喜屋武元持 那覇市西本町4ノ18
西村定造 那覇市久茂地町1ノ23
儀間正忠 那覇市上泉町1ノ21
楠瀬忠重 那覇市西本町1ノ1
日報の沖縄人名録(昭和12年版)



国場組社史掲載の「昭和初期の那覇市街図」には西本町1-1あたりに製麺所とありますが、これは楠瀬忠重さんの製麺所ではないかと思われます。
過去記事から。
グダグダ(β) 西村定造 (寄留商人/西村こんにゃく)
グダグダ(β) 喜屋武元持
グダグダ(β) 那覇長者番付(S12) 3 (東町に茶商で儀間正忠の名がある)

茶商の儀間正忠は胡国善だと思いますが製麺業もやってたんでしょうか?
麺というと沖縄そばを想像するんですが、沖縄県人はそーめんじょーぐーでもありますので沖縄そばとは限らないと思われます。
PR

自動車教習所関連 2

自動車教習所関連の続き。

1968年の那覇の自動車教習所(練習所)を「沖縄人名年鑑」から抜き出します。

沖縄自練 那覇市西新町3の80 比嘉勇輝
奥武山自練 那覇市西新町3の82 喜久里寿美
美栄橋自練 那覇市字松尾183 浜川恵亮
壺川自練 那覇市字古波蔵337 浜元盛順
那覇自練 那覇市辻3丁目埋立地 高良定尚
沖縄自動車学校 那覇市字松川288 上原吉男


ほかには糸満自練、馬天自練、南風原自練、コザ自動車講習所、室川自練、普天間自練、安慶名自練、宜野湾自練、カデナ自練、大謝名自練、石川自練、ナゴ自練があったようです。

ゼンリン地図69年版での西新町。Aは「自練アト アキチ」、沖縄ダイハツKK(B)、沖縄ガスタンク(C)、沖縄自動車教習所(D)、那覇自練(E)です。赤く囲った部分は後年銀バスの三重城営業所でしたが69年の時点ではそうではなかったようです。


以下余談。
同じくゼンリン地図69年版からで、左図中のAは「那覇交通 銀バスKK」、Bは銀バス西本町営業所で赤い敷地は銀バスセンター、Cは銀バス車両置場となっています。右図も69年版の壺川で、赤が「那覇交通 銀バスKK」、隣りにある緑はオキコ株式会社です。

那覇農産加工場(古波津清昇)

拓南製鉄の古波津清昇さんのエピソードで面白いとこがあったので引用します。

発電機をおこして附近の美粧院(パーマネント)や民家に送電したり、ランプ暮らしの那覇市内で初めて電燈を灯したり、現在の新天地市場内で「那覇農産加工場」の看板をかかげ、精米、製粉、圧麦、製麺にとりくむかたわら、アイスケーキや冷凍菓子、玄米乳、豆乳なども製造する。あるいはアメリカ製粉乳を仕入れて乳酸飲料(ヨーグルト)を最初に手がけたのも古波津会長であった。
沖縄経営者列伝 p86(抜粋と編集)

東風平村にはまだ一軒もなかった精米所を旧軽便鉄道跡の[東風平村]屋宜原駅跡に建設することにした。だが業者を信じ「あなた任せの武士の商法」で見事に失敗してしまった。
再建策を模索する日々を重ね、必死の思いで製粉機械を設計。自作の図面を持って西原村の鉄工所に製作を依頼し、2ヶ月後には素晴らしい高能率の製粉機が完成した。
当時、米国政府の配給物資にトウモロコシが大量に配給されたことを知り、那覇市の神里原に住む知人の軒先を借りて、製粉機を設置することにした。トウモロコシの製粉事業は早朝から夜遅くまで人が列をなし大繁盛した。
1年後には資金の余裕もでき、本土から精米機と籾槢機、県内で米国製エンジンを購入した。閉鎖していた東風平村屋宜原の精米所を再稼働。今度は機械の調子も良く、こちらも大繁盛となった。
那覇での事業も好調で、神里原から平和通りに移り、精米や製粉だけではなく、農業試験場から休止中の冷凍機を借りて改造しアイスケーキも製造した。そのころの平和通りは香港や台湾、本土からの密輸品や米軍からの横流し品などを持ち寄る人が自然発生的に増えて、真っ昼間から堂々と闇市が開かれていた。
食品加工事業を拡大させようと、那覇市農業会が管理していた現在の新天地市場の土地250坪を買い受けた。当時は四方を川に囲まれた三角島で埋め立てが必要な土地だった。米軍が放置した鋼管や電柱を川の上流から下流へと川沿いに引っ張って来て橋をかけ、数台の荷馬車を雇って土を運んで敷地を造成した。大型テントを2棟張って機械を据え付けて工場にし、トタン屋根6坪の住宅を建てた。
同地に移転した翌年の1952年に琉球復興金融基金が発足したので、融資を受けて、テント張りを木造セメント瓦屋根45坪の工場に改築し、「那覇農産加工場」の看板を掲げた。そこでは、精米、製粉をはじめ、豆腐、アイスクリーム、製麺、漬物などあらゆる食品加工を手掛けた。
豆腐製造はまず大豆から油を搾り、おからでみそを作った。油に香水を混ぜて整髪油として売り出したらいずれも飛ぶように売れた。そのうち八重山や久米島、徳之島、奄美大島などから買い集められた麦やもみなどを仲買人から一括して購入し、離島からの物資入荷による市況を見ながら精米や押し麦などの加工販売をするようになった。
---
[61年設置の製鋼工場建設の資金難のため]そこでやむなく、那覇市松山の現日銀那覇支店跡地と、苦労して埋め立て造成した那覇市6区(現新天地市場)の那覇農産加工場の土地と建物を売却して、その代金で輸入機械の代金の決済をした。
p247
沖縄列伝 戦後史の証言者たち p238~241、p247(抜粋と編集)


拓南製鉄(昭和31年6月1日に壺川に設立)の歴史についてはこちら。沖縄県内の鉄筋とか釘はほとんどこちらの製品ではないでしょうか。

http://www.takunan.co.jp/takunanseitetsu.html

「沖縄列伝 戦後史の証言者たち」(琉球新報社)に掲載されているプロフィールを抜粋します。

1923(大正12)年、東風平村生まれ、40年八重山農学校卒、41年県農会技手。52年拓南商事、56年拓南伸鐵(現拓南製鐵)を設立。61年沖縄初の電気炉製鋼工場を完成させる。83年県工業連合会長、現在拓南グループ10社の会長を務める。
沖縄列伝 戦後史の証言者たち p223(抜粋と編集)


※この項目は「古波津清昇」から「那覇農産加工場(古波津清昇)」と変更し小波津さんは後日に単独項目として取り上げます。

国際ショッピングセンター(五味観光開発)

1973(昭和48)年6月25日の沖縄タイムスに国際ショッピングセンターの分譲広告があります。募集は地下1階名店街で192〜389万円の価格がついています。
オーナーは五味観光開発で本社は東京、広告内の地図を見ると現てんぶすの位置(牧志2丁目130番地)です。
概要の欄から抜き出します。

●構造 鉄筋コンクリート造/地下2階-地上12階<地下1階〜地上4階(完成)=ショッピングセンター・ショールーム、事務所。地上五階〜地上12階=ホテル(昭和50年3月完成予定)>
●確認番号 2002号<71年6月25日>
●竣工 昭和47年10月


73年6月の時点では4階まで出来上がっていて、昭和50(1975)年には12階まで増築する予定だったようですが、結局2000年の取り壊し時も4階のままでした。
五味観光開発は2002年に倒産しているようです。

五味観光開発(株)別荘地分譲、ホテル「町田スカイプラザ」経営。資本金5000万円、東京都町田市原町田4-19-11、五味健社長
1969年(昭和44年)8月設立
2002年(平成14年)7月4日、破産宣告。破産管財人弁護士1人選任。負債は約74億5000万円

http://www1.odn.ne.jp/~cjq24190/insolvent%20cases/21bankruptcy02.html


安里のスカイプラザホテルもここのものだったよう。

那覇スカイプラザが閉鎖
■五味観光開発破綻で 「ホテル単体は順調だった」

http://www.sokuhou.co.jp/backno/616.html

那覇タワー開業広告

別記事で那覇市内の建築物についてまとめているのですが、そこで那覇タワーについての情報をいただきました。1973年6月26日開業とのことなので当時の新聞の開業広告を確認しました。

http://www.zukeran.org/shin/d/2011/09/13/naha-tower/

那覇タワーについてはよくわからないことが多くてなにか情報がないかなと思ったのですが残念ながら目新しい情報は無し。広告はこんな感じ。

新生・観光おきなわの新しいシンボル那覇タワー完成
回転展望台で那覇全景が一望に見わたせる
19〜17F ブルースカイラウンジ
7F 和食・寿司 都、中国料理 龍園、那覇タワー会館
代表者 高良定尚
宝不動産合資会社
株式会社那覇タワー
沖縄タイムス 1973年6月26日


同じ広告内には、ブルーシールの店「くるみ」が旧本店の位置(1階タワー入口横)にオープンとあります。また軽食コーナーくるみはグループ店だったようで平和通りに本店、並里店が旧なみさとデパート、姉妹店としてグリルジュネが広告内に名前があります。

なみさとの高良盛一さんやセントラルホテルの高良嘉永さんは牧志の人ですが、高良定尚さんも牧志の地主だったのではないかと想像します。
元駐車場部分(マキシー)に関してですが、当時の交通渋滞や不法駐車による損失は凄まじいものだったようで、その対策として行われた面もあるようです。6月28日には有料駐車所が続々と作られているという記事でとりあげられていますし、連載特集記事は「赤信号 狂った交通環境」です。

【追記】業態について。
宝観光開発が破産申請/負債222億、マキシーも - 琉球新報(1999年9月1日)
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-95201-storytopic-86.html

73年の自動車学校

1973(昭和48)年10月31日現在の那覇市内の自動車学校です。

天久自動車練習所
奥武山自動車練習所(西3-10-35)
沖縄自動車練習所実習地(西3-5-1)
那覇自動車学校練習所(辻3丁目地先埋立地)
美栄橋自動車練習所(泊1-4-9)
---
壺川自動車学校(名嘉地243-2)


奥武山自動車練習所は新旧住所検索システムで検索すると現在の西3丁目6番あたりで、パシフィックホテルの向かいくらいになるようです。沖縄自動車練習所実習地の「西3-5-1」も同じく西3丁目6番あたり。
ちなみにパシフィックホテルはオープン広告によると1973(昭和48)年6月25日オープンです(パシフィック観光産業株式会社/国吉真市)。

那覇自動車学校は現在の波の上自動車学校、壺川自動車学校はゼンリン地図69年版では小禄高校隣にあります。

1970年5月の西町。
http://archive.gsi.go.jp/airphoto/ViewPhotoServlet?workname=MOK701&courseno=C11&photono=13

1977年の西町。
http://w3land.mlit.go.jp/cgi-bin/WebGIS2/WC_AirPhoto.cgi?IT=p&DT=n&PFN=COK-77-1&PCN=C58&IDX=5&PNO=1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,12,13,14,15,16,17,18,19

1号線の高圧線撤去

1964(昭和39)年まで1号線(現58号)には高圧線の鉄塔がありました。

那覇まちのたね通信 | 放送/琉球放送社(KSAR・KABK・KSAR-TV)/琉球放送沖縄タイムスの建物の上を送電線が通っている
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=2355

那覇まちのたね通信 | 那覇/都心を流れる高圧線
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=1864

那覇まちのたね通信 | 58号線(旧1号線)/泊・前島付近の1号線(58号線)
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=1992


市民の友から撤去に関する記事を抜粋します。

市内の1号線に架設された高圧線は、那覇市の都市計画に支障をきたし、旧市内の復興を遅らせるものとして那覇市・市議会は再三その撤去を米民政府に要請してきたが9月30日撤去された。(略)1号線沿いは急速に市街化するものとみられている。
市民の友 1964年12月20日 第172号(抜粋と編集)


これは那覇市十大ニュースという記事からですが1964(昭和39)年9月30日という撤去日時がわかりました。この高圧線は識名墓地を通るように変更されています。

大原周辺の工事

1964年3月の市民の友から記事内タイトルを抜粋。

土木建設だより
工業高前のアスファルト舗装
真和志2号線をタール舗装
久茂地川右沿線
ガーブ川の改修工事
具志の排水改善
大原地内の排水改修
栄町に防火水タンク
新しい庁舎の設計も完成
市民の友 1964年3月15日 第163号(抜粋と編集)



記事内容を抜粋。
「工業高前のアスファルト舗装」から。図中のCが工業高校、Bが繁多川交番。
松川停留所の位置がよくわからないので工業高校付近で線はとめてあります。
この道路は、市内松川停留所から繁多川交番にいたる幹線で、長さ962メートル、はば7メートル。アスファルト舗装工事は、工賃24400ドルで、大寛組が2月に着工し、5月には完成の予定。完成すると市内バス路線、学校道路として活用され(略)

「真和志2号線をタール舗装」から。図中のAが真和志支所で緑線は記事内容から推定した2号線。
真和志支所前から、繁多川交番にいたる真和志2号線、長さ519メートル、はば5.5メートルをタール舗装する工事は、市内盛組の請負で、1月5日に着工、5月には完成する。工賃113900ドル。

「大原地内の排水改修」から。Dが真和志琉映、Eが工業商事のだいたいの位置(65年の地図より)。
真和志琉映ということですので、バス修理所(現スーパー)の裏手あたりも入ってるかと思うんですが図には書いてありません。
大原区に関しては過去記事参照。
真和志琉映前から真和志2号線を横断し、工業商事の裏手にいたる大原地内の排水施設が整備されていないため、降雨のたびに住宅に浸水改修を望む市民の声も多かったが、さる1月7日、市内角本組(代表者角本秀次郎)の請負で工事をはじめた。

栄町の記事には「防火水タンクは、火事の場合の水利を各地に設置し消火活動を高めるもので、すでに市内の30ヶ所に設置されている」とあります。消防栓や消防車が未発達だったころにはあちこちにあったのかもしれません。

× CLOSE

ブログ内検索

アクセス解析

カレンダー

05 2025/06 07
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30

最新コメント

[08/08 なちょうらーざ]
[07/19 shimoji]
[07/19 shimoji]
[03/21 2階の店舗の娘]
[03/05 福島敏彦]

× CLOSE

Copyright © グダグダ(β) : All rights reserved

TemplateDesign by KARMA7

忍者ブログ [PR]