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戦前の松川

沖縄タイムス掲載の「思い出のわが町」から「戦前の字松川民俗地図」。

よくわからない箇所もあり正確なものではありませんのでご注意。
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那覇市内の外人関連


那覇民俗地図、真和志民俗地図で外人関係の箇所を書いてみました(年代はバラバラですが)。
護国寺はベッテルハイム、オランダ屋敷は明治の宣教師居住地(参考)、朝鮮屋敷は漂流者の滞在所(だったかな?)、唐人屋敷はわかりません。
タカマサイは与那覇勢頭豊見親ですが言葉も通じなかったということで外人枠へ(白川氏の皆さんすみません)。
参考:与那覇勢頭豊見親 - Wikipedia

あとは天久宮(天久聖現寺)も外人関連のエピソードがあったはずですが詳しいことを憶えていません...
天久宮は図では泊病院の裏、現在の外人墓地後方です。

動力船と帆船

動力船と帆船の入港先について書かれてあったので抜粋します。

根路銘の平安丸(動力)
昭和6年に伊江島から船を買い入れ、平安丸と呼ばれた34、5トンの貨物船である。昭和7年から大宜味〜那覇間の運送をはじめた。村の産物を運び、生活必需品を運び協同売店に便宜を与えた。しかし昭和8年の夏に沈没事故が塩屋湾で起きた。(中略)船は毎月5往復、避難場所は塩屋港であった。那覇での津口は第二桟橋、渡地前である。上りの便の荷物はここで降ろされ目録通り売られた。
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根路銘の船の積荷
積み荷の主なものは、材木・木炭・松炭・便木(さらぎ)・センダン・ヤラブ・イクギチ・竹・柱木などと砂糖であった。商品の主なものは、米・豆・石油・油・大豆粕・袋入肥料・セメント・ダシ小箱・下駄包・文具類・紙包・豚・牛・木材の一切・豆腐ウス・酒徳利・瓦・昆布・茶・漆器・陶器類・反物・バーキ・ソーキ・ナベカマなどで、山原の日常生活用品はすべて積荷となった。
下り荷は各字の売店前に船をつけ、田嘉里では浜に陸揚し、馬車で売店へ運んだ。木炭の集散地は与那原、那覇では帆船を利用する泊港、動力先を利用する渡地であった。
なきじん研究14号 山原の津(港)と山原船/大宜味の港 p65(抜粋と編集)


渡地(通堂町)の桟橋は通堂町(昭和4)、薪については薪の運送を参照して下さい。
下り荷で肥料を持ち帰っていますが、寄留商人・地元商人を問わず肥料を扱っている商人は多いです。このブログ内で過去に取り上げた人をピックアップしてみます。

グダグダ(β) 喜屋武元持
グダグダ(β) 新里康毅
グダグダ(β) 新里康昌 (米穀肥料商/カネコ新里商店経営)
グダグダ(β) 小松琢次郎
グダグダ(β) 小牧薫 (旭町で肥料商)

新聞資料による旧慣制度撤廃後那覇の地図作成では「字西・字東を中心とする一帯には、寄留商人による大規模な米穀、呉服、雑貨の卸売店舗、本土商店の支舗、高級旅館、銀行、大通りに面しつつも敷地の狭小な箇所については飲食店が分布する。海に面する字西の埋地には、海運業者、材木業者、砂糖や肥料関係の移出入業者とその倉庫が集中」とあります。また「字久茂地には、電機会社や農場試験場、移民取扱所、染物所、パナマ帽工場、製材工場、樽製造工場、煙草工場などの工場が多いが、久茂地川に沿った立地に起因するであろう」とありますが砂糖樽用の木材なども山原からのものです。
山原産出の木材等を陸揚げし、生活必要物資を購入するには那覇の港(渡地、泊)周辺は便利になっています。海運の盛んな時代に地方宿(宿小)がこの辺に集中したのも納得できます。

壷屋への陶土

[恩納村(間切)の]仲泊や前兼久では、港に近い山手から陶土を掘り出し、それを村船に乗せて泊港(那覇)まで運んだ。前兼久の港は比較的深かったので、浜辺に船を横付けすることができたが、仲泊は浅く、陶土の積み込みが困難であった。それを打開するために、浜辺からまっすぐ約200m沖に達する広い溝を掘って船が浜辺につくようにした。仲泊の村前の船の出入りする海底の運河をイノー路といい、今でも残っている。船に荷物を積み込むには満潮時の6時間であった。陶土を俵に入れて男は肩に女は頭に、旨まで海水に浸かって積み込んだという。屋富祖の白陶土は海辺に接した高いところから産出したので、掘った土を浜辺に落とし、船に積み込んだ。陶土は各自の村船に積み、那覇の泊港に運んだ。泊港からは伝馬船に積み替えて安里川を遡行、崇元寺橋をくぐって壷屋のカーラバンタに陸揚げした。
なきじん研究14号 山原の津(港)と山原船 p50(抜粋と編集)


「壷屋のカーラバンタ」は那覇民俗地図では見つけることができないのですが、タムンシチバ(薪積場)はあります。
陶業のための燃料は山原頼りですね。
牧志集落遠景図

恩納間切は陶土を産出し、那覇の壷屋に山原船で運んだ。赤土(赤陶土)は仲泊・前兼久の山手で産出し、白土(白陶土)は屋富祖・名嘉真、名護間切のブセナで産出した。白陶土が産出する場所は海岸に接した場所にある。赤陶土と白陶土の運ぶ比率は10対2の割合だったようだ。
なきじん研究14号 山原の津(港)と山原船 p56(抜粋と編集)

原域の変化

上間部落の中心地は当り原といいます。

当原(アタイバル)は、その村(ムラ)の中心となる。今帰仁グスクの前もハタイ原という。そこはかつての集落の中心であった。
http://rekibun.jp/21murasikouza.html


引用したページは今帰仁村歴史文化センターのものですが、ここが発行している「なきじん研究」15号に原(はる)について触れられていました。引用部分は本文ではなく、冒頭にある全体解説からです。

今帰仁間切「平敷村略図」に見る原域(第8編)についてであるが、現在の字は以前は村と呼ばれていた。その村は小字から成り立っている。その小字は明治36年の土地整理で確定したと見られる。「平敷村略図」は、現在の平敷の小字以前の小字のすべてと図面になっている貴重な資料である。具体的にどのように組み替えがなされ、現在の小字に落ち着いたのかを知る手掛かりとなる。
「平敷村略図」から、小字(原)名をつける特徴が見出せる。家々のある集落部分をアタイ原(当江原)、集落の前方を前原や前田原、集落の後方を越原(クシ原:後原)、上の方を上原、役職名の掟田原、浜のある小浜原、沢に因んだ沢原、「川を渡る場所」のある渡川原など。今では消えた小字(原)のスカ原は「塩川」、外サク原は「深い迫」など地形やカーなどに因んで名付けられている。
なきじん研究15号 Ⅱ (抜粋と編集)


205ページからの本文では明治29年以前の「平敷村略図」、明治29〜32年の「小字図」などを取り上げています。そのほかには現在の小字(原)との比較、印部石を使っての検証など。

これまで確認された今帰仁村内の印部石(原石)24基の内8基の原名が現在の小字名に存在せず、「平敷村略図」でもみた通り、約42%という大幅な組み替えがなされている。このように、小字での地名議論をする場合、大幅な組み替えがあったことを念頭に入れ、小字域は複数の原域をまとめてあるのではないか、そのことも念頭に入れて議論する必要がある。
なきじん研究15号 p212 (抜粋と編集)


掲載された「平敷村略図」と現在の小字図の違いはかなり大きいです。
以前、土地整理事業以前の原名についての資料を取り上げたのですが、その時にはこれほどの違い(のある可能性)があるとまでは思いませんでした。

印部石(しるびいし)については写真も豊富な「沖縄の印部石/沖縄県地域史協議会」という本があります。
印部石も画像検索するとけっこう出てきますね...

小林泰一郎

昭和12年の沖縄県人事録から。

土木建築請負業
小林泰一郎
那覇市西新町2ノ26
君は明治15年を以て岡山県兒島郡小串村に生る。明治45年に来県し、大正8年独立して土木建築請負業を営み今日に至る。其代表的工事としては通堂倉庫、片倉製糸を初め、近くは百貨店円山号の近代的建築物あり、それに市内一流病院の多くが君によって建築されたものと称するも敢て過言に非ず。(中略)尚君は日露戦役に出征して抜群の戦功を樹て、功七級勲八等を授けられて居り、趣味に読書、盆栽、釣を楽しむ。
沖縄県人事録/高嶺朝光編 (抜粋と引用)


家族欄には妻(明治22年生)、長男(明42)、次男(大2)、孫(昭7、10)の名があります。
30才で妻と幼い長男をつれて来県、2年後には次男誕生、来県8年後には独立して県内の近代建築に関わる、といった経歴ですから来県以前も建築関係のキャリアがあったのでしょう。

小林さんのお名前を誤記しておりました。失礼しました。(2012.07.10/訂正済)

美栄橋町(昭和4)

美栄橋町の番地です。

1、2丁目の範囲は下図参照。

美栄橋町の店舗名(昭和4)

那覇区全図(大4)を参考にした昭和4年の図(左)です。右図は同時期の那覇地図に同じように書入れたもの。

那覇市美栄橋町と真和志村の境界線はわかりにくく、区画整理がされているためほとんど目印もありません。戦前の松尾での図での境界(下左図左上)は真和志民俗地図を参考にしていますが、那覇民俗地図とは微妙に異なっています(参考:那覇民俗地図での境界)。

下図は那覇市旧跡・歴史的民俗地図での道に真和志民俗地図での境界線(ピンク)を書き入れたものです。

現国際通り入口付近は、県庁・警察署の移転、そして新県道(現国際通り)が開通してからの昭和初期以降に少しずつ市街地化していったのでしょう。

参考として。
砂川惠姿(大黒屋)さんは「昭和6年12月[大阪より]帰郷。那覇市県庁前にて大黒屋を開業」しています。

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