忍者ブログ

グダグダ(β)

メンテナンス中/内容について一切保障できません
3/24アクセス解析再設置/不快に感じられる方はJavaScriptオフを推奨

MENU  ブログ内検索は左のMENUからできます

ENTRY NAVI

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

山口森清

昭和12年の沖縄県人事録から。

山口森清
建築請負並に製材(山口組丸合製材所経営)
那覇市旭町26
君は明治21年を以て鹿児島県日置郡伊作町に生る。大正3年に来県し建築請負に従事、昭和9年丸合製材所を経営して今日に至る。山口組の名は県内各学校請負工事を以て広く知られて居り、代表的工事として真和志野陸軍演習廠舎、県病院等あり。(中略)尚昭和9年以降君のてに移れる丸合製材所は植木新太郎氏との協力により業態著しく改善され、樽板其の他の製造に好成績を挙げつつあり、将来を期待さる。
沖縄県人事録 (抜粋と編集)


参考:グダグダ(β) 旭町の店舗名

昭和9年以降に入手した丸合製材所は砂糖樽用の木材加工等もしていたということですね。
また「真和志野陸軍演習廠舎」は現在の古蔵小学校となっている場所だと思われます。

1928(昭和3)年、沖縄勤務演習廠舎及道路敷地として真和志村より4038坪の寄付があり、練兵場用地は買収し、兵舎を新築した。
沖縄県史 各論編5近代  p584(抜粋と編集)
PR

宮里 松

宮里 松
砂糖、米穀商
那覇市垣花町3ノ6
慶応元年那覇市垣花町に生まれる。青年時代より宮古島に渡り奮闘努力遂に巨万の富を得て今日に至れり。歯齢70有余歳、今なほ壮者を凌ぐ気概あり、米穀砂糖共に自ら市場を往来して買付に当り率先して繁務に没頭せり。
【家庭】カマドさん(明9)、長男三郎君(明35)、次男新吉君(明36)
沖縄県人事録 (抜粋と編集)


宮里三郎は明治(1874)年、こちらは慶応元(1965)年ですから10歳くらい違います。
垣花出身で宮古で成功した宮里、というところまでは共通なんですが関係はどうなってんでしょうか。

宮里三郎・忠一

沖縄県人事録の知念績貞の項目で「嗣子雅二郎君は宮古王宮里三郎氏の令弟にして宮古商会南洋方面の事業監督を担当し同地に活躍す」とあるのが気になっていました。
以下昭和12年の沖縄県人事録から引用しますが知念績貞との関係はわかりませんでした。とりあえずメモ代わりに。

宮里三郎
宮里百貨店主(宮古商工会長)
宮古郡平良町西里2
君は良一氏の長男にして明治7年を以て那覇市垣花町に生る。明治29年沖縄師範学校を卒業し2ヶ年の間を国頭郡羽地小学校訓導として教鞭を執りしが、間もなく実業界の人となり、宮古郡平良町に於いて商業に従事し終に今日の大を成すに至れり。目下百貨店経営の傍ら株式会社宮古商会社長、宮古電燈会社長、通船会社取締役たり、更に宮古商工会長、煙草小売人組合長其他の公職名誉職を有す。
【家庭】妻カメさん(明7)、長男良栄君(明34)、嫁春さん(明38)、次男良和君(明36)、孫康弘君(大14)、同康準君(昭5)、同喜久子さん(昭9)
沖縄県人事録 (抜粋と編集)

「平良市史 第8巻 資料編6」によると没年は1945年。父母が宮古島で経営していた宮里商店が94年11月に火災の類焼で経営が行き詰まったため97年7月に宮古島に向っています。長者番付では1918年18位、25年7位、32年3位、39年2位です。

宮里忠一
宮里商店主(宮古朝日新聞社長)
宮古郡平良町西里大通
君は那覇市垣花町の人、明治30年を以て生る。宮里三郎氏の令弟にして、夙に一家をなして同地に在り、恪勤精励以て内外の信望を厚ふし遂に今日の大を成せり。今や平良有数の老舗として金物雑貨を商ひ、傍ら幾多の事業に関係を有し、家運益々隆盛の一途を辿る。
【家庭】妻キヨさん(明32)、長男輝一君(大13)、次男照男君(昭2)、三男忠昭君(昭5)、四男修弘君(昭7)
沖縄県人事録 (抜粋と編集)

平良市史では1942(昭和17)年没。大正の頃宮古島へ寄留し山忠金物店経営となっています。

明治期の宮里商店(ヤマコ/)。
画像は下記アドレスのサイト様よりお借りしています。m(_ _)m

http://blogs.yahoo.co.jp/pusan_de/2056547.html

帖佐武二

昭和12年の沖縄県人事録から。

帖佐武二
土木建築請負業
那覇市旭町
君は明治17年を以て原籍地鹿児島県日置郡伊作町和田に生る。明治42年に来県し、爾来那覇市に定住し、大正4年独立して土木建築請負業を開始して今日に及ぶ。
沖縄県人事録


旭町の店舗名ではよくわからなかったので「○佐」と表記しましたがおそらくこの人でしょう(海沿いの昭和会館の横)。

辻之内多吉

昭和12年の沖縄県人事録から。

辻之内多吉
やまと屋染色工場主
那覇市天妃町2ノ24
君は大阪市港区八雲町の人、明治25年を以て大阪市に生る。17才の春より染色業に従事し徴兵年齢に際し奈良53聯隊に入営し満期退営後京都に上り約二ヶ年を染色研究に没頭して深く之を極め、大正13年初めて来県し那覇市西本町に於いて染色業を営み、爾来恪勤精励して多大の信用を博し、逐年業績向上、昭和元年現住所に移転して今日に及ぶ。奮闘努力の人にして其卓越せる技能は従来本県に於いて成し得ざりし美術染工を能くし、好評嘖々たるものあり、家業頗る隆盛を極めつつあり。
沖縄県人事録  (抜粋と編集)


大正13年来県ということでわりと遅く来た人で、沖縄染友会の副組合長も勤めていたようです。
参考:グダグダ(β) 沖縄染友会

国場組社史掲載の「昭和初期の那覇市街図」では天妃小学校のそばに「やまとや染工場」というのがあります。

照屋林顕

昭和12年の沖縄県人事録から。
写真は沖縄県立図書館貴重資料デジタル書庫の「沖縄県人事録/楢原翠邦編(大正5)」からです。

照屋林顕
沖縄県水産会副会長
那覇市東町4ノ33
君は慶応3年那覇市久米町に生る。明治19年沖縄県師範学校を卒業し教育界に在ること21年、明治38年教職を退き実業界に入り沖縄パナマ製帽株式会社を設立その社長となり、傍ら食品会社専務に推さる。明治42年「水産立県」を念願、本県最初の発動機漁船照島丸を建造鰹漁業に乗出し、爾来水産会のため尽瘁して今日に至る。今や水産王として斯業の改良発展に貢献し功績偉大なるものあり。帝国水産会議員、県水産会副会長、那覇市水産会長、水難救済会那覇救難所長、製氷会社監査役等の要職にあり、水産功労者として昭和5年観桜御会、同7年観菊御会お召の光栄に浴し、大日本水産会伏見総裁宮殿下より表彰され昭和11年帝国水難救済会総裁宮殿下より二等有効賞親授さる。
沖縄県人事録/昭和12年 (抜粋と編集) 


沖縄県人事録(大正5年版)では明治元年生になっています。

前に阿旦葉帽子会社と軍人遺族救護で「阿旦葉帽子製造を計画し、重に字久米軍人遺族を職工としいささか救護の途を尽す」という明治38年11月の新聞記事を取り上げたのですが最初の引用の通り帽子会社はうまくいったようです。少しの違いではあるのですが、昭和12年版では「沖縄パナマ製帽会社」、大正5年版では「沖縄帽子株式会社」になっています。
あとこの人は士族です。

大根(若狭/鏡水/和宇慶)

鏡水大根のニュースがありました。

“那覇の味”復活へ 鏡水大根、目指す普及促 - 琉球新報 - 沖縄の新聞、地域のニュース
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-193086-storytopic-5.html


直接の関係はありませんが若狭の大根について抜粋しておきます。

大根はワカサマチデークニという特殊品種で、長さ1尺6、7寸(50センチ内外)、径5、6寸(18センチ内外)もあって14、5歳の子には5本以上は持てなかった。鏡地[ママ]大根は丸く桜島大根に近かったが本種はどちらかというと和宇慶の下(ワオーキヌシチャ)大根に近い形であった。味は抜群でシミムン(煮付け)用に喜ばれた。
那覇市史資料編第2巻 中の7 p247、248(抜粋と編集)


和宇慶の下大根」らしきものは栽培されているようです。

沖縄の中でも中城村 特に和宇慶・南浜・北浜 の限られた地域で生産され、珍しい大根である。
http://arakakikoei.ti-da.net/e2326049.html


鏡水大根はこんな感じ。

http://aka-gan.com/etc/2666.html

ワカサマチデークニはどんな感じだったんでしょうか。こういう形の大根が育つのは砂まじりの土質が必要なのかもしれません。
鏡水大根の写真掲載元サイトには「鏡水大根物語」という漫画もあるのですが、ナーファチー(那覇地)での記述などを重ねて読むと興味深いです。

下吹越 一(下吹越牛乳搾取所)

このブログでは「昔の写真と資料」さまから画像をお借りする事があるのですが、下吹越牛乳搾取所と題された写真がありました。

大正時代に沖縄に在った企業 (74) - 昔の写真と資料 - Yahoo!ブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/pusan_de/3545239.html


昭和12年の「日報の沖縄人名録」にある「下吹越 一」さんだと思われます。

那覇市辻町3ノ1、138 電337
牛乳搾取
下吹越 一


辻3ノ1138」はどこかというと護国寺の向かいあたりになります。下図は昭和4年の地図での位置です。

写真の背景が海だとすればあたってるんではないでしょうか。

【追記】近代デジタルライブラリーの「大日本商工録 : 公認. 第2輯」(大正7-8)での牛乳商の項に「下吹越畝吉」の名があります。

× CLOSE

ブログ内検索

アクセス解析

カレンダー

05 2025/06 07
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30

最新コメント

[08/08 なちょうらーざ]
[07/19 shimoji]
[07/19 shimoji]
[03/21 2階の店舗の娘]
[03/05 福島敏彦]

× CLOSE

Copyright © グダグダ(β) : All rights reserved

TemplateDesign by KARMA7

忍者ブログ [PR]