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出店の移転

終戦後しばらくしてむつみ橋かいわいの国際通りには、バラック造りが軒を並べて商売した。幅員拡張工事にともない、その人たちへ琉球民政府から撤去命令が出た。瀬長亀次郎氏らが先頭に立ち、比嘉秀平主席、関係当局へ陳情、移転先探しも追った[ママ]。しかし、適当な場所がみつからない。当時むつみ橋から現ダイナハ前にかけてのガーブ川沿いの「沖映通り」は沖映が300万(B円)をかけて仮開通した。最右翼と私を決めつけていた琉球民政府職員が「宮城嗣吉氏に会い、相談しても反対される」と思い込み、陳情団へ移転先を「ガーブ川沿いにしては」と話を持ち出した。しばらくして瀬長亀次郎氏らが相談にみえた。人の頼みを断りきれない私は「当局の意向であればよいでしょう」と即座にOK。出店は一昼夜のうちに完成し翌朝から商売をはじめた。
その後2、3ヶ年ほどして「沖映通り」も那覇の都計で、改修されることになった。出店の立ち退きにこんどは市当局が手を焼き、出店を許可した私のところに又吉康和市長が自ら撤去協力に来られた。瀬長氏に会い、その話をすると瀬長氏は「君との約束は守る」と退くことを約し、それから2、3日後アッという間に泊港近くの1号線沿いに移った。
ところが1号線拡張工事でまた撤去命令を受け、こんどはガンとして動かない。米軍に呼ばれた比嘉主席、又吉市長はその対策に苦慮した。米軍は「ブルドーザーを使い敷きならせ」との強硬姿勢。時に民連ブームである。琉球政府は米軍の出方は「騒ぎを大きくする」と憂慮した。そこでガーブ川沿いの件もあり、又吉市長が宮平久米男建築課長を伴い私に相談に来た。
当初、私は「警察のする仕事で出る幕ではない」と断った。しかし、比嘉主席、又吉市長らに懇願され「話しだけでも瀬長氏に取り次ごう」と引き受けた。宮平建築課長を沖映に待たせて瀬長氏に会い色々話すと静かに聞き入っていた瀬長氏は「宮平君に思い切ってやれ、と伝えよ」と言われた。暗い心境にかられ苦悩したが、さすが瀬長氏は政治家で、私の話を了解され、翌日撤去作業は騒ぎもなく円満に解決した。
私の戦後史第5集 宮城嗣吉 p345、346(抜粋と編集)


参考:http://www.city.naha.okinawa.jp/mayor/rekidai/index.htm 歴代市長
民連ブームは兼次佐一当選時が凄かったのですが、ここでは又吉市長となっているので昭和27年3月〜28年9月の出来事のようです。
※又吉康和(在職中逝去)、当間重剛(臨時)、瀬長亀次郎(当選するがクビ)、東江誠忠(臨時)、兼次 佐一(民連ブームで当選)

余談ですが昭和28年にはこんなこともあったようです(出典:那覇市議会史)。

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中 雍吉

中 雍吉
沖縄木材株式会社取締役社長
琉球貿易株式会社監査役
国際物産株式会社監査役
明治30(1897)年4月13日生
真和志市安里2区7班
氏は那覇市松山町の出身。大正4年3月沖縄県立第一中学校を卒業し同年慶応義塾大学理財科入学、同7年病気のため中途帰郷す。後兄二人と共に家業中屋材木店を経営したが昭和16年全国木材商統制されるに当り廃業、同時に鹿児島、沖縄の両県に依る統制会社鹿沖木材株式会社設立と共に常務取締役沖縄支店長に就任す。更に昭和17年沖縄木材株式会社を創立、専務取締役に任じて終戦迄活躍多大な成果を収めた。その間沖縄本島内統合造船会社沖縄造船工場代表並に沖縄造船組合理事長に選任された。
終戦後沖縄木材株式会社取締役、琉球貿易株式会社監査役、国際物産株式会社監査役、合資会社沖縄綿花商工社(キラク)役員、琉球商工会議所理事、沖縄木材商協会副会長、沖縄輸入商協会理事、中屋材木店経営等々の現役職を兼務し八面六臂の活躍を続けている。
【家族】妻祐子55、長男一晃22(中屋材木店経営)、長女律子7
琉球紳士録 1962 (抜粋と編集)


この人は3世ではないかと思われます。
参考:グダグダ(β) 中屋材木店 (中 孝徳、中 宰輔)

戦前久茂地河沿いにあった中屋材木店は写真が残っています。

那覇まちのたね通信 | 那覇(商店)/中屋材木店全景/戦前(1935年頃)
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=1031

一箭孝三郎

昭和12年の沖縄県人事録から。

一箭孝三郎
呉服雑貨商
那覇市天妃町大門前通
君は奈良県の出身、本県の人となりて既に30有余年、即ち明治40年平尾分店店員として初めて来県し、後本店に転じ勤続すること19ヶ年、遂に大正8年独立して門戸を張りイチヤ商店を経営今日に及べり。
【家族】妻のぶ子さん(明27)、長男友三郎君(大7)あり、一子友三郎君は目下大阪佐々木商店に実務見習い中なり。
沖縄県人事録 (抜粋と編集)


平尾も寄留商人では少数派の奈良出身ですが奈良から人を雇ってたんでしょうか。大門前でも平尾本店の隣が一箭の店舗となっています。
参考:グダグダ(β) 大門前通りの商い
参考:グダグダ(β) 大門前通りの店舗名

友井熊太郎

昭和12年の沖縄県人事録からです。

友井熊太郎
醤油味噌醸造業
那覇市久茂地町2ノ60
君は明治15(1882)年原籍地熊本県熊本市春日町に生る。大正7(1918)年に来県、那覇市に定住して醸造業に従事今日に至る。
長男新太郎、次男眞吾の両君夫々一年志願兵として入営し何れも陸軍予備少尉たり、長男新太郎君は目下久茂地在郷軍人分会長の要職に就けり。
【家族】妻菊子さん(明28)、長男新太郎君(明41)、次男眞吾君(明44)、三男眞三君(大4)、長女君子さん(大5)
沖縄県人事録 (抜粋と編集)


36歳のときに妻と子供4人をつれて来県ですが醸造業はそのころからやっていたんでしょうか。人事録発行当時の昭和12(1932)年だと50歳くらいになります。
昭和12年の「日報の沖縄人名録」から沖縄味噌醤油醸造業組合

組合長 山田親徳
---
久茂地町2ノ60/幹事 友井新太郎
久茂地町2ノ60/友井熊太郎
日報の沖縄人名録(昭和12年) (抜粋と編集)


国場組社史掲載の「昭和初期の那覇市街図」にも「友井正油店」があります。

山下友輔

山下友輔
和洋食料品商(兼山商店経営)
那覇市東町1ノ4
君は明治26年を以て鹿児島県谷山町に生る。明治39年に来県し、同44年那覇市立商業学校を卒業するや、直ちに濱田商店に勤務して実務に従事し、大正6年8月自ら現業を営みて今日に至れり。全国有名食料店、荒物、雑貨類の卸を主として、キリンビール、銘酒月桂冠、森永ミルク、キツコウマン醤油の特約店たり。家業逐年隆盛を極め屈指の有名食料品店として同業界に重きをなす。
沖縄県人事録 (抜粋と編集)


山下さんは13歳くらいで来県して商業学校を出ています。
この人は恒吉得造のところで名前が出てきました。

君[恒吉得造]は明治35年を以て鹿児島県谷山町上福元に生る。山下友輔氏の令弟にして大正10年那覇市立商業学校を卒業し、同15年1月現業を営んで今日に至る。
グダグダ(β) 恒吉得造


恒吉さんにも同じような教育を受けさせていますね。

翁長松

「沖縄現代史への証言/新崎盛暉編」から引用します。この本はインタビュー集で別々の話者の話をまとめたものです。
引用部分は「明治、大正、昭和の社会相」で宮里栄輝さんがインタビューされています。

いわゆるイリチリー(常時雇い人)といっておりましたがね。それがうちに泊まり込みでずっと農業をやってくれていました。その連中はいまから考えるといろんな人がいて、那覇なんかで食いつめた連中がうちにきて、「イリチリーにしてくれんか」と言って、そして1年も2年もおりましたよ。
畜舎の低い2階に寝泊まりしておりました。休んだりするのは、居間の続きのそばの女中なんかが寝泊まりする部屋でした。賃金も払っておったようです。変な話だけれども、2、3年イリチリーをしておって後に乞食の親分になった人がいます。その人は今の瀬長亀次郎氏の住所の近くの古波蔵の馬場に家があった翁長松という人でしたが、怠け者で、その人がよく「金を借してくれ」とか何とか言って「またか」と小言をしょっちゅういわれていました。
あの頃は、那覇のいまの料亭「左馬」の近くにバクチャーという洞窟があって、岩の下がほら穴みたようで、そこはちょうどいい泊り場所なんです。そこに何人かの乞食がすんでいましたがね。そこの親分で、同宿の乞食仲間からピンをはねるようでした。そして、その翁長松という人は、時々、自分も市場なんかを廻って物をもらいに歩いておったが、洞穴内ではずっとピンハネを続けていたらしい。私いっぺんその翁長松を訪ねていったことがありますがね。そうしたらね、その人は目をキョロキョロしておったが、私が「マチューシー」と呼んだら「だれか」と聞くもんだから「私だよ」と言ったんです。そうすると、その翁長マチューという人は泣いて、「マチューシーはこんなになって…」と懺悔みたようなことを言っていましたがね。そしてあの時50銭くれたら他の乞食も寄ってきて私に哀訴していましたがたちまち翁長に一喝されて引き下がりました。
私が24、25ぐらいの頃ですね。私は幼い時その翁長という人にナイフを買ってもらったりしてずいぶん可愛がってもらいましたからね。
「沖縄現代史への証言」明治、大正、昭和の社会相/宮里栄輝 p48、49(抜粋と編集)


宮里栄輝さんは1898(明治31)年生、船越義彰さんは1926(大正15)年生。

バクチャヤーといえば(略)頂上は芝生が程よくはえ、三月三日のお重びらきには最適な場所であったが、下はガマで、そのなかには、那覇中の乞食が集まり天露をしのいでいた。翁長松(オナガー・マチュー)という親分がいて、乞食達から家賃ならぬガマ賃を徴収していたという話がある。ぼくは、翁長松の顔は知らないが、彼が死んだ時、新聞に報道されたそうだ。
なはわらび行状記/船越義彰 p69、70
グダグダ(β) ムヌクーヤーテーソー


オナガマチューは古波蔵に住んでいたが身を持ち崩してイリチリーになり、最後は物乞いの大将となり昭和の初期頃に亡くなったという感じになるでしょうか。
死亡記事などが探せれば後で追加したいと思います。

二六新聞の乞食問題

乞食問題
両三日記載せるいわゆる乞食問題に関する二六新聞七百四十三号の記事全文左の如し
乞食を琉球に送る 近来市中を徘徊する乞食の数多きを加へ中には濃[膿か]汁満面の癩病又は手足なき片輪を売物にして縁日盛り場等に押出すものありて道行く人に憐○というようりも寧ろ不快の感念を起こさしむる程なりしが警視庁は昨今乞食狩に着手し癩病不具者は遠く琉球に送りて一種の保護を加へ老病又幼稚の者は養老院へ送るなりといふ
明治39年6月16日
沖縄県史 資料編6 新聞集成政治経済1 p743(抜粋と編集)


742ページには「乞食問題に就き県当局に質す(明39.6.16)」という記事もあってそこでは本県人には東京で発生した問題の後始末をする筋合いはないとばかりに一刀両断しています。なんなんでしょうかこれは...


参考:二六新報 - Wikipedia

バクチャヤー癩患小屋の処分

県史にバクチャヤーにあった癩病患者小屋取り壊しの新聞記事がありました。
写真もあって、掘建て小屋が写っています。

バクチヤ屋下の 癩患小屋焼払る
醜い癩乞食も一掃され大那覇市に浄化の喜び
醜い姿をさらして那覇市内をあの軒この軒と一銭二銭の合力を訴へて徘徊してゐた癩患食乞の群も沖縄のエム、テイ、エル救癩運動に救はれ30名近くも市内を稼ぎ場にしてゐた男女癩病患者がそれぞれ原籍町村へ送還されたため那覇市から恐しい患者を一掃し昨今は殆ど醜い姿を消したのである、沖縄エム、テイ、エル会では彼ら癩患乞食達が温い塒(ねぐら)として巣喰ってゐた辻町バクチヤ屋下の西新町屠場前の乞食小屋が空屋同然となつたので再び彼ら癩乞食の巣とならぬ様亦市民衛生上小屋を焼払ふことになり那覇署と相談の上昨日午前10時半から那覇消防組の出動を願ひ自動車ポンプも出て警察官立合ひの下に全部焼き払ってしまつた
この癩患小屋はバクチヤ屋下海岸に面して三ヶ所に集団し、見るからに非人小屋らしく古トタンヤ[ママ]古板片で造られた見すぼらしい小屋で全部で8軒戸数にして約10戸ここに男女30名近くの癩患が生活を営んでゐたものでこの小屋にも5人の家主さんが居ゐたのである
消防隊員がガソリンをぶつかけて火を放つや忽火焔あがり見る見る間に焼失3ヶ所の小屋を見事焼き払つた、かく大那覇市には醜い癩患乞食の群が消え更に彼らの巣窟たる癩小屋が焼け払はれて市民衛生上市街美上大改革を見たわけである(写真は昨日焼き払はれた癩患小屋)
※図4「清川安彦氏 新聞切り抜き」より1935(S9)9.18の記事
沖縄県史 各論編5近代 p559(抜粋と編集)


しかし554ページの同年11月19日の「一寸那覇市内を歩いても癩の醜い姿を晒しつつ門々を一碗の恵みにすがっりつつ徘徊する男女の癩患乞食を見受ける」という記事もあるので焼き払いによって一掃されたというわけではないようです。
「沖縄県史 各論編5近代 第六部第四章」の「近代沖縄とハンセン病差別」はまとまっていますので全体像についてはそちらを見て下さい。

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