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竹野寛才

平良市史を参考にすると1896(明治29)年那覇市西村の生まれ、一中、長崎高等商業学校卒業。1916(大正5)年に台南製糖に入社、それ以降は糖業畑を歩み、戦後も経済界・糖業界の大物として君臨し1983年に没します。
写真では色白細面の人で相当にキツい人であったようです。

竹野寛才氏は姓からすると内地系と推測されるので(今のところ)寄留商人カテゴリへ分類します。改姓した沖縄県出身者の子供という可能性もあるのですが、今のところ出自や親について確定できる情報は探せていません。
またこのブログで竹野氏を取り上げるのは少し違う気もするのですが、この人が県外出身者(の子息)であったなら県内実業家中で最高に成功をした県外出身者(系)という事になるかと思われますので取り上げました。また知ってる人は知ってる問題の当事者でもあります(これについては触れません)。

【追記】この人は具志堅姓ではなかったかと推測しているのですが確証がありません。
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大正年間の宮古島平良における商店

「沖縄の都市空間/堂前亮平」の113ページ表からデータを抜き出しました。通り別に分けられていたものを出身地別に並べ替えてあります。
データは<店名・屋号|経営者出身地|主な扱い商品>の順です。また元表中にあった宮古出身者の店舗は除きました。

有銘|那覇|日用雑貨、小間物
上原|那覇|雑貨、後に砂糖委託販売業
上原|那覇|雑貨
大見謝本店|那覇|呉服
大見謝分店|那覇|呉服
嘉手納|那覇|小間物
神元|那覇|塩・専売
金城(カニマッチャ)|那覇|雑貨
金城(カニマルトー)|那覇|雑貨
金城(カニツ)|那覇|雑貨
慶留間|那覇|コンニャク、藍染め
瀬名波|那覇|新聞
忠金物店(ヤマチュー)|那覇|金物
平良真宜|那覇|呉服
名城|那覇|雑貨
名渡山|那覇|雑貨、上布の原料糸、みそ・しょうゆ
野村酒造|那覇|酒
堀川|那覇|履物
宮里(カニサーイチ)|那覇|金物、雑貨、穀物
宮里(ヤマコ)|那覇|日用雑貨、上布の仲介業、石油、カツオ節
山里(カネリー)|那覇|雑貨、茶の卸業

伊良波|沖縄本島|呉服
亀浜|沖縄本島|雑貨
金城|沖縄本島|呉服
源河|沖縄本島|雑貨
城間|西原|文具、印刷
渡嘉敷|沖縄本島|雑貨
當間本店|沖縄本島|呉服
根路銘|沖縄本島|雑貨
宮城|沖縄本島|駄菓子
ミーカーヤー|沖縄本島|雑貨
ミーガマ金城|沖縄本島|呉服
山川|沖縄本島|雑貨

松元|鹿児島|宮古上布の買継ぎ
日向|他県|日用雑貨、文房具類
渡辺|鹿児島|米雑穀、洋品雑貨、砂糖・上布の買継ぎ
鮫島|鹿児島|海産物
原田|鹿児島|薬、穀類、上布・砂糖の買継ぎ
柿元|鹿児島|学用品、穀類、塩
指物工|鹿児島|小間物
西の大阪|和歌山|雑貨、上布買継ぎ
東の大阪|和歌山|雑貨
大野書店|東京|書籍、雑貨
佐藤金物店|四国|金物
鎌田自動車|他県|自動車修理・販売
田中洋品|他県|洋服
藤代|他県|海産物問屋
是枝薬店|他県|薬


沖縄の都市空間/堂前亮平 p113(抜粋と編集)

平良の寄留人(宮古島)

戦前平良の市場通りと西里通りには50店余りの寄留商人の店が軒を並べて一大商業地区を形成していた。市場通りと西里通りの交差点はスータノユマタと呼ばれ、ここが寄留商人の店の始まりといわれる。スータとは塩田という鹿児島出身の寄留商人がここに居住していたことから呼称されたものである。
商店の建物は多くは瓦葺き一階建てで、一部には二階建てもみられた。商店では砂糖・宮古上布の仲買い、呉服、雑貨、金物、書籍、酒、履物、薬など多種多様な商品が販売されていた。表(※1)は大正時代の平良に於ける商店について、店名・屋号、経営者出身地、おもな扱い商品を示したものである。なお、ここで示した商店は、一般販売の小売・卸売(買継ぎを含む)に限ったものであり、食堂、映画館、理髪店などの飲食、サービス業を除いた。これらの業種にも寄留人が経営していた店は多くみられた。
表から寄留商人の出身地をみると、宮古を除く沖縄県内出身者の店は33店、沖縄県外出身者の店は15店である。ここには宮古出身者の店は2店のみで、1店は薬局、他の1店は一般の雑貨店であった。沖縄県内出身者は那覇出身者がほとんどで、那覇のなかでは泊、垣花の出身者が多くみられた。一方、沖縄県外出身者では鹿児島県出身者が大部分を占めていた。他には和歌山県出身者などがみられる。
県外出身者の商店はメイン通りである西里通りに比較的多く集まっている。
沖縄の都市空間 堂前亮平 p111、112(抜粋と編集)

(※1)をつけた「表」の内容は「大正年間の宮古島平良における商店」で別記事にしました。

那覇出身者がメインで、そのなかでも泊と垣花が多かったということですか。
参考:グダグダ(β) 宮里三郎・忠一宮里 松 (在宮古垣花出身商人)
参考:グダグダ(β) 宮古島の寄留商人

最初の料亭は、旧藩時代に山原船の船乗りを相手に、当時寄留人の集落であった小屋毛にあったとされている。(中略)戦前料亭は約20軒集積し、料亭街を形成していた。宮古の料亭の事をサカナヤーと呼んでおり、笹森儀助の『南嶋探検』にも記されているように、当時の料亭は遊廓を兼ねている場合が多かったようである。一方、この料亭の経営者は宮古の人と沖縄本島とりわけ那覇出身の人たちである。一方、この料亭を利用し支えたのは、船舶の乗組員、勤め人、それにカツオ節、黒砂糖景気時の農漁民それに寄留商人たちであった。
また、この料亭の従業員の女性たちは那覇出身の女性が多かった。そして日常の会話は沖縄本島方言、三線と共に流れる歌も沖縄本島か八重山民謡であったという。
沖縄の都市空間 堂前亮平 p117(抜粋と編集)


この料亭従業員の女性はチージサガイ(辻下がり)で触れた遊廓で働けなくなったジュリではないかと想像しますが、そうであったなら「那覇出身の女性」というのは純粋な那覇生まれではなく辻育ちの人でしょうね。
ただこういう新聞記事もあるのでそうではない可能性もあるかとは思います。

明治28年の料亭・割烹

1895(明治28)年の「袖珍沖縄旅行案内 全」から。
画像は沖縄県立図書館貴重資料デジタル書庫、画像は切り出して画質調整してあります。

▲遊廓 辻を第一とし中島渡地之れに次く辻にて有名なるものは荒神の前大福渡名喜伊保柳香々小新屋染屋小等とし又内地芸妓を養ひ宴会の席に侍せしむ所を通堂とし辻中島渡地を通じて貸座敷631戸娼妓1442人芸妓辻9人中島4人又通堂の貸席割烹店は東屋芸妓21人を有し常磐仝9人小徳仝10人海月3人券番3人合計46人
▲貸席 最高尚にして眺望絶佳なるものを吾妻館とし域内に西洋料理蓬萊温泉あり座敷最広きを常磐新席とす
▲割烹店 席貸を兼ぬるものは東屋本店常磐小徳海月とし純粋なる割烹店を東屋分店とし其の他三国屋京亀玉川屋いろは等あり
▲演芸場(省略)
▲旅館 那覇の池畑回漕店浅田山川森田を最上として嘉手納前兼久名護等にあり


同じ本の末尾にはここで取り上げられた店の広告があります。

グダグダ(β) 吾妻館の広告(明治28)
グダグダ(β) 東家本店・東家分店
グダグダ(β) 常磐楼
グダグダ(β) 三国屋/浅田五三郎/池畑回漕店/岩満写真場
グダグダ(β) 沖縄印刷所/柳屋/山川旅館

片山パナマ帽子製造場(片山徳次郎)

那覇区字西通堂片山徳次郎氏のパナマ帽子製造場は昨年初頃の創立にて其後天災其他種々の事情の為め非常の困難に遭ひ一時は殆と閉場の悲運にまて立至りしも氏は益々奮励一身を同事業に擲ち撓ます屈せす鋭意熱心に経営画策したる結果目今の処にては原料製造法及ひ帽子製造の技術も著しく発達し県下屈指の工場として大に見るへきものあり。同工場は資本金10000円、男女職工20名、賃金(日給)30銭乃至30銭、横浜、大阪、名古屋、播州等の各地に原料一手販売所(一ヶ月約1500円位)を置き盛に製造しつつあるか近頃より益々規模を拡張し先月初頃名護に支部(男女職工60名)を設置し本月より益々手を伸ばし八重山に支部を増設する目論見なりとの事なり。同工場の製造品はパナマ帽子原料(阿谷葉)一本に就き1厘5毛、パナマ帽子1ダース140円より250円位(*1)にてパナマ帽子の如きは色合いの純白にして不要色なると経緯の極細くして目方の軽ろいことは同工場製品の特色特長とも申すへき点にして各府県は勿論純粋のパナマ帽よりも一掃優りたる観ありて将来有望の事業なり。
明治37年8月1日
沖縄県史 資料編6 新聞集成政治経済1 p589、590(抜粋と編集)

(*1)同年8月3日付記事(p590)で「並品50円より90円迄極上品120円より150円迄の誤聞に就き訂正す」と訂正されている。

通堂の西側にあったということでしょうか。
明治43年には松川に工場があったようです。

片山組沖縄工業本部/真和志村松川/片山組/明治39.8/アダン葉帽子/350人
那覇市史資料編第2巻下 p430,431(引用と編集)
グダグダ(β) 明治末期の工場

沖縄印刷所/柳屋/山川旅館

沖縄県立図書館貴重資料デジタル書庫の「袖珍沖縄旅行案内 全」1895(明治28)年からで、切り出して画質調整してあります。


http://archive.library.pref.okinawa.jp/?type=book&articleId=51006
左から「沖縄印刷所 那覇西村123番地」「那覇 大門通 柳屋」「御旅館 山川新五郎 沖縄県那覇西村460番地」。

「御旅館 山川新五郎」は山川旅館だと思われます。

▲旅館 那覇の池畑回漕店浅田山川森田を最上として嘉手納前兼久名護等にあり
袖珍沖縄旅行案内 全 p18、19

小嶺幸之

大正5年の沖縄県人事録から小嶺幸之さんです。
画像は沖縄県立図書館貴重資料デジタル書庫からで切り出して画質調整してあります。

小嶺幸之
八重山炭坑事務所主任
沖縄県士族
明治4(1871)年を以て那覇区字西に生る。士族故幸通氏の長男にして同29年家督を相続し、現に長男幸申の外、庶子たる次郎、三郎及千代、八重子等の児あり。夙に普通学を卒へて爾後専ら実業的修養に努め、弱冠にして既に家業たる漆器商の経営に当り、拮据勉励して漸次に隆盛を極め、県下屈指の製造場として信望高かりしが、遂に数年前を以て業を廃し、現地に壮麗なる家を新築して之れに移転せり。其前広運株式会社常務取締役に推薦せられて多年を其職に精励せしが、現に沖縄土地建物株式会社取締役及八重山炭坑会社取締役の職に在り。又曩[さき]に丸一商店の事業を引き受け支那福州に於て製茶業を営み、近時八重山炭坑の末広丸を以て石炭を香港に送らしめ、其復航には製茶其他南清貨物を積載して之れを輸入し、南支貿易を盛んに奨励しつつあり。
(那覇区西新町3丁目 電話225番)
沖縄県人事録/楢原 翠邦編 (抜粋と編集)


大物ですね。

関連:グダグダ(β) 小嶺漆工場/小嶺幸之  (沖縄県那覇西村十八番地 小嶺漆工場)

小嶺漆工場/小嶺幸之

画像は沖縄県立図書館貴重資料デジタル書庫の「袖珍沖縄旅行案内 全」1895(明治28)年から。切り出して画質調整してあります。

http://archive.library.pref.okinawa.jp/?type=book&articleId=51006

本工場は来る三月初頭より営業の運びに相成り
明治廿八年二月 沖縄県那覇西村十八番地 小嶺漆工場

この小嶺さんは下記の工場の人と同じだと思われます。

小嶺漆器工場/西町/小嶺幸之/明治28.4/漆器類/10人
那覇市史資料編第2巻下 p430,431(引用と編集)
グダグダ(β) 明治末期の工場


また明治36(1903)年に沖縄県人による沖縄砂糖商店(砂糖委託)が設立されていますがそこの創立メンバーでもあったようです。
参考:グダグダ(β) 沖縄砂糖商店

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