戦前平良の市場通りと西里通りには50店余りの寄留商人の店が軒を並べて一大商業地区を形成していた。市場通りと西里通りの交差点はスータノユマタと呼ばれ、ここが寄留商人の店の始まりといわれる。スータとは塩田という鹿児島出身の寄留商人がここに居住していたことから呼称されたものである。
商店の建物は多くは瓦葺き一階建てで、一部には二階建てもみられた。商店では砂糖・宮古上布の仲買い、呉服、雑貨、金物、書籍、酒、履物、薬など多種多様な商品が販売されていた。表(※1)は大正時代の平良に於ける商店について、店名・屋号、経営者出身地、おもな扱い商品を示したものである。なお、ここで示した商店は、一般販売の小売・卸売(買継ぎを含む)に限ったものであり、食堂、映画館、理髪店などの飲食、サービス業を除いた。これらの業種にも寄留人が経営していた店は多くみられた。
表から寄留商人の出身地をみると、宮古を除く沖縄県内出身者の店は33店、沖縄県外出身者の店は15店である。ここには宮古出身者の店は2店のみで、1店は薬局、他の1店は一般の雑貨店であった。沖縄県内出身者は那覇出身者がほとんどで、那覇のなかでは泊、垣花の出身者が多くみられた。一方、沖縄県外出身者では鹿児島県出身者が大部分を占めていた。他には和歌山県出身者などがみられる。
県外出身者の商店はメイン通りである西里通りに比較的多く集まっている。
沖縄の都市空間 堂前亮平 p111、112(抜粋と編集)(※1)をつけた「表」の内容は「
大正年間の宮古島平良における商店」で別記事にしました。
那覇出身者がメインで、そのなかでも泊と垣花が多かったということですか。
参考:
グダグダ(β) 宮里三郎・忠一、
宮里 松 (在宮古垣花出身商人)
参考:
グダグダ(β) 宮古島の寄留商人最初の料亭は、旧藩時代に山原船の船乗りを相手に、当時寄留人の集落であった小屋毛にあったとされている。(中略)戦前料亭は約20軒集積し、料亭街を形成していた。宮古の料亭の事をサカナヤーと呼んでおり、笹森儀助の『南嶋探検』にも記されているように、当時の料亭は遊廓を兼ねている場合が多かったようである。一方、この料亭の経営者は宮古の人と沖縄本島とりわけ那覇出身の人たちである。一方、この料亭を利用し支えたのは、船舶の乗組員、勤め人、それにカツオ節、黒砂糖景気時の農漁民それに寄留商人たちであった。
また、この料亭の従業員の女性たちは那覇出身の女性が多かった。そして日常の会話は沖縄本島方言、三線と共に流れる歌も沖縄本島か八重山民謡であったという。
沖縄の都市空間 堂前亮平 p117(抜粋と編集)この料亭従業員の女性は
チージサガイ(辻下がり)で触れた遊廓で働けなくなったジュリではないかと想像しますが、そうであったなら「
那覇出身の女性」というのは純粋な那覇生まれではなく辻育ちの人でしょうね。
ただ
こういう新聞記事もあるのでそうではない可能性もあるかとは思います。
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