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泊前島誌より引用します。
犬猫はヤギと同じくクスイムン扱いですが現在では愛玩動物の位置に昇格しています(笑)。現在でも行われるクスイムンとしての食事はヒージャーとかターイユとかが残ってるだけでしょうか。

ガーブーでは時折自家飼育のヤギの密殺が行われたが警官は知らん顔だった。長い葬儀の行列と洗骨の風習、近くのフェーライ山は猫の死骸捨て場で首をくくられた猫の死骸が幾つも松の小枝につり下げられ山風の吹くままに揺れ動いていた。
泊前島誌 p368
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上間(当り原)

上間(当り原)
少し前に発行された上間誌の「昭和初期の上間本部落民俗地図」を参考にして作成しました。

上間は古い集落ですが驚くことに集落内の道筋がほとんど変化していません。
また拝所もほとんど残っていますし周囲の地形もあまり変化していません。村クムイも水をたたえています。
「上間集落=当り原」といっていいくらいで範囲は拝所がある外周を囲んだくらい、そして上の識名原に高台が続く以外は周囲の淵下原や山川原は急坂やハンタ(崖)で区切られれています。
真和志小学校から登って来る坂が180度のターンをする場所の突き当たりが番所跡です。
番所と役所の移動について国場誌から引用します。

上間村の入り口(字上間一番地)に古風豊かな建物があった。これが真和志間切の行政を司る番所である。番所はバンジョと読み方言ではバンジュと響き、通例所在地の村名を以て呼ばれていた。 p95

真和志小学校は明治13年3月、上間番所の下知役詰所で開校した。 p103

間切時代から上間村一番地にあった当時の役場庁舎は、古色蒼然、腐朽甚だしく何らかの地頭代時代に建ってから二百年を経過するといわれた時代物である。しかも古波蔵から一里、安謝村から一里半、真和志の南の端の誠に地の利を得ない丘の上にあった。道路も未完成で小さな農道を山越え川越えして大変不便であった。
(略)
大正15年現在の真和志支所の地に約80坪のペンキ塗り瀟酒な庁舎を建て移転した。 p121
※引用元はすべて国場誌


最後の121ページの引用は国場誌も他の文章から引用していますが字誌の編集者が不便だとか地の利を得ないとか書けないですからね(笑)。
上間誌は上間・具志堅問題(笑)やシイマのウタキ、あと安謝名子とかにも言及していますが結論は出ないでしょうね。
参考:地名  併称 沖縄 - Google 検索
厚手のでかい本で読みやすくわかりやすいあたりに歴史を伝えなければという熱意が感じられました。面白い話も拾えたのでおいおい書いていきたいと思います。

大石毛


真和志民俗地図による大石毛の位置図です。この大石は方言読みでウフイシですが、訛りによる変化でウフイシがウフシに変化したと思われます。
大原区(寄宮)から真和志市誌の記述を引用します。
大原区の発祥については、1946年8月軍政府から今後軍民那覇港を中心とする輸送計画を樹立し、陸運関係は那覇港に近いところに住居を持つように軍の首脳部から命ぜられたので、(略)現在の地に来た。ここは旧真和志校の後方の岡で、大石毛という丘陵地のしたの原野地であったがブルトーザで切り開いて平地となしここに陸運関係の120戸の人達が住居を持つようになった。
真和志市誌 p274



今回の大石毛がある大石原(オオイシバル)は真和志民俗地図による特定ですが、何故ウフシバルではなくオオイシバルであるのかというのはよくわかりません。真和志民俗地図では各原によみがながついていて宮城原にはナーグシクバルというよみがながついています。
今回真和志市誌の図を大本とする図と真和志民俗地図をよく見比べてみたのですが大石原と他の原との境界が異なっている箇所があるのに気がつきました。大石原と小又原、大石原と寄増原、寄増原・小又原・洗田原の三つが接する箇所も違っています。

自分のミスも多々あるとは思いますがそのへんもどうかご容赦願います。

船増原(与儀)

船増原についてです。
与儀集落
与儀十字路の角には原が4つあり、それぞれ宮城原(与儀公園)、宇蘭原(那覇署)、西原(神原中側)、船増原(裁判所側)です。
現与儀小学校後方の与儀集落から国道330号を隔てたところです。

次の図は那覇市防災情報の図に加筆しました。

http://www.com-net.city.naha.okinawa.jp/ant/antinfo/dangerzone/dangerzone2.html
原図は7の「与儀市場一帯(与儀給油所裏側)」です。
浸水の起こりやすい場所を告知しているのですが図だとピンクで囲われた部分、与儀市場の国道側が該当地域です。自分は浸水危険区域は低地だと考えるのですがなぜここが低地なのかわかりませんでした。
ですがガーブーへの流れで書いたように、真和志民俗地図では与儀市場と平行するようにガーブーへ流れ込む水路がありました。

過去に存在した流れを正確に推定できてはいませんが、大体の位置は間違いないと思います。
那覇の古海岸線図から船増原周辺を見てみます。

ケーシンダーの位置が特定できていませんが、過去でも城岳から裁判所(刑務所跡)に至る一帯は水没したことはないと思われる高台ですから、古海岸線図にその辺りの高台を探してみると現在の船増原周辺を考えるのが楽になるかもしれません。
そう古くない昔でもガーブーが横断する与儀公園は湿地でしたし、船増原の浸水危険地帯の低地も過去には海の下だったかも(結論無し/オチ無し)。

城岳(真和志)

以前に書いたものをサルベージ。
以下は引用で、引用先を忘れてしまいましたがたぶん真和志市誌か南島風土記からの引用だと思います。
二つは冊封使の中国人の記録、一つは由来記による記録、最初の概要を述べた部分は書いた人によるものでしょう。

城嶽(ぐすくだけ) <靈嶽>

古へ、樹木鬱蒼として繁り、岳下に湧田の殿(とん)があり、又汪樋川がある。

那覇付近随一の霊所である。支那人修して、霊嶽と唱へ付近に貝塚があって有名である。この地が琉球島の地理のもっとも古い場所であることが貝塚発掘によつてわかると言はれてゐる。

汪楫録に、

霊嶽、城嶽と名づく、那覇港の東南に在り、山甚だしく高からず、樹木鬱蒼山頂に屋一区あり、扁して城嶽と曰ふ。貢船の船子の立つる所とす。壁間悉く建屋助工人の姓名を記すること略々中国に倣ふ。屋中一も祀る所なく、屋後地上に瓦爐を錯置し数十を以つて算す。或は一石を祀り、或は一樹を祀る。神の憑依するところなりと曰ふ。(屋前高松数百株、此処に坐すれば人をして暑さを忘れしむ云々)と叙してゐるところから見ても、城嶽が静粛な清遊の地であったと共に、又海上安泰を祈願する拝所でもあった。

徐葆光の傳信録に

汪使旧録に板屋一区あり、今已(すで)に盡く廃し、惟叢灌一林密篠蕉石を以つて神となし、酒を注ぎて福を祈る、渡海報賽の地となってゐる。

尚琉球国由来記に依れば

古波蔵之嶽「神名アヤフト御イベ」城嶽「神名アヤクヒヤ御イベ」の二嶽は一つの囲いの中にあつて、拝所であり、両方にある。東方は城嶽と云ひ、西方は古波蔵嶽と称す。そしてこの嶽は楚辺の大阿母の管掌であると見えている。


汪楫=清の冊封使、1683年に来琉
傳信録=中山伝信録、1719年に来琉した冊封使の徐葆光による記録
琉球国由来記=首里王府による初の琉球国の地誌 1713年成立

船乗りの拝所だったこと、拝む対象が樹や石だったこと(中国人には異様だったのでしょう)。

軍用地内の区画


写真は不動屋さんから拝借。
左側の写真は中央を斜めに走る58号線を境に左がキンザー、右が民間地。マチナトショッピングセンター付近で那覇からも遠くない便利な住宅街です。
右側の写真は左でマーキングされている(売買物件であった)付近のクローズアップ。


上の図に書き込まれている土地の境目をカラーで強調。
左写真の各ラインはピンクが軍用地内の土地区画、黒の58号線、オレンジの民間地内区画です。
右写真では軍用地内の旧道を紫のラインで示しています。

キンザー内の土地利用が土地保有の区画とは無関係に行われていること、右側の民間地では区画は道路に従うように分割されていることがわかります。
また軍用地側もかつて存在した道路によって土地保有の区画がされていること、その道路も右側の民間地と繋がるような形であったこともわかります。
このことは右側の民間地の道路も土地接収以前の道筋に従っていることも示しています。

この写真は浦添市牧港で、このブログは旧那覇・旧真和志のみを対象にしているのですが軍用地では共通する話だと思いましたので取り上げてみました。
那覇市内は土地返還前or直後のブルーマップでも探せばいいのかな?

トンネル

那覇市の都市計画図から上間集落と体育館の位置を書き込んで制作。「3・3・3(30M)」とあるのがトンネルと橋です。


http://www.okikosai.or.jp/20kouhou/simatatei/sima_08/sima08-05.pdf
下の図二つは上記pdfからスクリーンショットで作りました。
このpdfはトンネルの工法や橋梁の組み立てなども説明されていて興味深いです。また周辺の土質や石灰岩の存在についても書かれています。

トンネルの図です(彩色しました)。

そして橋です(少し加工しました)。
上間から真地にいこうとすると、トンネルの左側入り口が上間で、トンネルを抜けて橋を渡り暫く行くと真地になります。
青い矢印で示した部分は水だと思われます。真地の水路で書いた流れの最上流付近ではないかと(水は枯れてるようですが)。

道筋の切断



トンネル周辺の続きです。
先日新しいトンネルを通りました。新しい通りはトンネルを通過してから新川の子供センター付近まで側から入ってくる道路もほとんどないような高速道路のような感じでした。
便利になったと思うんですが、この道路によってピンクで示した道路が分断されてしまいました。交通量が多いわけでもない抜け道のような道だったわけですから付近の住民の皆さんは生活道路に戻ってほっとしていると思います。

この分断された道は結構古い道筋だったようなのですが、現在以降にこの道筋を考える時には過去の地図を見るか道筋をみて想像するかしないと過去の姿がわからなくなりました。つまり現在自分がやっているように、バイパス道路や区画整理を考慮して過去の姿を考えるという必要性が発生したわけです。
まぁそんなニーズは全くないでしょうけども(笑)。

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