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旧那覇の大通り名

旧那覇の大通りの名称です。

大通りで現在もそのままなのは久米大通りだけです(一部わずかにずれていますが)。
58号線は泊高橋を渡り兼久を越えた辺りから旧久茂地大通りに向かって直進してゆくように作られました。川筋の改修もありすべてではないのですがにはおおまかにはそういえると思います。

石門通りと上の蔵通りの交差する箇所には石門、久米大通りと若狭町大通りが交差する西武門には波の上参道の鳥居がありました。
大門前通りと久茂地大通りの境目がどこかは自分はわかりません(川の曲がり角付近、孔子廟付近か?)。
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龍界寺小路・善興寺坂

「なはわらび行状記/船越義彰」の「三輪車」と題された箇所から。
龍界寺小路・善興寺坂
善興寺坂--そこはいまのどのへんだろう。郵政管理事務所と、天妃校を結ぶ線のあたりに坂があった。天妃校からおりると左手に一味亭という大和料理屋、右手が善興堂病院、少しおりて右が龍界寺小路、千原繁子先生の病院と川田のクスリ屋があった。そして龍界寺小路をはさんで市公会堂、公会堂と向かい合ったところ、つまり善興寺坂からおりてきた左手に、戦後米民政府が土地事務所として使用していた、いまの郵政管理事務所の古い建物(戦前逓信といっていた建物)があった。
(略)
善興寺坂の三輪車疾走は主としてハジメーと一緒だったが、同級生の仲元君や金城君とも行ったような気がする。(略)ところでハジメーだが、戦後一度も会わなかったのでひょっとしたら戦死したのではないかと思っていた。それが、つい先日ハジメーの妹のアイちゃんと石川で会った。四十年ぶりにである。そしてアイちゃんの口からハジメーが沖縄戦で戦死したが、戦死の場所も不明であることを聞かされた。
なはわらび行状記 p23、24


ハジメー... 共に那覇に産まれ育ち東町近辺を走り回っていた少年達の明暗を分けたものはいったいなんだったんでしょうか。
図の中でオレンジで示されているのが善興寺坂、紫が龍界寺小路です(出典:那覇民俗地図、琉球の都市と村落/高橋 誠一)。
那覇民俗地図では龍界寺小路はユーゲースージと書かれていますが、リュウカイジスージがユーゲースージになるのはナーファンチュのだらだらした喋り方を考えれば納得できます。ナーファンチュに「リュウ・カイ・ジ・スージ」なんてハキハキした喋りを期待するのは無理で、ルーカイジスージになってユーゲースージに変化してしまったんでしょう(笑)。

旧那覇の地形

「なはわらび行状記/船越義彰」の「地形」と題された箇所から引用します。

上ノ蔵の坂がけずりとられてなんの変哲も無い道路になった。首里バスがヨタヨタと坂をのぼってゆく。(略)いまの上山中校の裏の一帯は上ノ蔵の坂上で高台の快適な場所であったがそこも平坦になってしまった。辻のナカミチからまっすぐ西新町におりてゆく坂は相当高く、勾配も急であった。この坂をおりると西新町、左手は真教寺の裏の石垣の連なる小路だったがこの坂もいつの間にか消えた。新天地劇場も小高いところに建っていたが新天地もろともその高台も姿を消した。

松尾山とそれに連なる内兼久山は、那覇尋常高等小学校(沖縄テレビ)、そして裁判所(郵便局)、孔子廟(商工会議所)、そして大典寺のあたりから潟原交番前に連なる丘陵地帯で、そこには松山小学校、県立二高女、県立病院、知事公舎、その他県庁のお偉方の官舎があり、松風の音もさわやかないうなれば那覇の軽井沢的場所であった。
なはわらび行状記 p50、51(省略と編集)


図は上の文であげられていた箇所を昭和4年の那覇地図に示したものです。義彰さんの文自体がもう歴史性をもってしまっていて注釈がいるのが切ないとこです。
沖縄テレビ --> 沖縄ワシントンホテル
郵便局 --> 福州園から若狭向け十字路角

上ノ山中学校は那覇尋常小学校跡地ですが、現在上ノ山中学校の周囲のどこにも坂と呼べるような道はありません。
図でオレンジで示した線が辻のナカミチですが現在の辻はほぼ平坦で周囲よりわずかに高い程度の土地です。
「那覇尋常高等小学校-裁判所-孔子廟-大典寺(県立病院裏)-潟原交番前(現松山交差点付近)」に連なる丘陵地帯はワシントンホテルから商業高校を越え松山交差点付近につながる地帯ですが丘陵とよべるような高台はありません。ゆるやかに少し高くなってはいますが...

現在久米大通りは過去の道筋をほぼ残しています。そして孔子廟付近の久米と久米大通りは昔から低地になっていて、過去の那覇はその低地の両側に現上ノ山中学校裏の高台と現ワシントンホテルから松山交差点付近までの高台がある地形でした。
また「那覇の軽井沢的場所」と述べられている松山側の高台は昭和19年相当の「若狭古地図」を見てみると敷地の大きな屋敷や官舎があるのが確認できます。
図中の西町あたりで何箇所か赤く示されている所は劇場/映画館です。

義彰さんも嘆いていますが過去を投げ捨てて開発してしまうとよりどころが無くなってしまいますね。旧真和志がスプロール現象でガタガタなのを見ると計画性のある開発は必要であったと確信できますがもう少し昔がしのべる姿にしてくれんかったもんかと愚痴りたくなります。

ホーカー(放下)

「なはわらび行記」からですが、義彰さんは子供の頃見た中国人らしい曲芸師のことを「ホーカー」と呼んでいたと書いています(p42)。
曲芸師の大人の格好は憶えていないが、少年たちは「丸刈りで、額の上に、ひとつかみほどの頭髪を残して」おり、「売られたものであり、訓練の後には必ずアマジャキ(酢)を飲まされる」という噂を聞かされたそうです。

また金城朝永氏による「琉球では軽業の事を今でも放下と言っています」という論文の一節も引用され語源や由来の考察も引用されていますが、最後に義彰さんはホーカーの由来や時代的背景は専門家に任せるがとにかくホーカーを憶えてるんだよといって締めておられます。


自分も由来や語源に関しては考えず、昭和初めの那覇には中国人と称する軽業師がいてホーカーと呼ばれていたということだけを憶えておきたいと思います。

風袋(カジブクル)

船越義彰さんの「なはわらべ行状記」から抜粋します。
1926年、大正15年那覇生まれの義彰少年(と親しげに呼びたい)の見た那覇が愛情を込めて描かれています。数々のエピソードの中で出て来る人達、ヤッチー達が戦争で帰らなかったことを思うと何ともいえない気分になります。

ところが旧家のハンシー(ばあさま)のなかには、この文明の利器たる電気扇をわが家に入れることを拒んでいる方もいた。「電気扇はウカーサヌ(あぶない)」というのである。あのヒコーキのプロペラのようにまわる羽に子供が指をつっこんだらどうなるか。寝ているうちに髪を巻き込まれたらどうなるか(当時の女性はみんな髪が長かった)、という心配もあったろうが、電気というものへの拒否反応が最大の原因であったと思う。電気は通じる(感電)。ハンシたちにとって、電気はやはり紅毛の不可思議国のエレキという感覚でしか受け止められていなかったのだ。
ところが旧家ともなれば、夏への対策は、これはまた贅沢なものであった。まず、敷物は藤のむしろをしきつめてあった。ひんやりとした敷物(むしろ)である。つぎに、扇風機にかわるものとして、風袋(カジブクル)があった。
風袋とは、メリケン袋のようなものを、いくつもつなぎあわせ、それを棹にくくりつけ、鯉のぼりのように高く掲げる。そして末端は座敷の中に入っている。風袋--というより、ぼくは風筒と呼びたいこのしかけは、中天の清らかな風を、そのまま家の中に流し込むのである。扇風機を電気扇と敬遠した当時のお年寄りにはこのように、地上十数メートルを吹き渡る風を、そのまま自分の側に呼び寄せることができたのである。
なはわらべ行状記 p121,122


那覇の石垣に囲まれた旧家から棹につけた吹き流しのような風袋が掲げられているのを想像してみると面白いです。この風習も安い布が出回るようになった後からではないかと推測しますがどうなんでしょうか。
首里では着物の中に籠のようなものをいれて抱いて寝た(竹夫人)らしいです。
竹夫人で検索するとちゃんとありました。

暑中,涼をとるために抱いて寝る円筒状の籠(かご)をいう。長さは150cm程度で,本来は竹編みだがトウなども使用。抱籠,添寝籠とも。中国では古くから用いられ,宋代に俗に〈竹夫人〉と呼ばれた。
http://kotobank.jp/word/%E7%AB%B9%E5%A4%AB%E4%BA%BA

首里では身分上裸になることが許されなかったので竹夫人が使われていたらしいですが中国由来だったんですね。沖縄らしい話です。

船越義彰

生粋の(最後の)ナーファンチュと言っていいであろう船越義彰さん。残念ながら2007年にお亡くなりになられています。
web上にあるプロフィールと本のあとがきからまとめてみます。

船越義彰 [1926.12 - 2007.3.5]
那覇生まれ、1943年中野高等無線電信学校卒、旧琉球政府広報課長、旧琉球電信電話公社秘書課長、国際電信電話通信事務所。

戦後最初の詩の同人「珊瑚礁」に参加、55年の新聞連載小説「みどりの紋章」を皮切りに小説やテレビドラマ、沖縄芝居の戯曲を発表。82年「きじむなあ物語」で第5回山之口貘賞を受賞した。
乙姫劇団の顧問、創作舞踊の作詞などを手掛け、沖縄芸能界の「ご意見番」としても活躍。
「船越義彰詩集」「スヤーサブロー」「狂った季節」「遊女たちの戦争」「戦争・辻・若者たち」「なはわらべ行状記」


空手の大御所である船越義珍[1868 - 1957]さんの親戚でもありますね。本に関係やエピソードもあったはずなのですが今は思い出せません。
義彰氏のエッセイ等からも那覇の昔の様子が分かる記述を抜き出してみたいと思います。

久米古地図

浮島

HDの中から画像発掘。webから持ってきたものだと思うのですがどこからかがわかりません。

古地図と書かれているので古い時代なのは確かです。
西新町は埋立されておらず、通堂は島だった面影を残し、久茂地川河口近辺は陸地化がすすんでいない。現在の県庁や久茂地周辺もやっと陸地化してきたばかりにみえます。
こういう図を見ると泉崎(上泉・下泉)から楚辺にかけての(比較的)高台に集落の中心があったのかというのがよくわかります。

ともあれ無断引用になっていることと権利は制作者の方にあることをお断りしておきます。
それと伏して感謝申し上げます。m(_ _)m

潮渡口・潮渡橋

塩田に囲まれた前島の兼久(水色)と那覇市街地の間の潟原の河口が潮渡口です。


一条の海水潟原を横断して久茂地川に通ずるものは球陽尚敬王二十一年の条に「前汀内開一江」とあるものに相当する。若狭町から泊前島にかかる浜街道はこの小流を徒歩して泊高橋の浮道に出たもので、その徒歩地は潮渡口と称していた。
明治36年七間の木橋を架しこれを潮渡橋と命名した。
東恩納寛惇「憧憬集」


兼久浜・塩田
泊高橋から南へ向かう58号線は昔の線路筋と重なっていますがとまりんを過ぎた辺りから若狭側へ曲がり那覇中(旧那覇商業)へ向かいます。「戦前の兼久」図の左側切れた辺りから曲がり少し行ったところで潮渡橋になり、その先二手に分かれ一方は那覇商業、一方はイベガマ(現松山交差点そば)に向かいます。
当然ながら現在の橋とは位置が違っています。

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