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内間(浦添)

カテゴリに周辺地域を追加。
このブログは旧真和志村(のち市)、旧那覇市を取り上げることを目的としていますが範囲外の地域でも接しているなどの事情がある地域は参考のため取り上げたいと思います。

浦添の内間です。
那覇・浦添は安謝川を境界にしていて、川の向こう側、銘苅の北方で浦添最南部の部落が内間になります。
内間旧跡
出典は「内間字誌」p21。昭和51年の発行です。
内間の原名(ハルナー)は次図のようになります。
内間の原名
東原はパイプライン(戦前の鉄路)より東側、西原は川より西側、後原は上ノ山(浦添高校南側)より上、大嶺原(ウフンミバル)が上ノ山と安謝川の間の低地で部落の中心です。この原名からもわかりますが大嶺原を中心とした純農村地帯であったとのことです。
戦後の原名は図の通りですが戦前は違っていました。
戦前は前原、東原、クムト原、後原、西原、大嶺原と六小字に区分されていたが、戦後の土地調査では大嶺原、西原、後原、東原の四小字に区分されている。
内間誌 p7


地勢について引用します。
終戦以前は、字の中央に上ノ山、タカトイマーチュー、ハルゴー森、ウフンミ森、イネフシ毛等2万坪程の小高い山と森があって東西に伸びていた。その南から北に集落があって、集落の中を小川が流れている戸数約90戸、人口400人足らずの小字だった。
集落の中央部(上ノ山と小川との間)をウチジマ、西北部を上門(イージョウ)クライ。小川南をメージマと呼び、部落後方の耕地には12〜13戸の人家が点在して後原ヤードイと呼んでいた。山と集落をとりまくようにして耕地が広がり西南の端に墓地地帯(山林原野)を有する純然たる農村部落であった。
内間誌 p7(一部編集)

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辻周辺

辻とその周囲です。

辻は海岸側に辻原墓地、西新町とは断崖で区切られています。上之蔵通りとは道が二つだけで、波の上通りに直接出られる箇所は二箇所しかありません。
また図の左下部分の西新町・西本町・上之蔵町と接する部分と西武門には交番があります。小さな道はいくつかあったかもしれませんが街中へ続く大きな道へは交番近辺を通らずには出られません(大回りすれば可能ではありますが)。
辻の中から出てゆく道は6つしかなく、花街のセキュリティの意味もあるのでしょう。
特異なのはすぐ側に通っている上之蔵通りと通じる道が少なく、通じていてもそのまま伸びてゆく道は一つしかありません。

昭和20年でも辻の格子状の町並みはうかがえます。
「琉球の都市と村落/昭和初期の久米とその周辺の景観推定図」では現在の地図上に当時の道筋が書かれておりサンモウジ(三文殊)の公園がスーヌサチの突端だったことがわかりました。
坂道だったはずの上之蔵通り、辻と西新町との境界だった断崖も現在はなんの面影もありません。

ムヌクーヤーテーソー

ユーチヌサチ・スーヌサチでバクチャヤーについて触れました。
バクチャヤーは辻海岸にあった洞窟でそこには乞食やハンセン病患者が住み着いていたようです。
ムヌクーヤー /munukuujaa/(名詞) 物乞い
乞食。物乞い。辻町のバクチャヤーに集まって生活していた。中にはその大将であるムヌクーヤーテーソーがおり、乞食たちを取りし切っていた。

http://ryukyu-lang.lib.u-ryukyu.ac.jp/srnh/details.php?ID=SN51725

乞食ではなくムヌクーヤー(ものを乞う人)、その大将がムヌクーヤーテーソー(物乞い人の大将)というのが面白いとこです。ムヌクエーともいうかな?
なはわらべ行状記にそのモノクーヤーについて書いてある箇所があるので引用したいと思います。

バクチャヤーといえば(略)頂上は芝生が程よくはえ、三月三日のお重びらきには最適な場所であったが、下はガマで、そのなかには、那覇中の乞食が集まり天露をしのいでいた。翁長松(オナガー・マチュー)という親分がいて、乞食達から家賃ならぬガマ賃を徴収していたという話がある。ぼくは、翁長松の顔は知らないが、彼が死んだ時、新聞に報道されたそうだ。それほど彼は那覇の知名人?であったのか、また、乞食の死も記事になるほど、世の中がおだやかであったのかぼくにはわからない。
(略)
さて、翁長松は結局、ぼくが、ものごころつく前にいなくなったわけだ。ところが、ギラマー、マチノウター、グジュグジュバーチー、あるいはノギタイショウ(この乞食は乃木大将によくにていた)など、名のある乞食とは顔見知りであった。もちろん、こちらが一方的にではあったが...。那覇の乞食たちは、おおかた辻原墓地を根城にしていた。近くに辻という遊郭があり、余り物をもらうには事欠かなかったであろう。
なはわらび行状記 p69、70


義彰さんは大正末年の生まれですから顔見知りであった乞食たちのことも昭和の話でしょう。
オナガマチューの記事も調べてみたいですが明治大正期の新聞を調べるのはさすがに厳しいです...

チコンキ・蓄音機

船越義彰さんの「なはわらべ行状記」から。
上之蔵通りをおりると右手は、辻の「前の毛」につづく道がひらけ角に交番所があった。そしてなおも正面に突き進むと、つきあたりが新星堂書店。新星堂から右と左に道がひらける。右に行くと、本願寺の前と呼ばれる真教寺の前に道が続き、左手にゆくと三角屋(そば屋)につきあたり、それを境に道がふたつにわかれていた。右手が旭館につづく道、左が石門の商店街への道であった。

石門通りで思い出すのはチクオンキ屋だった。新星堂の右手、真教寺へ向かう道の右側は高台になっており、そこには石屋とよばれているコンクリート建ての新天地(珊瑚座)がそびえていた。(略)
夏-陽がおちて夕風がここちよい時刻になると、那覇四町のおとしよりが、この石門一帯に集まった。チクオンキ屋の周辺の店のぬれ縁はもちろん、道の脇には空き箱を利用して、チクオンキの妙なるしらべのなるのをいまやおそしと待ちかまえていた。なかには下駄を揃えてその上に尻をおろしている方もおられた。なにしろ、チクオンキを持っている家庭は少なかった。だから、石門通りのチクオンキ屋さん、自声堂が一般市民に音楽を提供したのである。
(略)
芝居で歌われ流行歌となっている新しい歌や古典の曲、あるいは組踊や泊阿嘉、奥山の牡丹などの歌劇。そうかとおもうと大和の歌謡曲(そのころは流行歌といった)も流れた。
なはわらべ行状記 p62


まず上之蔵通り。
上之蔵通り
そして引用した部分のあたり。

上之蔵通りのおしまいの辺りは那覇民俗地図では広く描かれており、図でオレンジで示した場所にはクバチカサ、交番、新天地劇場(珊瑚座)があります。オレンジの箇所から海側(図の左)へ行くと西新町に入り真教寺、図の左上は辻です。

上之蔵通り図の出典はは「琉球の都市と村落/昭和初期の久米とその周辺の景観推定図」ですが、クローズアップした部分は那覇民俗地図を参照しています。ここでもわずかに道筋の違いがあって描きにくいのですが大きな差はありません。
図で青く示している左下の箇所は那覇民俗地図では海になっています。西新町の三重城は近辺は最初島のような形で埋め立てられ橋で繋がっていました。それが後年間を埋め立てられ地続きになります。参照した図が想定した時期の違いによるものだと思いますが道筋は久米の景観推定図、旧跡は那覇民俗地図、海は前者の道筋をもとに那覇民俗地図にある海の位置をおおまかに描いたものです。
正確さはだいたい程度でしかないことを了解ください。

上之蔵通り

旧那覇の西武門と石門の間をつないでいた上之蔵通り(茶色)です。
上之蔵通り

西武門の位置は同一ですが現在の通りは辻側によった形で通っています。またこの通りは結構な坂道だったと言う証言があるのですが現在はゆるい坂道になっています。
図の出典は「琉球の都市と村落/昭和初期の久米とその周辺の景観推定図」です。

追記:グダグダ(β) 昭和初期の久米村図

波の上大通り・波上宮参道

波の上と思われる写真です。
波の上波の上境内
西武門?
米兵が50年代に撮影したらしい写真です。
場所を推定すると一枚目が2の鳥居から波上宮境内の1の鳥居を望む位置、二枚目が1の鳥居の足元から2の鳥居を望む位置(遠くに3の鳥居も見える)、三枚目が3の鳥居から波上宮を望む位置ってとこでしょうか。
久米大通りをまっすぐ来ると西武門の交差点(若狭町大通り、上之蔵通り、波上宮参道)に至ります。西武門には大鳥居がありましたが戦後の開発で撤去され、参道沿いにあった灯籠などもなくなり道が拡張されています(出典:なはわらび行状記)。

波之上大通りの入り口、西武門には、戦火をくぐり抜けた大鳥居が確かに建っていた。それがいつの間にか姿を消してしまった。
(略)
その大鳥居の幻を描きながら、それのあったあたりを通ると護国寺前までならんでいた石灯籠が無くなっていることに気づいた。参道の道幅をひろくするために撤去されたらしい。
なはわらび行状記/鳥居と燈籠 p63-65


義彰さんは中山門をぶちこわして風呂屋に叩き売ったこともあげて歴史に関する感覚の鈍さを嘆いておられます。自分はそれにすべて同意はしませんが、縋るための何かを失ってしまうと感覚というのはあっさり途切れてしまうものだなという感慨はあります。
たとえば西武門が波上宮の参道入り口であったこと、そこから波上宮までの道に灯籠があり事実上「お宮の空間」をなしていた事などは今現在の自分自身の意識には全くありませんでした。この事実を意識して、改めて那覇の街をみた場合、若狭町を除く上之蔵通りから若狭町大通りの向こう側は辻と波上宮で神域と特殊地域であり庶民の通常生活とはすこし違った地域だったのだなと考える事が出来ます。

それとは別に明治期に首里城が打ち捨てられた場所であったことや中山門に対する冷酷な扱いに自分は沖縄の庶民階級の図太さや現実感覚のたくましさを見ます。しばしば事大主義と言われるウチナンチューですが、権力への盲信の少なさやあっさりした距離感覚はユーガワイを重ねて来た現実への身のこなしとして評価すべき点もあるのではないかと思います。
ただそう思っていてもまったく過去への視線の手がかりを失ってしまった現在から見れば少々やりすぎたんではないかと文句も言いたくなりますが。

面白いのは義彰さんは波上宮の氏子ではなく、「もともと沖縄のわれわれには、お宮さんと氏子の意識はなかった」p64と述べています。歴史を共に重ねてきたナンミンの存在とナンミンのお祭りを懐かしむ気持ちはあるのだけど、内地的な神社と氏子のような気持ちは無いと「われわれ」という言葉を使って語っている感覚がとてもウチナンチュー的だと感じます。
なはわらべ行状記の別箇所にはナンミンのお祭りは寄留商人中心で行われ、出し物等も見慣れない内地風の出し物ばかりで物珍しかったと書かれています。すでに日本人であるはずの義彰少年の中にも沖縄と内地、ワッターとアッター、が意識されています。
旧那覇のど真ん中で成長した義彰少年がナンミンの氏子でないはずはないというのは内地的な感覚なのでしょう。

波上宮の成立過程や宮以前に存在したはずの拝所などはまた別の機会に。

仏壇通り

普通に生活の中で使われている呼び名でも正式名称でなかったりするものがあります。通り会がきめたからだれもがそう呼んでくれるってわけでもないのですけどね...
通り会も存在せず正式名称でもないのに名は体を表している名作通り名(笑)に仏壇通りがあります。
図の開南バス停から与儀十字路までの区間です(ピンク)。
仏壇通り

一昔前まで郊外から那覇への買い物等は現在と比較にならないほどバスが使われており、中心的なバス停が開南と牧志でした。
開南には交番もあり行く先案内人までいました。

開南は地名でもなく現在は存在しない開南中学校がもとになっています。開南中学校は戦争で崩壊してしまいました。
開南派出所があったころに開南から農連市場へのバイパス道路が開通します(60年代)。このバイパス開通は神里原のヤミ市がおさまり衰退がおきてからの工事です。

現在の裁判所の位置には刑務所、その隣には戦前開南中学校がありました。
この刑務所には瀬長亀次郎も収監されており、当時のニュース写真等で周辺をみることができます。また刑務所角には瀬長一家がお店をやっていました。奥様の瀬長フミさんは後年那覇市議になります。

神原小・中から与儀公園にかけては農業(農事)試験場でしたが戦後の土地住宅不足を考慮して用途変更されました。戦前を想定して作られた那覇民俗地図では試験場から開南にかけては史跡・住居・道路もほぼ存在しない地域になっています。

那覇商業通り

那覇商業高校周辺前の通りを考えてみます。
図は現在も位置が変わらず存在している場所や旧跡と昔の道筋(茶・オレンジ・ピンク)です。

グレーが久米、茶色の道より海側が松山町、久茂地側が松下町です。中心の黒い四角が松山尋常小学校で現在の那覇商、Aは跡地が残っている東寿寺(堂小)Bは松山交差点付近と特定されているイベガマです。
この図に現在の道路を重ねてみます。

那覇商の前の通りのスタートは御成橋でゴールは旧久米郵便局横(裁判所)ですがこの二つは位置が変化していません。そして現在の那覇商前通りは堂小(A)と那覇商の間を通っています。

松山・松下をまっすぐ走る松山の通りも昔の道筋とはあまり関係がありません。
現在の通りは一銀通りから久茂地小の側を通りまっすぐです。この辺りで変わらないのは久茂地小(那覇の大あむ屋敷跡)、イベガマ跡(B)です。久茂地小の前の通りから渡っていた久茂地橋は一銀通りを通って渡るように変わっています。その辺を頭にいれて線を引くとだいたい図のようになります。

若狭町大通りは現那覇中の久茂地側を通っていましたが、戦後の区画整理で海側を通るように改修されています。戦後埋立するまでは現在の那覇中の向こう側は海でした。
若狭町は戦後都市計画により再開発されているので昔の面影はほぼありません。

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