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家政女学校/積徳高等女学校

美栄橋にあった家政女学校の成り立ちについて説明します。
手短かに言うと大典寺が作った学校です。

沖縄家政実科女学校 ⇒ 沖縄家政高等女学校 ⇒ 沖縄積徳高等女学校 ⇒ 沖縄戦により壊滅・廃校
http://ja.wikipedia.org/wiki/旧制中等教育学校の一覧_(沖縄県)

1918(大正7)年 私立家政女学校(大典寺の庫裏を教室として始められる)本科3年、別科1年
1930(昭和5)年 高等女学校になる(四年制、生徒数200名超)
1932(昭和7)年 美栄橋に移転
1943(昭和18)年 沖縄積徳高等女学校と校名を改める


美栄橋に移転してからの場所はこちら。
積徳/家政
戦前の大典寺の位置は松山尋常小と県立病院の下辺りです。
周囲の道筋は変わっていますが場所は現在の大典寺と変わりないですね。
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ガーブー周辺

50年代のガーブーです。
ガーブー周辺
場所を特定できないのですが後方は現在の希望ヶ丘公園でしょうか。

自然発生した市場は年々拡大してゆきますが大雨寺の氾濫には全くなす術がありませんでした。ガーブーが暗渠化されるのはだいぶ後のことなので、この写真は戦前からのガーブーの姿をいくらかは伝えていると思います。
当時の川幅と深さは以下の通り(高さは川底面からの高さか?)。
•与儀試験場 幅3M、高さ2M
•千歳橋 幅6M、高さ2.3M
•むつみ橋 幅7.5M、高さ2M
•南美栄橋 幅8M、高さ2M

1958年2月12日付沖縄タイムスの夕刊記事には以下のような文があります。
•公設市場や平和通り一帯は川淵より地盤が低い
•満潮時には公設市場付近は川の水面がわずか6フィート(約1.8M)しかない


ガーブーの下流である潮渡橋の流れは58号線(当時1号線)でせき止められていて海と通じていません。これは橋脚の設計が困難であるという理由のようです。
ともあれ海への流路を一つ欠いたうえに川には杭が多数刺さっていた状況なので、大雨ごとのガーブーの氾濫もしょうがない面があります。
ガーブ工事

冒頭の写真はwikimediacommonsからでパブリックドメイン、それを自分が加工したものです。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Waterfont_stalls_along_Gaabu_River_circa_1950.JPG

奥武山

昭和初期の那覇図と米軍の空撮です。
奥武山奥武山

橋が架け替えられていること、それにともなって内部の池の埋立がすすんでいます。
左図で橋が那覇に接している箇所は渡地 (わたんじ)で、写真の架け替え後は東町になります。写真では東町が埋め立てられているのもわかりますね。
10・10空襲後の写真だと山の高低がわかりやすいです。後方が垣花・小禄方面、手前が那覇、奥を流れるのが国場川で真ん中にある島が奥武山です。
那覇上空

【追記】大正4(1915)年の地図画像を追加します。画像は「沖縄県立図書館 貴重資料デジタル書庫」よりダウンロードしたもので切り出して加工してあります。
奥武山

花月

沖縄県人事録(大正5)より花月を抜粋します。

花月 和洋料理店
本店 那覇区西新町三丁目
支店 通堂町三丁目
那覇区における四大料理店の中、操業以来もっとも日浅き花月は、概にして依然頭角を現し、今や多大の人気を得て隆盛しつつあり、同店は元埋地の一隅に極めて小規模のものを設立せるに始まり、このあと数年を出でずして大発展を来し、新埋地なる海岸に宏壮精麗なる数棟の建築を起し、爾来拮据経営して日と共に隆盛に向かい、現今春子、富子、三次、小六、繁子等多数の美妓を擁して人気を一手にあつめ居れり。而してその特色と見るべきは、室内の装飾雅致に富めると、料理の新鮮美味なると、何となく落ち着きて愉快に遊興し得らるる点にあり。大正四年の夏より翠緑滴る奥武山公園の麓に支店を設け、主として西洋料理営業し、県下模範的ビーヤホールの称を得て是亦隆盛を極めつつあり。


西新町の埋立地に小さな店を始め、そのあと数棟を擁する大店舗になったということです。奥武山にも西洋料理主体のビアホールを出店するなど凄い勢いです。ビール等もまた寄留商人の手によるものだったりするのですけども。
花月
写真は「昔の写真と資料 セピア色に退色した昔の写真で見た光景」様よりお借りしています。
いつもありがとうございます。m(_ _)m
この写真は大正初期の写真だそうですので引用した人事録が書かれた時期の姿ですね。
http://blogs.yahoo.co.jp/pusan_de/2219187.html

西新町の隆盛については断片的な情報が多く、項としてまとめるのに時間がかかりそうです。この花月なども民俗地図などには記載がないです(昭和初期相当の地図なので消滅の可能性がありますが)。
当時奥武山はレジャー地でもあり運動会などのイベントが行われる場所でもありました。明治橋のそばには風月楼(御物城跡)、島の中には池があり、弁財天、世持神社(儀間真常と野国総管)、龍洞寺などがありました(那覇民俗地図による)。
参考:奥武山

新元亀次郎

沖縄人事録(昭和12年)より新元亀次郎の項を抜粋引用します。

新元亀次郎
化粧品、小間物、メリヤス、雑貨商  那覇市上之蔵町一ノ一〇 石門通
君は鹿児島県人故新元亀次郎氏の長男にして明治30年1月5日を以て那覇市に生まる。
大正4年沖縄県立二中を卒業して家業に従事し、同4年厳父物故に上り家督を相続し同時に襲名して今日に至る。
操業30年の歴史を有し、市内小間物、化粧品問屋中屈指の老舗たり、家業今日の隆盛なくに非ずといえども、父業継いで之をよく守り、更に積極的に活躍せる君の努力甚大なるおふべからず事実にして、世人よく知悉せるところなり。


この人は那覇生まれで鹿児島県人の二世ですね。
那覇にはタオルの新元という企業があります。合資会社新元で検索すると西町一丁目に店舗がありますが新元亀次郎さんの子孫がやっているのかもしれません。

Google 検索 - タオルの新元

西村定造

昭和十二年の人事録より西村定造を抜粋引用します。

西村定造
こんにゃく製造、製粉、製麺業 那覇市久茂地町一ノ二十三
君は明治39年11月10日を以て鹿児島県日置郡田布施に生まる。
昭和2年12月に来県、爾来那覇市に定住して今日に至れり。
家業に蒟蒻製造を営み、傍ら製粉、製麺、昆布類の販売に従事しており、更に製粉製麺及び蒟蒻の製造販売においては市内屈指の店として広く県下に知らる。


沖縄県内ではおなじみの西むら蒟蒻ですね。webサイトに歴史もありました。

西むらグループの歴史
昭和02 西村商店開設 蒟蒻製造(久茂地)
昭和19 太平洋戦争で工場全焼
昭和26 西村蒟蒻創業(沖映通り)

http://www.nishikon.co.jp/history.html


1967年の学校向け(?)の企業案内から。
西むら会館の写真もあり幸地外科の隣りというのも読み取れますが場所はよくわかりません。「安里交番所向いに堂々とそびえ立」っていたようですが...

合資会社 西むら
社長 西村定造 常務 西村謙一
本社 那覇市安里342番地
工場 那覇市首里寒川町2-77
売店 那覇市牧志町1-810
沿革
1927年、那覇市久茂地町1-23住宅兼工場において操業開始。従業員5人で主要製品はコンニャク、製粉をはじめ飲料水も手がけて、サイダー、ラムネを製造販売した。当時西村定造社長は23才であった。戦後1952年、沖縄ではじめて機械化によるソバ製造業をはじめ、5年後には「合資会社西むら」を、6年後の8月には「西むらフードセンター」を設立した。経営も安定し一般需要者に認められて社業は順調に伸びてくると「西むら会館」設立の運びとなり、1967年5月総面積220坪に総工費19万ドルを投じて鉄筋コンクリート5階建400坪の本館(1階事務所、2階フードセンター、3・4・5階貸ホール)を新築落成した。
販売状況(販路)と業況
(略)売り上げは良港で業績をあげ月商1万ドル内外である。「コンニャクの西むら」で有名。沖縄本島の民間市場占有率は70%を占め逐年発展の一途を辿っている。
郷土の産品(上)/沖縄こども新聞社編(1967) p114(抜粋と編集)


那覇まちのたね通信 | 那覇 西むら会館前
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=666


【追記】沖縄主要地主要商工年鑑の52年版の第十九図(那覇亭通り)には現沖映通りからパラダイス通りに曲がる角に西村商店という名前があります。

いろは楼

沖縄県人事録(大正5・1916)から料亭の記事を引用します。

いろは楼 
和洋料理店
那覇区 西本町二
那覇には元海月、東家、吉武、小徳、京亀、常盤など十数軒の料理屋ありて、芸者の数約百人を算し立派なる検番も設置せられ花柳界の繁栄真に目覚ましきものありき。されどこれ明治22、3年ごろの事にして、そのあと同29年には全部新領土たる台湾に移り、あたかも火の消えたるがごとき状態となりしが、このとき其列に漏れて面影を存しは即ちいろは及び玉川屋の二軒なりき。いろは楼は当時規模狭小なる一の鰻屋に過ぎざりしが、爾来この経営方針を変更して一大発展をなし、同時に純然たる料亭となりて多数の芸妓仲居を抱え、漸次に隆盛を来してついに今日の大を見るに至れり。其間水商売の常として幾度か悲運に遭遇せしかど、よく隠忍持久してこれを維持し、先年家を新築するに至りて益々客の人気を得、現今多数の美妓を擁して繁盛しつつあり。同楼の特色は最も軽便に遊興し得らるる事と、費用比較的低廉なるにありて、主人愛吉氏自ら包丁を執りて精勤しつつあり、而して其大広間は約二百名の宴会を為し得らるる設備充分なり。


台湾にいった料亭もある中で、いろは楼は残り発展していったということですね。
「主人愛吉氏自ら包丁を執りて精勤しつつあり」とあるように本土人が経営していたようです。
沖縄県人事録には他に風月楼、花月が収録されています。また花月の項では「那覇区における四大料理店の中、操業以来最も日浅き花月は」とあります(花月は別に取り上げます)。

那覇の料亭でとりあげた明治39年9月の新報記事「市街巡り」で、「風月楼、玉川屋、いろは屋、明月楼」があるのが確認できます。
料亭群が軒並み台湾へ移ってしまったのが1896(明治29)年頃、新聞記事は1906(明治39)年、引用した沖縄人事録は1916(大正5)年で、ちょうど10年ずつの間があります。
人事録では「台湾にに行かず残ったのはいろは楼と玉川屋」とありますので、新聞記事の「いろは屋」が人事録で登場する「いろは楼」なのかもしれません。

幸楽(料亭)

「なは女性史証言集2」には新村渠周辺の様子で引用した小渡さん(大正4年西原生まれ)の証言の続編があります。
そこから戦後壷屋で開業した料亭の「幸楽」に関わる部分を取り上げたいと思います。

那覇民俗地図には那覇の料亭で取り上げたように幾つかの料亭とおぼしき名前があり、辻には花咲停、三杉楼、幸楽の三つが書かれています。

壷屋の幸楽は1949(昭和24)年9月13日付けのうるま新報に開業広告が載せられています(証言集2のp73に写真)。

ライカムで働いていた時、戦前働いていた料亭「幸楽」の女将・親川(信子)さんが私の居所をつきとめて、何度訪ねて来ました。「那覇の壷屋で幸楽を再建したいので力になって欲しい」と懇願されました。
幸楽の敷地は300から400坪くらいあり、その一部に仮小屋の様な料亭をかまえていました。日本復帰までに何度か増改築をしています。

「幸楽」は「左馬」や「四つ竹」と並ぶ一流の料亭で有名でした。当時は「那覇」や「松乃下」はまだなかったとおもいます。
女将の親川さん(42歳)と私(小渡35歳)、それに私と同年代のTさんの三人が三味線と太鼓等の音曲を受け持ち、踊り子を含めた給仕が15、6人。台所は板前一人、買い出し係に一人、味付けをする人が一人の計三人は男性、他に洗いものをしたりする雑用係に女性二人、下足番を加えると、みんなで25、6人くらいはいたと思います。
給仕たちは戦前は辻上がりの人が多く、礼儀作法がよく仕込まれていましたが、戦後は素人が多くなり、また世の中も変わってきたので、女将が特に厳しく躾けるということもなく、(略)
なは女性史証言集第二号 p73からp78 省略して抜粋


壷屋の幸楽は現在のマクドナルドの位置です。
戦後の幸楽
参考にしたのは70年頃のゼンリン地図です。GoogleMapで見るとマクドナルドのあるビルはメゾン幸楽となっていますね。

幸楽は主席、市長、医師、警察など偉いさんが顧客のようなので格はあったのでしょう。
幸楽の廃業がいつであったのかはまだ調べていませんが、廃業は栄町の料亭の衰退と同じ頃であったのかもしれません。
小渡さんは復帰前年の1971年に57歳にして三線弾きを引退し普通の主婦になったそうです。

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