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フェーヤチガマ・ウェンジュン毛

フェーヤチガマが灰焼き釜ではないかと書いたのですがビンゴでした。
フェーヤチガマ
「戦前の字上之屋民俗地図」には天久の寺の横あたりに<フェーヤチガマ(5〜6コ)>とあるんですがその横に石灰工場地帯と書かれているのを見落していました。><  図では赤にフと書いてあります。

泊・上之屋あたりは集落のど真ん中を58号線が通ったせいもあって具体的な場所がわからないことも多いのですがいくつかの地図をつきあわせるしかありません。天久も跡形もないせいもあって正確な場所がわかりづらいです。
調べようとするとまず那覇民俗地図と真和志民俗地図は同じ那覇市が制作したものなのに泊と上之屋の境界線が違います(わりと正確なイメージ図という感じ)。
「那覇市明細地図」(65年)というのがあり、これは地番入り、天久誌の「昭和10年頃の天久村の民俗地図」も部落の様子に加えて地番が入っています(!)。これらと上之屋民俗地図をつきあわせてこの地図の分くらいまでなんとか特定が出来ました。とはいえいい加減なもんなんですが...

洋順毛でグダグダ書いたわりにはっきり特定できなかったのですが上之屋民俗地図と那覇市明細地図の突き合わせで泊高校北側だとわかりました。
図での道は茶色で表していて現在存在しないところは半透明にしてあります。跡形もない道なんですが割と上之屋民俗地図が正確だったのでほぼ間違いないと思います。これに関しては那覇市の両民俗地図があまりあてにできなかったのでこれに振り回された感じですね...

那覇市の図もこの図に近いのですが現代の図の上にそのまま書くことは出来ません。
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獣骨/屎尿(肥料)

国場のくらしでの城間さん(明治43年生)の証言に獣骨を肥料として使うという話が出て来ます。

クエーフニ(肥料を積む船)に畑の肥料をのせて那覇からも運んで来たよ。汲み取りしたものさ。国場川から運んだ。また那覇なんかで大きな行事があったら豚のソーキ骨をもらいにいくこともあった。骨は粉にするといい肥料になるからね。
なは女性史証言集 p99


屎尿と獣骨ですね。そのほか自家製の山羊の肥も使われていたようです。
明治40年の琉球新報に獣骨販売業についての文がありますので引用してみます。

「市井雑観」 獣骨販売業
この営業者は国場、仲井真辺の者最も多かりしが、多く無鑑札者で公然と許可を受けたる者は7人なり。
琉球新報 明治40年6月


許可制で鑑札が必要だったこと、国場と仲井真で多く獣骨が扱われていたことがわかります。
那覇市史は屎尿処理をこのように書いています(※ここでの那覇市は旧那覇市です)。

那覇市の中央部や周辺の町は主に小禄村、豊見城の農家が処理に当たり、北部の泊方面は真和志村上泊、安謝、銘苅、真嘉比または浦添村の農家が処理してくれたものである。
---
(那覇)市の中央部は農家が数件と口答契約し随時汲取をなしていたが、もとより金銭による汲取料金を支払うことはなく、無償であり、逆に農家は時折野菜を届けていた。
---
随時汲み取っていたので屎尿処理に悩まされることはなかった。
那覇市史資料編第二巻中の7、p419 (省略と編集)

大門前通りの商い 2

大門前通りの商いの続きです。

大門前通りの沖縄県出身者の数は東町12、久米8、天妃4です。
久米
真栄城、美昌堂、照屋、金城、儀間、前田、川前、金城
天妃
国吉、南陽薬品、南陽自動車、沖縄書籍
東町
儀間、桑江、許田、照屋、高里、国吉、太田、仲本、浦崎、城間、生盛堂、松屋


戦後も続く南陽薬品(Wikipedia 南陽薬品)の名前がありますね。
国吉、儀間はクニンダでしょう。

東町
渡辺、井上、益田、山下、京屋、マルメマーケット(マルメは○にメ)、荒木、タマヤ、古田、那覇ラジオ、福山、藤島、東京屋、千田、玉利、沖縄物産、桜井、福田、佐藤、影山、円山号(沖縄12)
久米
福崎、山田、古田、篠原、瀬戸口、恒浜、平岡、畠、太田、成清(沖縄8)
天妃
岩城、恒浜、丸一、広島屋、一箭(沖縄4)

池畑盛之助(池畑旅館・池畑運送店)

以前取り上げた池畑旅館の池畑盛之助です。沖縄県人事録(大正5)から抜粋引用します。

池畑盛之助
池畑旅館主
那覇市西本町一ノ三
現今沖縄県に籍を有すれど生産地は鹿児島市にして、令兄太平次氏は現に鹿児島市汐見町に合名会社池畑運送店を経営し、令弟末吉氏は□□□□の支店に、又末弟岩城氏は郷里に在って米穀商を営みつつあり。

明治15年既に現地に移住して陸軍用達に従事せり、同18年には合名会社池畑運送店の業務執行社員として那覇に支店を開設し、同時に大阪商船株式会社沖縄代理店となり、輸出入荷客の取り扱いに従事せるが、同45年同社支店設置とともに鹿児島郵船会社および沖縄広運会社の同盟結成せらるるに至り、事後同盟汽船□□人となり、大正4年10月木村杉原の他二運送店と合同して那覇運送合資会社を組織してこの無限責任社員となりたるほか、東京海上および大阪火災の各保険会社ならびにラサ島燐鉱会社の代理店を営みつつあり。
また別に古くより旅館を営み建築の宏壮と設備の完備を以て県下に名あり。


池畑旅館では下記のように引用しました。
>鹿児島及大島名瀬にも一族の旅館あるを以て旅客に便を与える事多く、
最初の引用での□は不明文字なんですが大島名瀬と読めないこともないのでそうだと思います(いいかげん)。「明治15年既に現地に移住して」が沖縄のことを指すのであればわりと早い時期に沖縄に来ていますね。経歴はこんな感じか。
•明治18年 池畑運送店那覇支店開設、大阪商船代理店
•大正4年 那覇運送合資会社無限責任社員、保険会社代理店、ラサ島燐鉱会社代理店


池畑運送店で検索するとこのような文も見つかりました。
八重山近・現代史年表 明治12年〜昭和20年8月14日まで
http://www.city.ishigaki.okinawa.jp/100000/100500/Timeline/timeline-page/timeline-11.html
明治29年(1896)沖縄開運株式会社・池畑運送店・広運会社、各出張所を開設

思っていたより池畑さんは大物のようです。

有馬参次郎(三笑堂)

沖縄県人事録(大正5)より有馬参次郎を取り上げます。
手短かに言うと、鹿児島人で久米で文房具商の三笑堂をやっていた人です。

有馬参次郎
書籍文房具商 三笑堂 
那覇区久米町一ノ一
君は鹿児島の人、明治3年10月1日を以て生る。亡市之助氏の三男にして概に一男一女あり。(略)
明治23年3月初めて那覇に来り、直ちに和泉屋書店の番頭となれり(略)
一ヶ年の後廃業するに至り、同時に之を平田喜右衛門氏ゆずりうけ、三笑堂と改名してこの業務を継続せり。君はさらに聘せられてこの店員となり、益々精勤して年と共に重用せられ、数年にして概にこの監督者となりしが、この後店主病死せりしを以て支配人となり爾来この経営に努めて益々隆盛を極めたり。
しかるに三年の後、吉田得蔵及び大坪岩次郎等これを譲り受け同時に君がこの経営者となり漸時業務を拡張して今日に至れり。


流れとしてはこういう感じでしょうか。
•和泉屋書店番頭(明治23、20歳)/和泉屋廃業
•和泉屋譲渡され「三笑堂」、店員になり後日監督者になる
•「三笑堂」店主病死につき支配人となる
•「三笑堂」を吉田、大坪が譲り受け、有馬は経営者となる(大正5年現在、44歳?)
また「理想的工場を久米町に新設して活版印刷業を開始し、現今書籍雑誌類、欧米文房具、和洋紙一切等の販売」もやっているそうです。

三笑堂は写真も残っています。
三笑堂
場所の特定と画像は「沖縄酔古地図」さまによるものです。ちょうど大門通りと久米大通りの角にあったようですね。

沖縄電気軌道の今
http://www.geocities.jp/kikuuj/zatugaku/okiden/okiden.htm

青山書店/小沢書店

「むかし沖縄」という那覇出版社の写真集があり、昔の写真にエッセイというか説明文をつけた形で作られています。その中に見世の前にあった「青山書店」と久茂地大通りの「小沢書店」に触れている文章がありました。
青山/小沢
赤いポインタが青山書店、青いポインタが小沢書店です。どちらもピンポイントに正確な場所ではなくこの区画あたりというくらいのもので場所は那覇民俗地図を参考にしています。
青山書店は山形屋と同じ区画に書かれています(図では赤)。

青山書店は、鹿児島出身の若い青山壮吉が、明治40年7月、25歳のとき来県し那覇東町に開店した。
店主の青山壮吉は青少年をかわいがり、若者たちに読書熱を吹き込んだので店頭には立ち読みをする少年が多かった。
---
[青山壮吉の]10年ほど前に小沢朝蔵が来県し、明治36年時計商から転職して久茂地大通りに書店を開いた。
むかし沖縄 p64 (編集)


小沢朝蔵は明治30年ごろ来県して時計商から小沢書店、青山壮吉は明治40年ごろ来県して青山書店。
この二つの書店は長くは続かなかったようで、昭和4年頃を想定している那覇民俗地図では久茂地大通り沿いには小沢書店跡となっています。
参考:グダグダ(β) 小沢朝蔵

昭和19年の10・10空襲を那覇市役所付近で体験した方の手記では旧青山書店となっていますので昭和19年にはもう青山書店はこの位置にはなかったことがわかります。

右側は山形屋前に連なりますが、左側は郵便局や■[マルメ?]マーケットがすでに燃え上っています。その先は煙で見通せません。右側の方へ逃れようとしましたが、そこもすでに火の海です。それで真向いの消防車庫の傍を抜け、布市場を通って旧青山書店の横から仲毛に出ました。
http://www.nahaken-okn.ed.jp/watashi/sougo/4okinawasen/3kusyu-1.html


那覇市史の新聞記事集成には小沢書店の前身?である小沢博愛堂の広告文があります。写真は小沢博愛堂です。

銀側懐中時計 各種
玉振掛時計 各種
日本楽器製造株式会社製オルガン(金16円50銭より150円迄)
教員及官吏諸君に限り月賦(3ヶ月以上10ヶ月以内)
低廉に販売仕候
那覇市 泉崎橋際 小沢博愛堂

明治33年1月11日 琉球新報

小沢博愛堂
画像は下記サイトさまよりお借りしています。
http://blogs.yahoo.co.jp/pusan_de/2573098.html

参考:グダグダ(β) 山形屋前(警察署前)

嘉数詠顕

沖縄県人事録(大正5)からですがこの人は目次の肩書きが「富豪」となっています。
上之蔵は金持ちと医者が沢山いたようですがこういう人ばっかりだったんでしょうか。


嘉数詠顕
那覇区上之蔵町二ノ六十八
家に巨万の富を有し沖縄の実業界に雄飛して勢威斯界にならびなく、徳望ある実業家として衆望をあつめ居たりしが、今や激務を避けて自邸に高臥し、専ら家運の維持経営に努め、悠々余生をたのしみつつつある君は、嘉永3年2月8日を以て那覇区上之蔵町に生る。


履歴は編集して引用します。

嘉永3(1850)年2月8日をもって那覇区上之蔵町に生る。
父詠元の三男。一男一女あるうち嫡子は詠清(農工銀行書記)だったが大正2年逝去。
詠清長男の詠憲(沖縄毎日新報記者)を嗣子とする。

明治30年 沖縄県農工銀行創立に委員として奔走
明治31年 同銀行の取締役および頭取に就任
明治39年 辞職

明治29年 那覇区会議員(二期)
明治31年 徴兵参事委員


【追記】
「沖縄県立図書館 貴重資料デジタル書庫」にある「沖縄県人事録/楢原翠邦編(大正5)」の画像を追加します。画像は加工して切り出してあります。
嘉数詠顕

山城高興(ギンコウヤマグシク)

名うての富豪として有名な銀行山城<ギンコウヤマグシク>です。沖縄県人事録(大正5)からですが肩書きが富豪とされて、この本の中で他に富豪と記されているのは少ししかいません。
画像は「沖縄県立図書館 貴重資料デジタル書庫」よりダウンロードして画像加工したものです。
山城高興
山城高興
那覇区東町2ノ18
沖縄屈指の富豪として声明高き君は、安政5(1958)年3月16日を以て那覇区東町に生まる。
故父はふるき薩摩藩士たる荒巻高寧氏にして、夙に琉球役所に勤務して声望ありし人、君はこの長男にして早くより一家を成し、明治維新のころ山城と改姓して現に高元および高義の二男あり。


安政は1854〜59年で明治が1868〜1912年ですから、安政5年は1858年で明治になる10年くらい前ということになりますね。幕末は年号がころころ変わってややこしいです。
それはともかく父が薩摩藩士で琉球役所勤めの「荒巻高寧」、10歳頃の明治維新の時期に山城に姓を変えています。
職歴は略して書き起こします。

明治16年10月 第百四十七銀行出納兼計算方
明治31年10月 辞職
明治36年12月 沖縄貯蔵食品株式会社専務取締役
明治38年7月 辞職
明治43年1月 那覇商業銀行専務取締役/すぐ辞職
明治43年4月 那覇区議会議員当選
大正3年 改選に際し辞職
沖縄県人事録(大正5)による


昭和12年頃?に亡くなったと思われます。
この人は那覇民俗地図にも東町大通りの第百四十七銀行の向かいに「銀行山城」として記載されています。

関連:グダグダ(β) 山城高興について (来歴など)
関連:グダグダ(β) 山城高保 (孫が跡を継いだ)

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