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安謝橋開通式

浦添誌から安謝橋開通式の新聞記事です。

安謝橋開通式
去る[明治36年]八月より工事中の安謝橋は概に落成し、昨日午後1時開通式を挙行し公衆の渡橋を許したり(略)同橋は浦添間切勢理客村と真和志間切安謝村の間に在り、巾2間長10間あり、近頃公衆に便利を与えたるは此橋なり。
(略)
橋板其他の諸材は本島国頭地方の雑木を以て造れり。故に外観甚だ粗造なりといえども堅牢耐久の点に於いてはいささかも遜色無しと云うを憚らざるなり。
明治36年11月3日 琉球新報


石材・コンクリ・木材を使ったりっぱなもんです。

真和志北部を中心とした橋等の場所はこれ(真和志民俗地図参照)。安謝橋以前は船を利用していたようです。
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石炭採掘許可申請

浦添誌にあった当時の新聞記事から。

石炭採掘許可申請
中頭郡浦添村字沢岻、内間、宮城、勢理客及び島尻郡真和志村字天久、安謝の74万6千坪にわたる一帯の地より石炭採掘の件、八色吉之助氏より認可申請中なりと。
大正6年4月3日 琉球新報


那覇北部から浦添の一帯には石炭が埋まってるんでしょうか。
他の島では銅、石炭、燐などが採掘されていた記録はありますが、この採掘話がどうなったかは見たことがありません。当時の沖縄は日本と台湾・南洋の中間に在る中途半端な土地で、となりに台湾のようなでかい土地があるような状況では規模が小さな採掘はどのみち採算にあわなかったと思われます。

参考:いろは楼
参考:台湾拓殖 - Wikipedia
参考:南洋拓殖 - Wikipedia

コードールー(香灯籠)

旧暦の正月十六日(ジュールクニチ)はグソーの正月とされています。

正月十六日には那覇では走馬燈一対と香灯籠一対を墓参して墓前につるす。一尺五寸の渦巻きで赤白黄の紙を各三枚九箇所ににさげる。約3時間燃える。
首里では新参や百姓が用いる。
那覇市史資料編第二巻中の7、p342


もう殆ど見ませんねー 
形は丸く太めの蚊取り線香のような感じで、しめ縄につくような紙が下がっていたかと記憶します。

上間・識名周辺の屋取

上間誌から屋取について書かれてある部分です。

真地小学校周辺に戦後まで畑の中にポツポツと5、6軒の泊下(ティマシチャ)という屋取村があった。繁多川、真地はもともと識名村の屋取村が分立したものである。
上間誌 p82

真地
図は70年代の真地ですが緑は農地でこの範囲内にまとまった住居は殆どありません。真地・繁多川について那覇市史ではこう書かれています。

明治36年土地整理の変革によって、これらの部落の周辺には、村外から転入する者が多くなり、いわゆる屋取部落が発生した。識名に繁多川・真地、与儀に樋川、古波蔵に楚辺・壺川・松尾などの集落が出来て新しい行政区が誕生した。
繁多川
首里の金城坂に相対する識名坂の上にあり。首里系住民の集落。
真地
繁多川と同じく首里系統の屋取部落で南は南風原村に接する。西側の低地をトマ下という。
那覇市史資料編第二巻中の7、p39(一部のみ抜粋)


両方とも首里系士族の屋取のようです。

壺川

壺川は馬車発着場跡を中心とした部落です。
那覇民俗地図を参考に米軍空撮写真に書き込みましたが、昭和初期を想定した民俗地図から埋立が進んでいるため境界がわかりません。黒い線の範囲が字壺川、中心を二分する道の川側が赤畑原(アカバタキバル)で陸側が阿手川原(アタカーバル)です。

与那原街道の起点で、奥武山公園に面する海浜に出来た集落。軽便鉄道開通前、与那原、佐敷方向行きの乗り合い馬車の発着地であった。住民は那覇系統、漫湖内で漁労を業とする者も多かった。
那覇市史 資料編第2巻中の7 p40


壺川は黒糖を入れる樽造りも盛んであったようです。
壺川から古波蔵部落まで道の側は集落が続きますがこのあたりは刑務所あたりを中心とした高台のふもとになっていて古海岸線にあたります。
那覇の古海岸線

クヮンチェーバク(棺箱) 2

クヮンチェーバク(棺箱)の続きです。

棺造り
琉球は古来より相互扶助が発達し、葬式は近所(隣組)が取り仕切った。それで棺は死者の家の庭で大工や細工勝手がつくったが、大正年間から金持ちは葬儀社に頼むようになり、棺屋ができた。(略)
那覇市史 資料編第2巻中の7 p337


那覇市泊では、大正時代に大城のハクヤーがあって、タカラムンツクヤー(棺作り)が白布と枕もつけて二円五十銭であった。
那覇市史 資料編第2巻中の7 p636


那覇市史の別箇所にあったのでまとめられなかったのですが専業の棺造りは大正以降の風習のようです。
これまでをまとめると那覇市史では大正時代の泊に棺造りがいたこと、内間の記録では上之屋に買いにいったこと、上之屋誌では棺作りがいたことがわかります。上之屋は周辺市町村や泊の人間の寄り合い部落で、馬車の停車場設置による人口増加で自然発生したところですから歴史は古くありません。
細工勝手(セークガッティ)も引用しておきます。

細工勝手
本職の大工ではないが、手先が器用で大工仕事のできる人をいう。役人になっても収入のある官職になるまでは相当の年数を要するので、手先の器用なものは非番の日には大工に代って仕事をしたり、細工物をした。そのうちに技は上手になり、彫刻、印刻、指物、挽物などで大成した人もいる。もっとも彼らが多くやったのは甕や鍋や釜の蓋、柄杓、まないた、玩具などの日用品製造であったが、飛白結・仏画描き・飾職・表具などあらゆるものに手を伸ばした。
那覇市史 資料編第2巻中の7 p336

古波蔵停車場

沖縄県営鉄道与那原線の古波蔵駅跡です。
文は「図説・沖縄の鉄道/ボーダーインク刊」、図は「酔古ざつがく」さまを参考に作成しています。
http://www.geocities.jp/kikuuj/zatugaku/keibin/yonabarusen1.htm
古波蔵停車場
大正11年3月嘉手納線開業の際分岐駅として設置され駅北側にアルコール工場があり、嘉手納や高嶺から糖蜜が運ばれていた。古波蔵を発車するとすぐ嘉手納線と分かれて真玉橋へ。
辺りは麦畑の続く農村地帯で、古波蔵の集落は駅より北西に離れていた。
今の高さくらいを鉄道が通り、国道は2M以上低かったので国道よりアルコール工場へ通じる道は鉄道の下をくぐっていた。
図説・沖縄の鉄道/加田 芳秀 p57、58(省略編集)

泉崎大ミチ
地図上に表示したポインタのうち一番下にあるのが古波蔵駅です。
真和志民俗地図を見ると古波蔵駅から向こう側の国場川沿岸に細長く集落があり、反対側には台南清酒工場という表示があります。写真でくっきり見えるのは道路でそことほぼ平行してあるのが線路です(クリックして拡大しないと見えません)。
古波蔵駅跡のすぐ横で嘉手納向けと与那原向けの鉄道が分かれますがこの構造は現在の国道も同じで古波蔵交差点がそれに相当します。

吉元栄秀

沖縄県人事録(大正5)から豪農と記された吉元さんの項を抜粋します(範囲外の名護の人です)。

吉元栄秀
国頭郡名護村屋部九四七
君は明治5年を以て国頭郡名護村屋部に生る。亡父栄順氏の長男にして夙に家督を相続し概に四女をもうけたるが、(略)
家は素とすこぶる貧なりしが意志強固なる君の厳父は専念頽勢の挽回につとめ(略)今日の財を積みたる模範とすべき成功者たり。
今や国税二百余円をおさめ郡中の豪農として将たる徳望家として声明あり。

参考:名護 屋部 - Google マップ

名護には豪農の家がいくつかありますね。
屋部の久護家 - Google 検索
旧島袋家 - Google 検索(羽地/琉球村に移築)

屋部といえば思い出すのは山入端ツルさん(三味線放浪記)。この本は成立過程にも味があります。そして兄の山入端萬栄さんのことも書かれている「眉屋私記/上野英信」も対にして読むべき本。
この兄妹のような貧困と豪農が存在する近世の沖縄というのがよくわからんのです...

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