壺川は馬車発着場跡を中心とした部落です。
那覇民俗地図を参考に米軍空撮写真に書き込みましたが、昭和初期を想定した民俗地図から埋立が進んでいるため境界がわかりません。黒い線の範囲が字壺川、中心を二分する道の川側が赤畑原(アカバタキバル)で陸側が阿手川原(アタカーバル)です。
与那原街道の起点で、奥武山公園に面する海浜に出来た集落。軽便鉄道開通前、与那原、佐敷方向行きの乗り合い馬車の発着地であった。住民は那覇系統、漫湖内で漁労を業とする者も多かった。
那覇市史 資料編第2巻中の7 p40壺川は黒糖を入れる樽造りも盛んであったようです。
壺川から古波蔵部落まで道の側は集落が続きますがこのあたりは刑務所あたりを中心とした高台のふもとになっていて古海岸線にあたります。

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