上間誌から屋取について書かれてある部分です。
真地小学校周辺に戦後まで畑の中にポツポツと5、6軒の泊下(ティマシチャ)という屋取村があった。繁多川、真地はもともと識名村の屋取村が分立したものである。
上間誌 p82
図は70年代の真地ですが緑は農地でこの範囲内にまとまった住居は殆どありません。真地・繁多川について那覇市史ではこう書かれています。
明治36年土地整理の変革によって、これらの部落の周辺には、村外から転入する者が多くなり、いわゆる屋取部落が発生した。識名に繁多川・真地、与儀に樋川、古波蔵に楚辺・壺川・松尾などの集落が出来て新しい行政区が誕生した。
繁多川
首里の金城坂に相対する識名坂の上にあり。首里系住民の集落。
真地
繁多川と同じく首里系統の屋取部落で南は南風原村に接する。西側の低地をトマ下という。
那覇市史資料編第二巻中の7、p39(一部のみ抜粋)両方とも首里系士族の屋取のようです。
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