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第百四十七国立銀行

第百四十七国立銀行です。

第百四十七銀行は現在の鹿児島銀行です。
鹿児島銀行 - Wikipedia

写真は通堂側から撮ったものでしょうね。
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葬儀社 2

葬儀社で大正期に設立された葬儀社のことについて触れました。
その補足になるのですが「奄美沖縄の火葬と葬墓制」には沖縄での火葬率があげられていますので引用します。

1924年/1.8%、26年/0.7、28年/1.4、30年/0.7、32年/1.9、34年/1.6、38年/3.8、40年/5.4、41年/6.4、42年/8.3、43年/5.5
奄美沖縄の火葬と葬墓制 p133表より部分抜粋


戦後はデータがあまりないようなのですが、1954年には真和志市で58.9%、69年には沖縄県全体で73.9%というふうになっています(同表より)。戦後にガッと上がる他は対して急激な伸びはありません。
本でも述べられているのですが大正4(1915)年の葬儀社の役割は従来の葬儀に必要なもの(僧侶、念仏者、龕担ぎ、左官、葬花など)の手配をするものであったようです。

従来本県の葬儀というと肝煎人といって近隣の人や知合の人が寄り添って香花を造るやら人夫を指揮するやらして万事に不便がちであり、また繁鎖でもあることは多くの人々の経験したことであるが、其間にも時々人夫共が酒など強請って飲むやら賃銭に文句をつけて望外に得んとするなど種々てこずったものだが、此度の欠点を補ひ喪家に不便を感じせしめない目的で下泉町1の12水張小路に沖縄葬儀請負事務所なるものが出来たれば(略)
大正4年8月21日 琉球新報(一部抜粋、編集)

墓地整理

戦後暫くしてから那覇の海岸一帯の墓地は整理されました。

1951年から行われた那覇市若狭町、辻原の墓地整理事業をあげることができる。那覇の若狭、辻原の各墓地群は沖縄を代表する墓地として戦前から有名であったが、1951年に米軍の軍命をうけて、那覇市都市計画課がその撤去事業を開始したのである。米軍の意図は、両墓地の土を掘削し、その土を用いて泊護岸の埋め立て・整備を行うことにあったようである。
戦後沖縄の火葬 : 那覇若狭町、辻原の墓地整理をめぐって/加藤正春


若狭町と辻原と述べられています。
那覇の海岸線沿いの石灰岩地帯、辻原の山、波上宮のそば、雪の崎など辻から若狭町の海岸線には多数の墓地地帯がありました。加藤正春さんの本、「奄美沖縄の火葬と葬墓制」に新聞に掲載された告知がありましたので引用したいと思います(少し改めました)。ちなみに「ウイノモー」は上ノ毛で、旭が丘は「セーコージ山/済広寺山」とも呼ばれます。

急告
軍命に依り那覇市辻(ツジ原)ワカサ町(ウイノモー、ユキノサキ、アサヒガオカ)一帯に有る墓地所有者は右記に依り御参集ください。

一、日時 1951年1月31日(火)午後1時
一、場所 那覇市役所
1951年1月25日
那覇市役所

士族の比率

「中城村の屋取」という中城村教育委員会が2004年に発行した本があります。図も豊富で内容も濃くこれ以上のものは出来ないんじゃないだろうかと思われるようなよい資料でした。
その中に明治33年の士族の割合の表がありましたので数字のみ抜粋します。中部辺りには屋取村(泡瀬とか)があるのは知っていましたが、ここまで士族の割合が高い地域があるのは知らなかったので少しカルチャーショックでした。

浦添 20.62%(以下すべて同じ)
西原 23.93
中城 18.44
宜野湾 21.88
北谷 49.88
読谷山 21.69
越来 47.50
美里 35.46
具志川 48.40
与那城 11.90
勝連 10.32

那覇区 68.40
首里区 56.60
島尻区 16.07
中頭区 28.58
国頭区 21.07
中城村の文化財第七集/中城村の屋取 p14表より抜粋

円山号/尾花仲次

戦前那覇の大門前通りにコンクリート建のデパート円山号がありました。主は兵庫県出身の尾花仲次、平和館のオーナーでもありました。
グダグダ 旧那覇の大通り名
グダグダ 円山号
グダグダ 那覇上空
図は大門前通り一帯、写真はコンクリ造りになる前の円山号(か支店)です。
龍界寺小路・善興寺坂円山号
円山号
円山号百貨店(デパート)。建造されたのは昭和10年10月、設立者は尾花仲次。鉄筋コンクリート三階、一部四階の建物で那覇市東町3丁目22番地にあった。

尾花仲次は兵庫県出身の寄留商人で大正初期に来県、最初は路傍商人から初め、のち雑貨店円山号をつくり、化粧品その他の雑貨を販売していた。その円山号を昭和10年鉄筋三階建ての百貨店にしたわけで、山形屋と並んで那覇に二つしかないデパートの一つとなった。円山号は当時民間の建物としては沖縄一を誇り、同建物は那覇が廃墟と化した沖縄戦でも戦災を免れ、戦後一時琉球立法院に使用されたこともあったがその後取り壊された。
尾花は円山号の他に、大正8年立住兼次郎と共同で映画常設館「平和館」を建設、のち尾花単独で経営するようになった。料亭「一味亭」の経営に参加したこともある。
尾花は親分肌の性格で那覇の市会議員に何度か当選し、商工会議所の会長をやったこともあり、政財界にも重きをなしていた。一介の路傍商人からたたきあげた寄留商人のの化でも異色の人物。那覇の商業が本土の寄留商人に握られていた時代の象徴的な建物として円山号の名は県民の脳裏につよくきざまれていた。
沖縄県史別巻 p512(部分引用)

ジュリと料理屋女

那覇の女たちの感覚ではモラル的にジュリや料理屋女は自分達以下、そしてジュリより料理屋女が嫌悪されるという感じだったようです。
この料理屋女というのは大和料理店の従業員や芸者ではなく、肴屋の女(サカナヤーノイナグ)で、チージサガイで触れた「サカナヤー(料理店を兼ねたあいまい宿)」の女だったのでしょうか。

ジュリがそれなりの地位を得て料理屋女が嫌悪されるというのはそこに(一応の)モラルがあることや、家を傾ける程散財しなければ自分達の地位や生活を脅かすものではないからでしょう。

あの頃は自由結婚は許されない。そんなことをしたら後ろ指さされて、料理屋女だとかジュリだとかいわれる。
なは女性史証言集 p16


また遊女たちは三味線や舞踊などをたしなみ稽古をしたから琉球芸能の淵叢でもあった、那覇の男子仲間では遊女買の存分も無い者は無能な者として軽蔑された。家庭の主婦たちも料理屋の女(サカナヤーノイナグ)などはハゴームンとして嫌悪したがジュリには割に寛容で、馴染が冠婚葬祭に挨拶に来たり手伝いにきたりした。
辻のジュリは原則として紹介制でめったな客を取らず、美妃などは詰ジュリになって一人を守り、他客をとらなかったためであろう。
昔の那覇と私 p49

真和志の民話

教育委員会が作成した民話集の説明に興味深いものがありました。民話調査は昭和51年と52年で、すでに日本復帰してからしばらくたっているころです。

かつて、旧那覇と旧首里は、沖縄の各地の話が集まる所であり、さらに、それらの話をもとに、新しい話を再創造するるつぼであった、それは(略)本土の奈良や京都がになった役割を沖縄ではこれらの二つの核がその役割をはたしており(略)
那覇が他の都市と異なる所は、他の文明都市が早い時代に伝承の中心地および再創造の機能を失い、口承文芸から文字文芸に移行したのに対し、旧那覇・旧首位においては文字文芸を併存させ、近い時代まで伝承の中心地・再創造の二つの機能を保ちつづけたことにあった。

真和志地区はこの旧那覇・旧首里の中間の地区であることによって、この二地区の伝承を受け入れるのに最も有利な地理的条件を有していた。民話における創造と伝承の関係は、一般に都市区が各地の民話の集約と再創造の機能を持つのに対し、農村地区は、伝えられた話を受け入れ、それを、ほぼそのままのかたちで伝承し保存することにあったと思われる。そしてそれらの話は一体となり伝承されていったのである。
ところが、戦後における他地域からの人口の流入は、さらに、真和志地区の民話を多彩なものにした。本島中南部や周辺離島はいうにおよばず、宮古・八重山の話も受け入れることになったのである。

---
この民話集に掲載した民話の調査は二次にわたっておこなわれた。
第一次は昭和50年6月から7月に書けておこなわれた。
第二次の調査は昭和51年に結成された那覇民話の会が51年4月から9月までの期間に28名が参加しておこなった細く調査である。
この二次にわたる調査で得た成果は185名の話者から905話の民話を聴取したことである。
県都である都市部のしかも、一地区で、900話をこえる話数が聴取されたことは、これまで日本の民話調査ではかつてなかったことである。なぜなら他府県においては、寒村僻地においてこそ民話は豊富に伝承されているという固定観念があり、事実そうした傾向が強いからである。
那覇の民話資料(第3集 真和志地区 2)/那覇市教育委員会 p4、5(抜粋引用/一部編集)

漁とその対象

那覇の漁場で那覇近郊の漁場四ヶ所について説明しました。
343号が小禄沿岸、2622号が漫湖、2623号が那覇から安謝一帯沿岸、4909号が慶良間です。
「近代における地域漁業の形成と展開/片岡千賀之」には漁業の種類も示されています。

343号(小禄沿岸)
廻高網、スク抄網、鉾突き、イカ網、亀・貝採取
2622号(漫湖)
船打投網
2623号(那覇-安謝沿岸)
建干網、磯魚白網廻網、カマス張網、ムロアジ張網、ヒチ抄網、イカ網、ダツ刺網、一本釣り、手籠
1909号(慶良間)
貝・海藻採取、廻高網、スルル四張網、磯魚刺網、アイナメ抄網、イカ釣り
近代における地域漁業の形成と展開/片岡千賀之 p36(表より抜粋)


ここでは漁業種類については詳しく触れませんが那覇市史資料編の漁労の項目には説明されていますので興味のある方は参照されて下さい。それとヒチはスズメダイです。
那覇市史資料編の4909号(慶良間)の箇所を引用します。

慶干瀬(チービシ)は那覇港と前慶良間島との中間にある神山・大伊保・小伊保なる三無人島の総称である。漁場の位置は従って、那覇港よりおよそ七海里(12.6km)のところにある。漁場は狭いが潮流の関係から好漁場となっており、グルクン、ミヅン、ヒチ、スルル、カツオなどを穫っていたのである。
(略)実際の漁業者は渡嘉敷間切前村との間に古くから入漁料を払って漁業をしている垣花網人衆、釣人衆、小禄間切大嶺および糸満、小禄間切胡城である。
那覇市史資料編第2巻中の7、p256


>神山・大伊保・小伊保
伊保はイーフのことでしょうか。神山島は沖縄戦で米軍が砲を設置したため日本軍が切り込みをかけたところです。

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