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ふろ

まず浦添市史から引用しますが真和志地区も大差ない状況だったと思われます。

風呂屋のことをユーフルヤーという。戦前は浦添市内には殆どの部落に風呂屋はなく、勢理客の人々などは泊に、前田の人々は首里にある風呂屋まで出かけていた。風呂屋へゆくのはシチグヮチ(お盆)、ソーグヮチ(正月)の特別の日にしかいけなかったようである。
夫人たちは男性よりは多く行っていたようで、特に若い夫人たちは、カタバルグヮーに芋を売りにいっての帰りに泊の風呂屋に入ったりした。ユーフルチン(風呂賃)は当時のお金でグヒャークであった。
浦添市史第4巻資料編3 p343(一部抜粋)
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大正期は風呂屋に行く機会はめったになく、川や泉・井戸で水浴びをし体の汚れをおとしていた。川を利用するのは主に男性や子供達で、婦人達は泉や井戸で洗濯やそのほかの洗いものをしながら水浴びをする。
女の子は10歳の頃より年齢がいくに従って恥ずかしがるようになり、川では水浴びをしなくなる。泉や自分の井戸で洗濯などをしながら婦人のグループで一緒に水浴びをする。幼い子供は男女とも母親と一緒に水浴びをする。婦人達でも野良仕事帰りには近くの川で顔や手足を洗ったり、体についた泥を落としたりする。
各戸も井戸が普及しはじめたのは古老達の生まれた頃のことであり、それ以前の婦人達は川で水浴びをした者も多かったと思われる。
冬の寒い時期は水浴びはできないので、川や泉・井戸の水で顔や手足を洗う程度である。そのため、それぞれの家では貧富の差こそあれ三日から一週間に一回は大鍋に湯をわかし、それで体の汚れを落とした。年寄りや子供はめったに湯を使うことはなく、年頃の女性や若い婦人はよく使っていた。
浦添市史第4巻資料編3 p340、341(省略抜粋)


真和志でも那覇の市場に野菜を売りにいっているわけですから帰りに風呂に入ったりすることもあったでしょう。
明治40年に旧那覇にあった風呂屋は24軒です。

関連:いちゃんだゆーぶる
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穴屋

浦添市史第4巻資料編3の217ページから平民の代表的住居である「穴屋」の形式図と間取り図を模写しました。王朝時代には屋敷建物について制限がありました。
平士/一辺約18.2M(10間)/面積100坪/一室辺り8畳以下
平民/一辺約16.3M(9間)/81坪/一畳あたり6畳以下
浦添市史第4巻資料編3 p217表一から数字を抜粋

浦添市史では比嘉春潮の「古代住居のおもかげを伝えるものといえよう。半世紀前は沖縄農村の80%ぐらいはこの穴屋づくりであった」という言葉を引用しています。
穴屋形式穴屋間取り

穴屋は、地面に柱穴を彫り柱を植え込む構造で、いわゆる堀立て小屋である。
柱の上部はY字型のものを用い、これに桁を架け、さらに梁、合掌、棟木などの小屋組みである。
そして茅か竹茅(篠竹)で屋根を葺き、釘は用いず、しゅろ縄か蔓草などで結ぶ。床は大曳を自然石の束石に渡し、その上に、竹または板をしいてその上に藁またはむしろを敷いたり、「ニクブク」を敷いたりした。古くは土間に藁または「ニクブク」あるいは筵を敷いた。
天井は桁の上に細編みのチニブか、小丸太を組んで、その上に藁編物を置いた。
壁は山原竹(琉球竹)でチニブを編んで、内外二重にしてその間を30センチにして、藁または茅を詰めた。台所の竃近くは野面積みの石壁(イシクビ)、または鎚壁にして防火壁にしてある。
出入り口の戸も小丸太で枠を作り、それに藁か竹茅あるいは茅を張ってある。
浦添市史第4巻資料編3 p221(一部編集)


この記述は那覇市史も大差ありませんが旧那覇では建築事情に少しだけ違いがあります。穴屋は茅葺きになりますが、貫木屋はきちんとした建築なので瓦を葺くことも可能です。なので瓦葺き建築は本格建築の貫木屋、茅葺きは穴屋と貫木屋の両方があることになります。

貫木屋
屋根は茅葺きが主であったが那覇では次の理由から十七世紀末〜十八世紀初期からは民家にも次第に瓦葺きが多くなっていった。それは那覇港が開場港で外国人の出入りが会って体面上の必要からとマチの防火上の点が考慮されて、士族、平民も瓦葺きは自由に許されていた。
首里は貴族、士族が許され百姓は許されなかった。真和志と小禄は田舎(地方)であるために、1737年の制限令のとおり瓦葺きはできなかった。
那覇市史 資料編第2巻中の7 p223(省略抜粋)


天久誌に掲載されている「昭和10年頃の天久村の民俗地図」では部落の屋根が何で葺かれてあったのかを知ることができますが瓦葺きはわずかしかありません。また集落のほとんどは二棟が並立している形をしていますので最初の図のような台所と母屋のような形をしていたと思われます。
百姓の家は浦添も真和志も大差ないものだったと思われます。

農村と魚

浦添から市場への続きのようなものです。
引き続き浦添市史から引用します。

一方、目方が魚市に持っていくほどの量ではない場合とか、小湾に水揚げされ売るのをまかされている糸満の追い込み網などの時には小魚が多いこともあって隣接の部落に売り歩くのが普通であった。それは量が多くなると今の仲西、宮城、勢理客あたりの農村部落にまで及んだのである。これら農村部では日頃、海のものは食べつけなかったが、隣接部落からは薬になるといってそのための注文が良くあった。例えば、のぼせや下げ薬としてはエビ(イセエビ)・イカを、シャコ貝など貝類一般は下げ薬、アバサーは腎臓や高血圧に聞くと信じられていた。海のものは医者の薬より、栄養をつけつつ病気を治すものとして人気はあったのであろう。
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内間や安波茶のしまかたれ会資料によれば、「魚は女が子を産むときにしかありつけなかった」とあり、母乳が良く出るように魚汁を与えた風習と一致する。魚は日頃の食品ではなく、病人食といった扱いであることがわかる。
浦添市史第4巻資料編3 p120


内地の漁村のような魚中心といえるような生活は那覇でも見当たりません(垣花はどうだったのだろうか)。浦添市史では農耕で忙しく海に入る時間は無かったと書かれてありますが那覇や真和志も同じようなものだったのでしょう。安謝では肥料のために海藻をとってきたりしたという記述もあります。

比較的海産物は豊富に食べている。特に牧港、小湾、城間、勢理客は海に近く、魚介類の種類も多く摂取量も多い。城間の中道に朝市が立ち、安謝には糸満の漁師も居住していたので近隣の部落は魚を買って食べていた。
しかし、専門の漁師のいない部落では海に近いとはいえ魚は滅多に獲れず、潮干狩りの暇もないので毎日の食卓にのせるなどはできなかった。農作業に従事していないお年寄りが居る家は割合貝類を食べていたのも潮干狩りができたからだという。西原、前田、沢岻は魚介類の食べ方が極端に少ない。西原では病気や産後にしか魚を食べず、沢岻ではたまに売りにきた魚も買うゆとりがなかったと話している。交通機関の未発達な時代では海から少しばかり遠い地理的条件が食生活に大きく影響したようである。冷蔵庫や氷のない生活では新鮮な魚介類は得難いし、経済的にも魚を買って食べるゆとりはなかった。
浦添市史第4巻資料編3 p203


参考:グダグダ 那覇の漁業民
参考:グダグダ 漁とその対象

浦添から市場へ

浦添市史の証言を引用します。
那覇の市場では魚売りがあるため自分自身では販売できず、宿小にいったん置いて委託販売したようです。首里ではタコが盛んに食べられたという話も面白いです。
また宿小(ヤドグヮー)は伊是名出身の女主人が仕切っていて海産物を受け入れたというのも興味深く、宿小の持ついろいろな性質が現れているように思います。

イカなどを売るのは潟原マチグヮーに行ったが、店は潟原の道路沿いにズラッとならんでいた、よく子供のとき親について、何か買ってくれるのを期待しながら泊まで行ったものであった。魚を持っていくのは荷馬車はないので、頭の上にのせて運んでいた。魚はあらかじめ一斤、二斤単位でヒモで魚のアジ(エラ)を通してまとめた。ヒモはアダンのつるを太陽に干し、平たく裂いたものをさらに短く切って使った。釣ってきた魚は夕方に間に合わせて、城間通りの仲道で売った。仲道にマチグヮーがあり、ユサンディーマチグヮー(夕方の露天市)であった。又、量の多いときやタコなどを売るときには那覇や首里に持っていった。特に首里はシガイ(手長ダコ)やマダコなどタコ類を多く食べるところであった。一般に那覇へは朝に間に合わせて、隣接の城間などへは夕方にあわせてうったものというが、地元の港川では売れなかったのである。それは第一に戸数もしれているし、加えて海にも各自が歩いていることもあって売れなかったのである。
専業の漁業者であった田前(港川)の場合、販売は妻の役目でありその内容は糸満の場合とあまり変わらなかった。捕った魚の多くは那覇の東町にあった魚市に運んでいった。小湾から東町の市場まであるいて1時間15分〜20分かかるが、クブシミの時期になると一日に三回も通うことがあったのである。魚は市場に得意の宿小があり、そこに持っていった。宿小の女主人は小湾の人ではなく、伊是名の出身であった。この宿小に持っていけば必ず売ってもらえるということで、自分たちが売り廻ることは那覇ではなかった。それは魚市で売る人はきまっており勝手に売ることはできなかったである。この宿小にクブシミなどを運んで置き目方を書いておくと、買い手がやってきて持っていくといった手順であった。魚の代金は2、3日してから自分の都合によって訪れていって清算したり、又は宿小の方から連絡してくることもあった。
浦添市史第4巻資料編3 p119、120

民政府職員の移動

船越義彰さんの「狂った季節」に那覇へ移る際のエピソードがありますので引用します。

那覇への通勤は1950年の何日まで続いたか記憶が曖昧である。稲福、大城、オヤケバル、百名、志喜屋、その他、[※民政府の]職員住宅に入っている職員の異動も始まっていた。個人的な才覚での移動であった。
そのうち民政府財政部長護得久朝章氏が管理している尚家の土地を開放して集団で住宅を建設するという構想を示された。家屋建設費は「復興金庫」つまり復金から借り、土地は借地料を払うというのである。那覇移動に踏みきれない者にとってこれ以上の朗報はなかった。私もこの住宅に入るべく手続きをした。
狂った季節 p230


>民政府財政部長護得久朝章氏
向家(しょうけ)の人です。
護得久御殿 - Wikipedia
民政府の前身である沖縄諮詢会でも財政部長です。
沖縄諮詢会 - Wikipedia

現在の三原辺りに「民政府住宅」とよばれた一帯があります。以前はタクシーなど利用する時に民政府住宅までといえば連れて行ってくれました。尚家の土地だったという話も聞いたことがあります。
ですが上記の本の記述ではその後義彰さんは七つ墓付近に引っ越しています。このあたりがどうなっているのか自分はわかっていません。
とりあえず引用しておきます。

移った場所だが今どのあたりか見当がつかない。沖映を目安にすると現在のダイエーの向かいあたりに「料亭那覇」があった。真新しい建物だったと記憶している。その近くに我那覇という鉄工所と鋳物工場があり、その真後ろの茅葺きの家が我家であった。
狂った季節 p231


「現在のダイエー」はジュンク堂になっていますね。川沿いの真後ろに鉄工所が今もあります。この我那覇鉄工所は戦前の若狭町にも同じ名前がありますが同じ人がやっていたのかどうかは確認できていません。
参考:グダグダ 上江洲フミ(料亭那覇)
と思ったら民政府住宅の顛末が書かれてあるサイトがありました。

このため、志喜屋知事は軍政府に民政府の早期移転を申請し、工務部は職員住宅の敷地として真和志村与儀にある農業試験場耕作地にテント175張りを建てて 350世帯分の仮住宅を建設し、8月1杯に移転する予定でしたが、敷地問題が解決せず、三原に30戸の規格住宅を建設し、移転を開始しました。
http://nemuihito.at.webry.info/201012/article_3.html


義彰さんの本にもこの移転の原因となった台風の経験が書かれてあります。

近代沖縄の寄留商人

「近代沖縄の寄留商人/西里 喜行」(ひるぎ社)という本があるのですがうかつにもこの本の存在を知りませんでした。
概略と通史、そして出身地別にカタログのように書かれた読みやすい本です。

地元出版社のひるぎ社の「おきなわ文庫」というシリーズの内の一冊です。おきなわ文庫をまとめられている方がいましたが現在発行が停まっているようです。本屋ではまだ並んでいるのですが...
「おきなわ文庫」(ひるぎ社)ラインナップ - 気まぐれ おやぢの雑記帳
http://blog.goo.ne.jp/hyakunenme/e/cc593cee5ce240360293e1e390488fa3

研究書でお見かけする先生方のお名前がありますね。

西里さんの略歴は下記アドレスにあります。
http://www.napcoti.com/napcoti/nishizato.htm
竹富島を生活の舞台としていた頃、私の伯父・護得久朝輝(ごえくちょうき)は祭や祝いごとがあれば、必ず招かれて宴席で三味線を弾いていたから、私も竹富島の歌や踊りを見聞する機会は少なくなかったものの、日常的に享受している伝統文化がなにほどの価値を持つのか、当時の私には分からなかった。


護得久朝○という姓と名(名乗り)の人は尚家関係者のはずですから西里さんもそうなのでしょうか。

戦後の区の見方

戦後の那覇の区で戦後那覇にしばらくあった区を紹介しました。このほかにも松尾区、楚辺1区、楚辺2区があり、同時期にみなと村も存在しています。

当時存在した店舗で住所がわかるところを地図で見てみます。
グダグダ 大城ウシ(香那恵ホテル)
戦後の区那覇1区
>香那恵ホテル
>那覇1区14組

香那恵ホテルのある1区の14組は現在の国際通りから平和通りに入って左手になります。平和通り左手(公園側)は国際通りから栄橋までが14組、そこから桜坂劇場に上がる道あたりまでが13組と12組、そこから出口までが10組になっています。

グダグダ 松本思明(花咲)
>料亭花咲
>那覇10区1組

戦後の区那覇10区
那覇10区1組は現在の一銀通り付近です(当時は開通していません)。現在のパラダイス通り入り口の左手が2組、右手が3組です。

グダグダ 上江洲フミ(料亭那覇)
戦後の区那覇5区
戦後すぐの料亭那覇は沖映通りにありました。沖映通りは10区と5区の境目になっています。
昭和26年の地図には料亭那覇が書き込まれてあり那覇5区6組となっています。

戦後の那覇の区

※近日中に大幅改定する予定があります(2012.6.22)

戦後の那覇にあった区の図です(正確なものではありません)。1〜11区までのみ描いてあります。
昭和26年6月に発行された「最新那覇市地図」を元にして作成してありますが、この地図は裏に参考にすべき図がなかったため作成が難しかったことが書かれてありました。地図はすべて手書きで文字等もほとんどが手書きです(タイトルのみ活字)。
戦後の区
以下は各区ごとに描いたものです。これも数字で表された区のみ描きました。
那覇1区 
那覇2区
那覇3区
那覇4区
那覇5区
那覇6区
那覇7、8区
那覇10区
那覇9、11区

これで戦後の繁華街の住所検索がやりやすくなるかと自画自賛。

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