浦添市史の証言を引用します。
那覇の市場では魚売りがあるため自分自身では販売できず、宿小にいったん置いて委託販売したようです。首里ではタコが盛んに食べられたという話も面白いです。
また宿小(ヤドグヮー)は伊是名出身の女主人が仕切っていて海産物を受け入れたというのも興味深く、宿小の持ついろいろな性質が現れているように思います。
イカなどを売るのは潟原マチグヮーに行ったが、店は潟原の道路沿いにズラッとならんでいた、よく子供のとき親について、何か買ってくれるのを期待しながら泊まで行ったものであった。魚を持っていくのは荷馬車はないので、頭の上にのせて運んでいた。魚はあらかじめ一斤、二斤単位でヒモで魚のアジ(エラ)を通してまとめた。ヒモはアダンのつるを太陽に干し、平たく裂いたものをさらに短く切って使った。釣ってきた魚は夕方に間に合わせて、城間通りの仲道で売った。仲道にマチグヮーがあり、ユサンディーマチグヮー(夕方の露天市)であった。又、量の多いときやタコなどを売るときには那覇や首里に持っていった。特に首里はシガイ(手長ダコ)やマダコなどタコ類を多く食べるところであった。一般に那覇へは朝に間に合わせて、隣接の城間などへは夕方にあわせてうったものというが、地元の港川では売れなかったのである。それは第一に戸数もしれているし、加えて海にも各自が歩いていることもあって売れなかったのである。
専業の漁業者であった田前(港川)の場合、販売は妻の役目でありその内容は糸満の場合とあまり変わらなかった。捕った魚の多くは那覇の東町にあった魚市に運んでいった。小湾から東町の市場まであるいて1時間15分〜20分かかるが、クブシミの時期になると一日に三回も通うことがあったのである。魚は市場に得意の宿小があり、そこに持っていった。宿小の女主人は小湾の人ではなく、伊是名の出身であった。この宿小に持っていけば必ず売ってもらえるということで、自分たちが売り廻ることは那覇ではなかった。それは魚市で売る人はきまっており勝手に売ることはできなかったである。この宿小にクブシミなどを運んで置き目方を書いておくと、買い手がやってきて持っていくといった手順であった。魚の代金は2、3日してから自分の都合によって訪れていって清算したり、又は宿小の方から連絡してくることもあった。
浦添市史第4巻資料編3 p119、120PR