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湧田地蔵堂

泉崎大ミチ沿いにあった湧田地蔵堂です。
那覇の西町と東町の地は埋立で人口が増えてきた。その土地に首里の巨刹とちがって小さい祠堂がある。恵美須堂・薬師堂・荒神堂、さらに久茂地に才の神(セーヌカン)・湧田の地蔵堂などがあった。この中で湧田の地蔵堂は三叉路の中央にあって赤瓦屋根の中央に擬宝珠をのせた八畳間くらいの平屋だった。正面と左右をあけた石壁で囲まれた中央に石の円柱が立って上部は大きく六角形に切りとって屋根裏を支えている。大正の頃までは数コの石欄と石階も三段はあった。(略)
那覇市史 資料編第2巻中の7 p67


まず泉崎橋から湧田地蔵堂を通って獅子松尾に至る泉崎大道(赤)です。
現在のハーバービューホテルが獅子松尾と呼ばれていて上泉町のはずれにあり、湧田地蔵堂は二中から県庁へ向かう道と泉崎大道が三叉路を造るそばにありました。

右図の水色が湧田地蔵堂、緑色が獅子松尾、オレンジ色が仲里松尾です。
湧田地蔵堂
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コーガン山


那覇民俗地図にある川畑工場は寄留商人の川畑黙志による鉄工・鋳物工場です。地図にはこの工場と同じあたりに「コーガン山」、そのそばに「ハーリー屋敷」という表示があります。
コーガン山のほうがわからなかったのですがそれらしい記述を見つけました。

広厳寺(こうごんじ)は、かつて沖縄県那覇市若狭町1丁目に位置した臨済宗寺院です。山号は万年山。開山は芥隠承琥(?〜1495)で、景泰年間(1450〜57)に建立されました。建立当初は沖縄県那覇市久茂地町1丁目の久茂地川左岸に位置していましたが、万暦37年(1609)薩摩の琉球侵攻によって焼失。若狭町1丁目の護国寺の東南、天尊廟に隣接して再建されました。琉球処分後に廃寺となりました。

広厳寺が位置した地点は、東恩納寛淳(1882〜1963)はその著『南島風土記』において、「泉崎橋から県庁通りに曲がる河岸、現在川畑鉄工所附近を「コーガン」屋敷と称へ、その辺一帯を「コーガン」と字称してゐるが、或は広厳寺の最初の所在で、再興の時に波ノ上に移転したのではないかとも考へられる」と指摘している(東恩納1950)。


「コーガン」は共通しているのですが「山」はついてませんね...
図中の「コーガン山」()は「那覇市旧跡・歴史的地名地図」では「コーガン山跡/甲辰尋常小学校跡」となっています。

荒神堂


コージン
神の名。航海安全の神とされ、コージンロー kooziNroo [荒神堂]にまつられていた。近代には渡地の村の守護神、また遊女たちの守護神としても拝まれた。サンポーコージン saNpookooziN[三宝荒神]ともいう。

http://ryukyu-lang.lib.u-ryukyu.ac.jp/srnh/details.php?ID=SN50670

通堂通堂

写真はギリギリ写っているのかなと思いますがどれかはわかりません。

才の神(セーヌカン)

さて那覇の西町と東町の地は埋立で人口が増えてきた。その土地に首里の巨刹とちがって小さい祠堂がある。恵美須堂・薬師堂・荒神堂、さらに久茂地に才の神(セーヌカン)・湧田の地蔵堂などがあった。この中で湧田の地蔵堂は三叉路の中央にあって赤瓦屋根の中央に擬宝珠をのせた八畳間くらいの平屋だった。正面と左右をあけた石壁で囲まれた中央に石の円柱が立って上部は大きく六角形に切りとって屋根裏を支えている。大正の頃までは数コの石欄と石階も三段はあった。(略)
荒神堂も移築したから元の姿はわからない。同時にこれらの祭祀の模様も不明のままである。渡地の遊郭からも拝んだというが、二十日正月のジュリ馬の頃で沖縄の方法でビンシーで拝んだという。従ってこれらの夷神や三宝荒神などの信仰が根付いたかどうかもわからない状態である。才の神に至っては塞の神ときいたが、石だか石敢當だかよくわからないという。以上の信仰の定着は不明だが、名称が地名や屋号みたいに残っている。例えば「堂順の仲村渠」「堂ヌ前ヌ岸本」「地蔵仲地」「荒神ヌ前」などといっている。
那覇市史 資料編第2巻中の7 p67


才の神(セーヌカン)と荒神堂はここです。
才の神・荒神堂
恵美須堂(夷堂)は大正の仮屋の前を参照して下さい。
「カルテの余白」に才の神近辺の様子が書かれてあるので引用します。

明治39年、才の神のランプ屋といえば有名で、若狭町から夕方ホヤ一つ買うにしてもそこまで走らなければならない。那覇で唯一のランプ屋で、片手間にちょっとした学芸品も売っていた。そこの長女うめのは松山小学校の同級生で(略)
裏にいるというトウチャンの返事にまわって行ったら、オッカンが高い岩の裾の、子供が一人立って入れそうな穴に向かって線香を立てて口の中でブツぶつ言いながら拝んでいた。穴の中には石ころがあった。「オッカン、それは何?」と質問をしたら「セーヌカンのウカミだよ、拝め」と言った。余談となるがこの店のトウチャンは沖縄に素手で渡り、飴の湯をかついで売り出したのを振り出しに、ランプ屋を始めてから成功し、後日、昭和の初めには大門通りに手広く雑貨商をやるようになったが、あれから二十何年経っていたのでうめのの姿はなかった。
カルテの余白 p47、48(抜粋省略)


那覇まちのたね通信 | 那覇(商店)/福田商店/戦前/サイノ神下/(1917年頃)
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=1015

ボールガニ

ボールという名の練乳は鷲印だった。数年後に人形印も出たが、これもボールといい練乳以外のかん詰めの空きかんも、すべてボールガニと名付けられた。
缶詰は、よほどエリートでなければ使わない時代で、私が18歳で高女を卒業するまでに二回食べた記憶しかない。練乳の空きかんは、近所の人が争ってもらいに来て、柄杓や子供の遊び道具、おはじき入れなどに利用した。
戦争中、ふる金買いに、国場あたりの女が毎日のように来ていうには、ボールガニは一斤3銭、軽るナービ小(アルミ)は5銭、銅は10銭と言っていたがブリキやかん詰めの空きかんを片っ端からボールガニと称していた。食品としてのかん詰めは、めったに使われないが、練乳は明治中期頃から乳不足の乳児に普及したと思われる。
大正6年小児科の授業で、人工栄養についての講義に練乳が出た。「練乳を普通ボールといっているが日本で最初に輸入されたのが、日本で最初に輸入されたのが、オランダのボールデン会社の鷲印だったのでそれから何会社のものであろうがボールで通用するようになった」と小杉先生がいわれた。なるほど、それが沖縄にもそのまま通用することになったのである。
カルテの余白/千原繁子 p24、25(省略と抜粋)


練乳をボールと呼んだのは沖縄だけではなく、千原さんが授業を受けた大正期の東京もそうだったようですから全国的な話のようです。
空きかんをすべて「ボールガニ」と呼んだようで、カニ(カネ/金 ※金属の意)をつけて形容してしまうのは現在からするとおかしな感じですが、古金属買いはフルガニコーヤーですからいいんでしょう。軽るナービ小(カルナービグヮー)も即物的な名前でわかりやすいです。

護得久和子

1920(大正9)首里生まれ、父今帰仁朝英、母延子。母が神職として奉仕するため12歳の頃から中城御殿に住む。夫は護得久朝剛。

夫婦ともに向家です。
この人は義父・護得久朝章が1956年に設立した沖縄写真店(富士フィルム代理店)に入社します。沖縄写真店(那覇市牧志1丁目345番地)はのち富士写真商会。1970年に本社社屋落成(久米二丁目33番地の1)。1991年には西原に新社屋が落成し沖縄富士フイルム販売になります。
この会社はデジカメの逆風を越えられなかったようです。

富士写真フイルム(本社神奈川県)の特約店として49年営業してきた沖縄富士フイルム販売(本社西原町、護得久朝正社長)が写真、印刷、医療用商品などの営業業務すべてを富士の子会社3社に営業譲渡し、[2005年]11月30日で事業を閉鎖する。
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-7660-storytopic-4.html


牧志にあった店舗は10区9組(昭和33年の広告写真から)ですので現在のOPAの並びあたりになります。
久米の旧社屋はここ。
久米2丁目33番1号 - Google マップ
久米の土地は新垣バスのものであったようで、当時持ち主の新垣さんは浮島通りで旅館を経営していたそうです。

以上すべて「ちからのかぎりに/護得久和子」(1995)からです。
この人は若い頃に尚家の内部で行われる祭祀の近くにはいたのですが加わってはおらず、風景としての描写にとどまります。沖縄のフィルム史、戦前の尚家の様子などに興味のある方向けでしょうか。

戦後すぐの寄宮

戦後すぐの寄宮、参考にしたのは那覇復興地図です。
寄宮(45年)寄宮(47年)
オレンジが荒地、緑が水田、赤が住宅、茶が道で破線になっているところは庭園路です。真和志小は45年から残っていますが省いてあります。
寄宮十字路から知事公舎を越えて与儀公園一帯までは水田の記号がつけられているのですがこれは空撮写真から判断したという那覇復興地図の成り立ちからの違いかもしれません。与儀の暮らしでは「1928(昭和3)年農事試験場建設のときは内地からたくさん人が来た。夫も土地をはかりに行った。サトウキビ畑が広がっていたが農事試験場がみんな取った。あそこは与儀部落の財産だったが強制だった。」という証言があるので畑だったのではないかと思うのですがどうでしょうか。ただしガーブ沿いは湿地でどうにもならなかったという証言もあるのでわからんとこではあります。

まずこの範囲の地形なのですが、右に上間・識名の高台がありなだらかに寄宮十字路付近の低地に下る地形です。オレンジの荒野となっている箇所はほとんどが山裾や丘となっていて右端のオレンジ色でない部分も斜面なので耕作できない場所です。中央の寄宮中学校は周囲から一段高い丘になっています。
戦前相当の真和志民俗地図と47年を比較すると、寄宮中学校前と真和志小学校横の集落が戦前とは違う形での集落になっています。
真和志小学校後方、現在の農協があるところの後ろは碁盤目に近い形で区画があります。これもこの時代の名残なのかもしれません。
那覇寄宮3 - Google マップ

参考:グダグダ 大原区(寄宮)
参考:グダグダ 大石毛
参考:グダグダ 勝良又原(国場)

那覇市復興地図

「那覇市史資料篇 第3巻1」に付属して「那覇市復興地図」というのがあり、その内容は、「1945.12」「1946.2」「1947.5」の地図です。
地図の但し書きには以下のような文言があります。

(1)本地図は、那覇市史資料編第3巻1「戦後の都市建設」の付録である。
(2)内容は、戦後初期の都市形成過程の参考として、1945年12月、1946年2月、1947年5月当時の現況図3枚から成る。
(3)この時期の地図は、過去に正確なものが作成されていなかったため、当時の米軍の航空撮影による写真をもとに、昭和59年に当時の那覇市史編纂室が地図作製専門の㈱沖縄きもとに委託して、縮尺一万分の一の地図に作成した。


なるほど。地図が付属している那覇市史の該当巻はこれです。

資料篇 第3巻1 戦後の都市建設
那覇市保管の行政文書(1945年頃〜1960年頃まで)の中から、市域の拡大、土地問題、都市計画、区画整理、都市の建設の各主題別に収録。

http://www.rekishi-archive.city.naha.okinawa.jp/kankoubutu.html


現在まだ在庫あり、5000円。
戦後すぐの正確な地図なんて他に存在しませんから本と地図三葉でこの値段は大バーゲンじゃないでしょうか。

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