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荒れる繁華街

栄町歓楽街は桜坂より安直に遊べる場所。居酒屋やバーの代金は安い。キャバレーは見当たらず、売春まがいの小料理屋が多い。女給が飲食その他を接待する。当初は旅館だったが、52、3年から売春宿になった旅館も多い。このため栄町内にある婦連や大道小・真和志中の先生方を嘆かせている。
潜伏する強盗・殺人犯を最初に捜査するところは栄町やひめゆり通り・真和志支所通りの屋台店という。屋台は引っ張っていくのではなく、固定した屋台店、安居酒屋である。ここは三日に一件の割で暴力・傷害事件がある。酔客や通行人にたかり、ある夜は通行人にタバコをせびりあけぼの劇場裏に引きずり込んで袋だたき。
栄町は発足した当時、泊にあった輸送部隊カンパン(宿舎)ドライバーのたまり場になり、愚連隊になったものもいた。今でも運転手崩れの8人が縄張り。よそ者の無頼漢は栄町に寄せ付けず、自分たちも他所の縄張りを荒らさない。
戦後の沖縄世相史/比嘉朝進 p80(省略と編集)


上の引用は1958(昭和33)年頃の話です。固定された屋台というのはいわゆるバラック造りだったのでしょう。
53年のあけぼの劇場ができた頃に真和志支所前の通りが繁華街化。50年に開設された栄町は景気の悪化とともに売春街が発生。
それと共に暴力団と愚連隊も入り込んできています。

いまでは少し想像しにくくなっていますが真和志小学校裏から真和志支所前を通ってまっすぐ坂を下る通りは繁華街でした。古いテナントがわずかに残っています。
民謡酒場も何件かありましたが現在は消えてしまいました。
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塩谷清兵衛

塩谷清兵衛
生没年不詳。鹿児島大門口に生まれたといわれるが生没年、寄留時期などは明らかではない。
沖縄における雑貨商の第一号で琉球処分前後の沖縄で活動した。旧藩時代にはすでに薩摩琉球間の貿易に従事していたようで那覇商人の取締役を命じられたこともあるという。首里王家の玉川王子と義兄弟の縁を結び塩谷の姓を給わっている。
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塩谷吉太郎
1884(明治17)年生まれ。
清兵衛の孫。昭和初期には那覇市西本町5丁目で金物商を営む。
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「置県の前後に有名な雑貨商は清兵衛殿であった。清兵衛とは本県に於ける通称であるが、塩谷清兵衛という鹿児島の商人のことで、那覇の西本町の民家の座敷を借り、そこに雑貨をひろげて売出したものだが(略) 沖縄県政50年/太田朝敷」
近代沖縄の寄留商人より抜粋



明治17年に孫が生まれているということは廃藩置県当時でもご年配ということですね。孫は西町で金物店を営んでいますから塩谷さんは沖縄に定着したんでしょう。
琉球人事興信録(1950)の目次には塩谷栄二さんという名前も見えますが関係あるのかどうかはわかりません。

清兵衛(シイベー)の名前はシイベードン(清兵衛殿)としても有名です。

シイベェードン(清兵衛)は鉄製品(金物類)とともにヤンジン(洋銀=ニッケル)を取り扱っていたが、その洋銀のことをいつしかシイベーといい、銀かんざしの代用に洋銀で作ったかんざしが安いことから「シイベー・ジィファー」といった。
那覇市史資料編第二巻中の7 p296

鮫島武八郎

鮫島武八郎(さめじま ぶはちろう)
生没年不詳、雑穀・材木商。1887(明治20)年頃には寄留商人の中でも有力な米穀商として知られていたことから琉球処分前にはすでに寄留していたと見られる。
 鮫島武八郎氏は那覇区字西69番地に久しき以前より商店を開き、雑穀並に材木類を販売し居りしが、近頃に至り、同氏は鹿児島なる本店を管理し、那覇の支店は前田英次郎氏が管理し居ると云ふ(明治33年 琉球新報)」
---
 前田英次郎氏は同区字西69番地に商店を開き居りしが、同商店は鮫島氏の支店にして、商業は重に穀物並に砂糖の売買をなし居れり(明治33年 琉球新報)」
1900(明治33)年頃には那覇の支店を前田英次郎に管理させ、武八郎自身は鹿児島の本店にひきあげたものと思われる。
没年不詳。
近代沖縄の寄留商人 (抜粋、編集)


この人も内地の本店と沖縄の支店がある商人ですね。明治5年の琉球処分以前には寄留していたというのはかなり早いです。
鹿児島生まれかどうかは書いてないのですが、鹿児島に本店のある商店の那覇支店長ですから鹿児島系ということでいいんでしょう。

大嶺柳吉(大峰/大峯)

※大嶺・大峰・大峯で表記の揺れがあるようです
参考:グダグダ(β) 西ノ海地先海面埋立の書類/大峯柳吉

大嶺柳吉
1863(文久3)年、宮崎県都城生。1887(明治20)年頃寄留し生茶の販売に従事しながら砂糖商としても活躍する。1897(明治32)年頃には沖縄糖業界を左右するほどの実力を実力を持つ。
[○に正] 大嶺柳吉氏の商店は同(那覇)区字西17番地にして商業は重に穀物・茶・砂糖の売買をなし居れり。同商店は宮崎県黒岩商会の支店にして大嶺柳吉氏は目下共同汽船会社の取締役たり(明治33年 琉球新報)」
1910(明治43)年には沖縄電気株式会社の創立に尽力、専務取締役、ついで社長となる。
1904(明治37)年、1907年那覇区会議員、1921(大正10)年那覇市市会議員。
昭和期にはサイパン島へ進出、酒造業に従事し、在サイパン島沖縄県人会会長。
没年不詳。
近代沖縄の寄留商人より抜粋


数少ない鹿児島出身以外の商人です。大きな商店の例にもれず、この人も内地と沖縄の間で儲けた人ですね。
寄留商人がやった大事業である電気会社にもかかわり市会議員も務めてますから代表的寄留商人といっていいんではないかと思います。

栄町の出現

「戦後の沖縄世相史」から引用します。この本は戦後の新聞記事などをまとめたんだと思いますが犯罪などの暗黒面も含めて書いてあります。

米軍のゴミ置き場だったのを49年4月末に開放されたので、区画し真和志の商業地域にしようと翁長[助静]村長は尽力した。
50年2月に栄町公設市場を開設。トタンぶきで72室あるが、6月に数店を数える程度。
市場の東側は料亭街となり、12月までには四つ竹・よかろう・八千代・だるま亭・一楽など20軒が建ち、宴会は引きも切らず、三線太鼓の音が外に流れた。同年1月11日に再建された沖縄劇場で大伸座がふた明けした。この年、料亭街の東角に沖縄婦連会館が建った。
玉突き屋・ビンゴ屋・マージャン屋ができ、純旅館が十数軒あるが、中には泊まり客でない飲食の接客をする旅館もある。飲み屋が十数件に増え大道通りに商店が並び、栄町中央通りに大丸百貨店が建ち、市場にも入店が増加した。
50年、はや栄町に暴力団が横行。栄町は7月自警団を結成し、有給の自警員4人を置いた。
52年に入ると、芝居(沖縄劇場)の不振と不景気で客足がとだえ料亭・旅館・商店の転廃業が続出。その結果特飲街に変貌し売春宿が約百軒、娼婦が数人玄関口に座っている。飲み屋も百軒余。踊り子を抱えた数件の料亭は賑やかだ。
戦後の沖縄世相史/比嘉朝進 p46、47(省略と編集)

栄町

旧那覇の開放がまだですから辻からの人間も栄町にきたようです。
昭和中期のゼンリン地図をみると大道小学校そばあたりには料亭らしき名前、現在の繁華街にはバーなど、モノレール安里駅あたりの下側にもバー街は広がっています。

現代に一番近い時期だと現在の栄町リウボウはバスの駐車場、銀行辺りはホームセンターのサンキューが元ボウリング場の建物のまま営業していました。このボウリング場が沖縄劇場跡です。
51年あたりの地図だと琉球新報も栄町近くにあります。

時を同じくして沖縄劇場が、劇場〜映画館〜ボーリング場〜ダンスホール〜百貨店並の店舗へと変わる。
http://www.sakaemachi-ichiba.net/about_sakaemachi.html


このあたりには小さなヤクザの事務所がありますがこの時代の名残なのかもしれません。あまりおおっぴらには語られませんが、本島出身ではない暴れ者たちが暴れまくった時期でもあって、特定の島出身者を嫌う人間はこの時代を経験していることが理由になっていたりします。

仲井真の原名

仲井真の原名をまとめていませんでした。西に国場、東・東北方向に上間部落がありその中間と国場川の川向こうが仲井真です(ピンク色の範囲)。
山川原・淵下原・東原
メインの集落は仲井真原と前原です。前原あたりは古島原と呼ばれていて古いシマであった可能性もあると思います。
関連:グダグダ 仲井真原・前原(仲井真)
仲井真原
川を渡った南側、東オフリ原、西オフリ原、伊地堂原、上田原は仲井真です。

ゆたか屋

山里永吉の奥方のカッちゃんの家がユタカそば屋で、私の家のタンカー(向かい)でやっていたよ。そこのそばは、シシ(肉)や蒲鉾をさいの目に切って上にのせていましたよ。灰からあく水をすくってそばを打っていましたね。私は面白くて、さくさく切ってゆでるまで見入っていましたよ。ユタカそば屋のあとは、ウシンマーそばといって、ウシンマーというジュリ上りがやっていたそば屋で、これが私の家のうしろにありましたよ。
沖縄を語る 金城芳子対談集 p112



金城芳子さんの実家は辻町1丁目の端道(ピンク)です。図は船越義彰さんの「戦争・辻・若者たち」という小説の裏表紙にあった辻周辺の地図から井筒屋とゆたか屋、「沖縄そば むかし地図」からウシンマーそばの位置を書き込みました。

沖縄そば むかし地図
http://www.geocities.co.jp/kikuuj/zatugaku/soba/soba.htm

三越ハイカラー

金城芳子 ウンジュナーは三字の新嘉喜で、美登子の新垣とはちがって、お家柄がいいそうですよ。また“三越ハイカラー”ともいわれていましたね。いつも美しくて私たちのあこがれ。山脇短大もお出になったし、いまでも何不足ないですものね。
新嘉喜貴美 私はね、ジンブンがないから優しいだけが取り柄。うちの父は税官長だったから、ヤマトゥからいろんなものがきたよ。税官は支那や台湾から船が入るときだけいそがしい。本部が長崎にあって、年に2、3回は出張していた。久場の実家は男の児がいないので、妹のカナーと二人はとてもかわいがられて、ぜいたくさせてくれた。瀬長とも親戚だから三越とは仲良し。だから沖縄にも三越ができたんでしょう。
芳子 瀬長の佳奈先生は私の女学校のときの先生で、東京の県人会やら、在東京沖縄婦人の会(曙会)の会長。
沖縄を語る 金城芳子対談集 p112


新嘉喜貴美さんは前にとりあげました。
関連:新嘉喜倫篤・新嘉喜貴美
1895(明治28)年〜1995(平成7)年。
西本町生まれ、菓子屋(屋号スーヤーデーク)、父景述(税官長)母マカメ。1915(大正4)年結婚、旧姓久場。

関連:グダグダ 新しい女たち
富原初子(1888-1974)明治21年生まれ
真栄田冬子(1897-1975)明治30年生まれ
玉城オト(1897-1993)明治30年生まれ
金城芳子(1901-1991)明治34年生まれ
新垣美登子(1901-1996)明治34年生まれ


三越には瀬長さんというお偉いさんがいました。

瀬長良直
1892(明治25)年〜1977(昭和52)年 
実業家。那覇市首里汀良町生まれ。三越百貨店常務、二幸専務を経て相談役。沖縄協会理事、沖縄振興開発審議会委員などを務める。

http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-41880-storytopic-121.html


オチはないですが人のつながりは見えてくるかと。

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