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食紅と麹

明治〜大正期の食品説明で、赤く染めるのに紅麹を使ったという記述と食紅を使ったという記述が両方現れます。

二色カマボコは赤、青に染め、赤は「紅コージ」、青は島菜や大根の葉の青汁を利用した。
那覇市史資料編第二巻中の7 p198


島菜(シマナー)はカラシナーです。カラシナーに塩をふると水が緑に染まりますからね。
あと葉野菜の絞り汁を飲む風習もあったそうですから青汁も身近だったのかもしれません。

千原繁子さんは戦後も紅麹を自宅で保存していたようです。戦前の家庭では味噌類自作していたところも多いはずなので麹類の扱いも慣れてたんでしょう。
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タバコ

明治36年頃、那覇の才の神近くの小湾のアンマーという人がタバコを売っていた。4尺長さの台の上に刻みタバコをのせ、客がくるとリンゴ大にまるめて、茶紙に包んで2銭で売っていた。タバコは男女を問わずのまれていたが、ほとんどきざみタバコをタバコ盆の引き出しに保存し、使う分はフージョー(布袋)に入れた。客が来ると、きせるを袖口で吹いて廻しのみをした。また東町にタバクチリ伊良波という人がいたが、タバコの葉を切る仕事をしていたのであろう。若狭町の百姓は自作のタバコ葉を密かにきざんでのんでいた。葉タバコを吸うのは表つきの下駄をはく富裕階級の人たちであった。巻きたばこは敷島が有名であった。
首里の御殿内では、婦人の喫煙は一種のたしなみとされ、嫁入り道具にタバコ盆を持参したという。
那覇市史資料編第二巻中の7 p198


紙巻きたばこ以前はどこでもそうだったはずですがキセルでの喫煙ですね。
個人的には紙巻きでの喫煙はどれだけ吸うかという区切りが長過ぎるためキセルのように2、3口で終わらない分下品な感じがします。
関連:グダグダ 自家製たばこ

あと関係ないのですが今帰仁方言の発音に(今更)驚きました。音声も聞けるのできいてみて欲しいですがここまで違ったら意思疎通も難しいですよ。

パータバーク /paatabaau/
(名詞)意味:葉たばこ。刻んで包まれてないたばこ。乾燥したたばこの葉。

http://ryukyu-lang.lib.u-ryukyu.ac.jp/nkjn/details.php?ID=NK37117

大茎種

いずれにしても、サトウキビの畑を見るたび、わたしが思い出すのは、その汁がとても甘かったことである。
わたしがコドモだったころに栽培されていたのは、今の品種とは異なっていて、大茎種といわれていた。今は白い穂の出るのが成熟したしるしだそうだが、あのころは白い穂が出たら、茎は水気を失っていたのである。したがって白い穂の波を見ることはなかった。
---
昔の大茎種はやわらかくておいしかったけど、いまの白い穂が出る品種はどうだろう?と郷里にいる友人に尋ねると、堅いのなんの、あれは機械で絞るほかないっという答えが返ってきた。
糖度はきわめて高いそうだのに、キビを噛む楽しみは、思い出の中へ去ったのである。
料理沖縄物語/古波蔵保好 p40〜44 (抜粋と省略)


都市部では盆の時期に飾るくらいしかサトウキビにも触れませんね。
しかし昔の人間がサトウキビをかじっていたという謎がやっと解けました(笑)。今の品種では無理なんですね。
製糖は冬がシーズンなのでお盆用に大茎種を作って売ったらいいのに。

保存食としての「らふてえ」

市場の肉売り場に出ている豚の皮付き肉は、もう黒い毛のほとんどを除かれて、表皮がきれいになっているものの、やはり毛根が残っている。皮を火で焙るのは。毛根を除くためで、母は皮が軽く焦げると、井戸端に持っていき、包丁で表皮をけずった。毛根がすっかり除かれるまでの念入りな仕事だったのである。
あと丁寧に洗ってから、角切りにして、鍋に入れ、かまどの火にかけた。火は強くしないで時間をかける。そのうちに、皮と肉の間にあるあぶら身からあぶらが溶け出して、やがてあぶらのなかで肉が煮られているという状態になった。
ころあいをみて、石ころのように堅い氷砂糖を入れる。氷砂糖がだんだん溶けるにつれて、甘みが肉に浸透していく。ふつうの粉砂糖だと、いっぺんに溶けるので、甘みが肉にしみていかない、と母は語っていた。さらにゆっくりと煮て醤油で味付けする。
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夕飯のおかずにする分だけ、できたての「らふてえ」を取ったあと、鍋は薪棚の下にぶらさげておかれたのだが、だんだん冷えてくると、鍋いっぱい真白くなる。
真白いあぶらの中に閉じこめられた「らふてえ」は腐るということがなかった。使うときは、あぶらの中から掘り出すのである。つまみ出したのを暖めておかずにすることもあったし、薄く切って、ほうれん草とともに炒める等、「らふてえ」があるうちの食事はたいへん楽しいものだった。
料理沖縄物語/古波蔵保好 p113、114 (省略と抜粋)


ラフテー(以下らふてえ)の保存食的側面が現れています。
料理沖縄物語のこの項目の後半には妹である古波蔵登美さん経営の料亭美栄での「らふてえ」が母親の作り方ではなくオリジナルの側面があることを述べており、最後は「妹の『らふてえ』がいつしかひろまって、近頃は「美栄」風を昔ながらの『らふてえ』と思っている人が多い」と締められています。

古波蔵さんたちの母親の作り方も氷砂糖をつかうとこから察すれば個人の工夫によるものだと思われます。この辺伝統と現在の形などには注意をはらっておきたいもんです。
ですが伝統製法が記録・保存されていればあとはおいしい方の勝ちです(笑)。

ぶくぶくー周辺

ぶくぶく茶(以下ぶくぶくー)の復活にも那覇の暮らしが見えます。

ブクブク茶は,かつて日本各地に分布していた振茶の一種である。振茶とは,茶碗・桶・木鉢などに番茶等を汲みいれ,茶筅を振ることによって,茶を泡立てて飲む習俗である 。琉球における振茶の習俗については,1757年土佐に漂着した琉球船からの聞き書きである『大島筆記』に「年配の婦人は煎茶を振りて飲む事,日本田舎の如し。」(『大島筆記』人物風俗)とみえる 。また明治前半の首里方言を収める『南島八重垣』には,「ブクブクーヂャー」として,「泡茶也。昔は盛んに行はれたるよしなれども,今は稀也。とある 。」
このことから,近世後半期にはブクブク茶が飲まれていたと考えられる。伊波普猷,東恩納寛惇によると,ブクブク茶は那覇の習俗と記すが ,『南島八重垣』の記述から首里においても広く行われていた可能性が高い。さらに,伊計島や宮城島において見送りの歌として「ぶくぶくの御茶や旅の嘉利吉なむん 立てて廻らしばにおけるブクブク茶やそれに連なる振茶の習俗は,首里・那覇にとどまらない範囲にも広まっていたことが推測される。
CiNii 論文 - 沖縄における茶文化調査の概要と今後の課題


ぶくぶくーの由来は不明ですがかつては各地にあったものということでしょうか。

ブクブク茶は,第二次世界大戦後に習俗としては一度途絶えた。昭和30年代,復元に着手したのが新島正子氏である。その後,安次富順子氏とともに研究を重ね,明治,大正,昭和初期に那覇で飲まれていたブクブク茶が昭和50年代に復元された。1992(平成 4 )年には,新島・安次富両氏の関わる沖縄伝統ブクブクー茶保存会が発足している。

ブクブク茶は那覇以外で確かに飲んでいた話を聞かなかったという。首里でも飲んでいた話もあることにはあるが,首里では飲んではいなかったという話も収集され,事実は定かではないとする。伊計島,宮城島には先述の歌が残るのみであった。また,ブクブク茶は戦後もわずかに那覇の布市場で行商人(ぶくぶくたちぃやー)が売り歩き,予約制で販売されていたという。日常生活のなかでは比較的贅沢品との認識があり,野菜市場では売らず,布市場などの売買単価の高い市場で売られていたとのことである。家庭でもブクブク茶を点てて飲んでいたのは,那覇の名家と言われるところであった。
これらの聞き取り調査の内容からは,ブクブク茶は生活に余裕のある層の人々が主に飲んでいたことがうかがえる。

また,ブクブク茶を点てる道具であるブクブクー皿と茶筅も,安次富氏らにブクブク茶について助言していた新嘉喜貴美氏のもとに残っていたものから復元された。
CiNii 論文 - 沖縄における茶文化調査の概要と今後の課題


最後に金城芳子さんと新島正子さんの対談から抜粋します。

芳子 伊波普猷先生のところなどが、いわゆる本当のナーファ料理であったんです。私は、あとから伊波先生の所に出入りするでしょ。ほれ、あんたがたいへん苦労して再現した“ブクブク茶”ね、あれも伊波先生のところのカーの水が一番適しているということで、毎日のように飲んでいましたよ。近所の人も伊波の水をもらいに来ていました。あんたのこの間のブクブクは完全にあのときのままでした。
新島 私は首里の生まれでしてね。ブクブク茶のことをよく知らないままに大人になってしまって、料理の仕事をやるようになってから、ああこれではいけない、今のうちに昔通りのブクブク茶を再現しなくては、ということで、手探りの状態でいろいろ試みてきたわけです。この間、一番よくご存知の芳子先生に見て頂いて、本当に安心致しました。
芳子 辻ではブクブクはやらなかったですよ、あれは、西の名門の新嘉喜の奥さんなどがやってましたね。
沖縄を語る 金城芳子対談集 p127、128


ぶくぶく売りでは首里生まれで安里育ちの古波蔵保好さんの証言をとりあげましたが、首里生まれの新島正子さんにも馴染みのない風習であったようですので、これは那覇人のみの風習といっていいんではないでしょうか。
まぁ作り方見ると悠長なものなので「えーきんちゅ」しかできなかっただろうなとは思います。

ぶくぶく売り

料理沖縄物語に東町市場でぶくぶくを売るようすがあったので引用します。

このおかみさんたちが、お茶を欲しくなるころ、物売りの娘が現れる。手にさげているおかもちに入っているのは、ご飯茶碗くらいの器に高々と盛りあげた白い泡であった。あれはなんだろう、と那覇人でないわたしが見たこともない売り物に興味を感じ、市場を通り抜けようとしていた足を、しばらく止めて、様子を眺めていると、おかみさんの一人が、一碗を買い求め、おもむろに泡をなめだしたのである。
つづいて、あっちでもこっちでも、おかみさんたちが娘を呼び寄せ、たちまちおかもちはカラになった。
泡が売り物になるとは面白いと思い、知合いの那覇人に訪ねると、「ぶくぶく」というものだ、と教えられた。
料理沖縄物語/古波蔵保好 p225、226


この本は1983年発行で、この項目の最後は「今は、昔の名手から習った婦人の2、3人がいるだけで、このお手前の風習は泡と消えた」と締められていますが復活しています。
このぶくぶくは硬水を必要とし、西町でも一部の井戸が適しているだけだったのでその井戸にはぶくぶく用の水を求める人が訪れました。その適した井戸の一つが伊波普猷の実家であったそうです。
参考:グダグダ 伊波普猷生家跡・クバチカサ

ちなみに新嘉喜家は伊波家の隣近所(西本町4丁目)だったそうです。
参考:グダグダ 新嘉喜倫篤・新嘉喜貴美

山羊刺

獣の生肉食というタイムリー(?)な話です。ひーじゃーの刺身があらわれたのは戦後である、というのを人から聞いたことがあったのですが証拠となるような文献は読んだことがありませんでした。

そして昔は話に聞いたこともなかった山羊肉の刺身まで、いつの間にか現れ、一方山羊のキンタマを山羊料理の高級品として食べさせる店もあるとか。食べた人にきくと、ナマのまま薄切りにしてあり、ケッコウな風味だというのである。
料理沖縄物語/古波蔵保好 p211


これが証拠になるわけではありませんが、少なくとも古波蔵さんの世代ではポピュラーなものではなかったということですね。
考えてみれば冷凍して流通することが可能になったのと衛生的に解体できるようになったのはさほど昔ではないはずで、戦前に刺身として流通するのは難しかったでしょう。それと戦後の内地での焼き肉文化の流入というか、肉の生食文化の流入も関係あるのかもしれません。

年寄りに言わせると飼料で育てたものより草で育てたひーじゃーのほうがおいしいそうです。

みき・あまがし・げんまい

それぞれ違うものではあります。

みき
水を含んだうるち米を砕き、煮て麦芽を加え、冷まして濾す。
http://www.mikiya-okinawa.com/dekirumade.html
鹿児島県、沖縄県には「みき」と呼ばれる米を原料とした独特の飲料が伝えられており、清涼飲料としても市販されている。これは砕いた米に砂糖を加えて自然発酵させたものである。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E9%85%92#.E3.81.9D.E3.81.AE.E4.BB.96


あまがし
押し麦は一晩、緑豆は2時間くらい水につけておき、鍋で20分ほど煮込む。好みによって白玉を入れてもよい。また、古くは麦の粥に米麹を入れて二、三日発酵させるやり方であった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%82%E3%81%BE%E3%81%8C%E3%81%97


げんまい
玄米を臼で挽き黒糖や生姜で風味付けして作っていた飲み物
http://www.ryukyuyakuzen.com/shopping/html/product2.html


水に浸した穀物を砕いて味を整えた飲み物というのが共通してますね。
古波蔵保好さんの本にあまがしについて触れている部分がありますので引用します。

首里の旧家で育った人の話によると、「あまがし」とは大麦を臼でついて割り、水タップリの粥に炊いてから青こうじをいれて、一晩発酵させたもののことだったそうである。
いわば大麦の粥で、酸味のある飲み物だ。碗にとって、すする前に、少しの砂糖を加えて、味を整えたらしい。(略)
いつのころからか、そういう「あまがし」は忘れられて、わたしの家でつくったのは、もやしの材料にも使われる青い豆「ささげ」といわれる豆と大豆を煮て、黒砂糖の甘さを加えたものであった。
現在、「あまがし」といわれているのは、すべてこの大麦と青豆による甘い汁である。
料理沖縄物語/古波蔵保好 p92(一部編集)


手作り可能であると思うんですが、今の家庭で発酵を伴う食物の手作りはできないでしょうね。痛み豆腐の「るくじゅう」もそうなんですが、発酵による酸味を“危ない味・危険信号”としてしか現代の家庭は捉えられないでしょう。
オチはありません。

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