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庶民とフクミン

千原繁子さんが辻で売っていた天ぷらのことを書いています。

天ぷらとかフクミンなどは、普段、庶民の暮らしには縁のない食べ物だった。さつま芋やニラの精進揚げのたぐいも家族の年日(トゥシビー)、出船祝い、または尊敬する身内がたまに着た時ぐらいにおごった時代だった。盆や清明祭、年忌祭の時は大盤振る舞いで、女子供はおおっぴらに楽しんで食べたものである。
---
私が辻端道の宇良てんぷらを買いに走ったのはほとんど日暮れてからである。
下の芝居(沖縄座)の札売場の手前で、3畳のところにおばあさんがドッカと座ってその前にミージョーキーがあり、2坪の上間には、その娘らしい中年の女が四枚鍋で長い天ぷらを揚げては、おばあさんの前に放り込む。八つ切りの新聞紙にグルグル巻いて買い手に手渡す。私が行くたびに必ず2、3人客が立ちはだかっていた。
カルテの余白/千原繁子 p94(省略と編集)


普段の食事には食べないが、行事や接待などでは出していたという事ですね。といっても沖縄では行事ごとは結構ありますから年に何度か口にする機会はあったのでしょう。
気になるのは天ぷらとフクミンを区別しているとこです。これは内地風と沖縄で昔から作っていた形式を区別しているのでしょうか。

フクミン /hukumiN/
(名詞)意味:料理名。てんぷらのこと。ヤーシェーフクミン 'jaaseehukumiN (野菜てんぷら)、イユフクミン ijuhukumiN (魚てんぷら)などがある。戦前はてんぷらのことを、フクミンといっていた。

http://ryukyu-lang.lib.u-ryukyu.ac.jp/srnh/details.php?ID=SN51526


戦前でも野菜天ぷらや魚天ぷらはあるわけです。辻の劇場そばで売っていた天ぷらは魚天ぷらでしょうか。
下記リンクを読んだらよくわからなくなりました。

http://www.lequio.co.jp/investigator/investigator_new060727.html

困った時の那覇市史資料編(笑)。

揚げ物は日持ちがよいので、暑い沖縄向きの料理である。魚の天ぷら野菜の天ぷらは行事料理になくてはならない料理である。どの家でも必ず揚げ油がおかれていた。沖縄の揚げ物は、魚や野菜に塩などで下味をつけ、衣にも塩味をつけて濃いめの衣をつけて揚げるので、天つゆなしでも食べられる。
那覇市史資料編第二巻中の7 p194


レキオで言っているのは現在の天ぷらのバリエーション、らっきょうやイカや野菜などの今の形が生まれたのは戦後だということでしょうか。
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フクミン・天ぷら

まず「天ぷら」という言葉の語源。

天ぷらの語源については諸説あるが、いずれも南蛮渡来の語としている。 おもに語形からの類推によって、
* ポルトガル語の temperar (略)
* ポルトガル語 temporas (略)
* ポルトガル語またはスペイン語の templo (略)
などから転じたとする。
てんぷらの語源は、キリスト教の宗教用語で四旬節のことを「クアトロ・テンプラシ」と言い、(略)転じて魚の揚げ物料理のことを「てんぷら」と呼ぶようになったこと、とも言われている。
天ぷら - Wikipedia


Wikipediaの天ぷらの項目は結構長くて、ルーツと思われる物についても多数述べられています。
ならウチナーグチで「フクミン」と呼ばれるものはなんなのか。

フクミン /hukumiN/
(名詞)意味:料理名。てんぷらのこと。ヤーシェーフクミン 'jaaseehukumiN (野菜てんぷら)、イユフクミン ijuhukumiN (魚てんぷら)などがある。戦前はてんぷらのことを、フクミンといっていた。

http://ryukyu-lang.lib.u-ryukyu.ac.jp/srnh/details.php?ID=SN51526


フクミンはどうも「含むもの」のようです(書いてませんが)。天ぷらの呼び名であると同時に天ぷらの中身を指す言葉でもあったようです。

フクミン /hukumiN/
(名詞)意味:てんぷらの中身。てんぷらのたね具。

http://ryukyu-lang.lib.u-ryukyu.ac.jp/srnh/details.php?ID=SN31444


この項目の素晴らしいのは、
「今日の てんぷらの 具は 何だ」という文の方言での発音があり、
「チューヌ ティンプラヌ フクミノー ヌーヤガ」という発音が聴けるとこです。
「フクミノー」は「含むものは」なんだろうなと愚考しますが外れてもないんじゃないかと。
是非発音を聴いて頂きたい。

劇場の初め

1947(昭和22)年には劇場ができはじめます。

住宅復興を優先する民政府は、劇場建築を認めなかった。が、四囲の要望が強く、しぶしぶ認めた。3月に露天の中央劇場(松尾)ができ、7月に露天の大洋劇場(神里原)、屋根付きの沖縄劇場(栄町)が開業。テント張りのアニーパイル国際劇場(牧志)は12月6日、初の楽団・南の星が開演。バンド付き歌謡曲は若者に好評だった。
戦後の沖縄世相史 p28


中央劇場は現在の開南分岐点から浮島通りへ出る途中にあった。経営者は仲井眞元楷氏であった。露天劇場であることは当時の常だが観客席が変わっていた。丘のスロープを利用した観客席で舞台を見下す格好になっていた。闘牛場のような劇場であった。
狂った季節/船越義彰 p222


神里原の大洋劇場はここを。そのほか沖縄劇場は栄町のバイパス沿い、アニーパイル劇場は元国際ショッピングセンター(現在のテンブス)です。
※各劇場については上の検索窓から調べて下さい

関連:グダグダ 新栄通りのなりたち

那覇の片倉製糸

まず那覇にあった「製糸工場 新あやべ」と真和志村安里の片倉製糸です。
安里川が那覇・真和志の境界になっていて、安里は真和志村です。
牧志の牛乳屋

真和志民俗地図では単に「片倉製糸敷地」となっていますが、「戦前の昭和初期牧志町民俗地図」では「片倉製糸 桑畑 (灰焼ガマ 大正年間)」となっています。
片倉製糸では「片倉製糸の蚕種生産体制の構築 〜一代交配蚕種普及団を中心に〜/髙梨 健司」という論文を紹介しましたが、この中から那覇での片倉製糸の活動を抜出してみます。

1926(大正15)年5月5日に沖縄県那覇市郊外に片倉普及団那覇出張所を開設する。那覇出張所は、1938(昭和13)年11月12日に沖縄蚕種製造所として改称・独立する。
沖縄蚕種製造所とは別に、片倉蚕業研究所所轄の沖縄出張所(沖縄県島尻郡真和志村安里 217の1)が同地に所在する(後略)

1926(大正15)年11月8日開催の片倉取締役会において、「沖縄県蚕種製造試験場」設置に関する案件を審議する。(中略) 既に片倉鳥栖製糸所は、沖縄に将来の製糸工場建設構想の下に那覇市郊外に1万坪余の土地を購入し、一先ず乾燥場を設けて原料繭蒐集にあたっており、この乾燥場敷地内に片倉普及団那覇出張所の試験研究施設と原蚕種製造用に桑園3千坪の設置を計画したのであろう。

1927(昭和2)年11月の片倉取締役会において、那覇市内の元教会所を蚕種製造建物として買入の案件について審議しており、内容は敷地1800坪、建物90坪、石垣180間、外に天水溜設備と建物1棟を含むものであった。この審議結果は明らかではないが、結局製糸工場建設構想を断念し、片倉鳥栖製糸所所管の那覇出張所を片倉普及団が引継ぐことで蚕種製造建物については決着をみたのであろう。

その後、1930(昭和6)年9月28日と1934(昭和9)年12月28日に、片倉普及団那覇出張所の増改築工事及び沖縄試験蚕室新設の案件が片倉取締役会において審議されている。この2案件の前者に関しては審議結果は不明であるが、後者に関しては承認されている。


論文は片倉製糸の全国的な展開を扱っていて、その中での一つとして沖縄での例があります。
とりあえず「片倉蚕業研究所所轄の沖縄出張所(沖縄県島尻郡真和志村安里 217の1)」というのが牧志ウガン近くの敷地である事は間違いないと思います。
真和志民俗地図では松川二又原には養蚕試験場というのがありますが、これがどのような団体がやっている養蚕試験場なのかはまだ調べていません。
参考:沖縄県那覇市松川2丁目3‐5 - Google マップ
参考:グダグダ 二又原(松川)

今回はここまでということで。

片倉製糸

真和志民俗地図には牧志ウガンの川向こうが「片倉製糸敷地」、那覇民俗地図では現在の壷屋小学校が「製糸工場 新あやべ」となっています。安里川が境界です。
牧志の牛乳屋

これよくわからなかったんですが、沖縄での片倉製糸について触れている文章を見つけました。

片倉製糸の蚕種生産体制の構築 〜一代交配蚕種普及団を中心に〜
髙梨 健司


読むにはまず専修大学のサイト。
http://www.senshu-u.ac.jp/~off1009/nenppo.html
から「社会科学年報 第44号 2010」まで移動すればpdfで読めます。那覇出張所に関する部分は5、6ページ。

改行がされてないのでブラウザによっては読みにくいと思いますが自分用に文字起こしもしてみました。内容については別項でまとめます。
ダウンロード(txt)

水上店舗(波の上)

波之上の水上店舗です。写真はImages of Okinawa after World War IIから。
水上店舗(波の上)
http://digicoll.manoa.hawaii.edu/okinawa/Pages/viewtext.php?s=browse&tid=177&route=browseby.php&start=32&city=Naha&by=city&s=browse

若狭一帯がなにもない更地になっているのがわかります。写真で後方に見える若狭小学校は雪の崎で、そばには上ノ毛があったはずですがあとかたもありません。

店舗の部分をアップにすると砂浜ではなくゴツゴツした岩の磯であるのがわかります。現在の波の上宮を挟んだ反対側の海岸線と同じです。建物は簡易建築のバラックですね。
水上店舗(波の上)

71年の波之上はこんな感じです。

この水上店舗は違法建築で何度も火事を起こしていましたが、復帰後の火事の後は再建されず、店があった辺りは埋め立てられて公園になりました。
現在からは考えにくいですが復帰前は小禄に那覇基地があり、辻や波の上は米兵が出入りする繁華街だったのです。

関連:グダグダ(β) 波之上水上店舗の撤去

銘苅の道筋

那覇新都心物語の図から作成した銘苅部落周辺の道のいい加減な図です。大きめで周囲の部落に通じる道()を書きました。
実線が自信あり、破線がいまいち、点線がよくわからん、と考えて頂ければと。黒の実線は線路、青い点は井泉です。

ピンクは銘苅部落ですが中心的に集中している箇所のみ描いてあり、他にも住居は道沿いなどに小規模の集まりか単独の住居がつかず離れずで点在する形になっています。
銘苅を流れる川は下のリンクを参照して下さい。
参考:グダグダ 真嘉比の暗渠

周辺は天久、銘苅、安謝の部落があります。天久は現在の新都心入り口あたりで下のリンクで紹介したようになっています。
参考:グダグダ 天久の屋取 2
参考:グダグダ 天久村の御嶽

真嘉比部落は真嘉比小学校北方、再開発が行われる前の集落の区域とほぼ同じです。
参考:グダグダ シュガーローフ

安謝も現在の場所とあまり変わりません。
参考:グダグダ 安謝の原名(西側)

現在との大きな違いはバイパス(330号線)がなく環状二号線も存在しないことでしょうか。58号線の原型はありますがこの二つがないと北と東へのアクセスは大分様相が異なって来ます。

ブクブク皿

ブクブク茶の復活に助力された新嘉喜貴美さんのブクブク皿を巡る話です。

戦前、[東恩納寛惇は]東南アジア旅行のお帰りに私の家に4、5日泊まられた。(略)東京へお帰りのお土産に、黄色ハチマキ(位によって色分けされた冠物)とブクブク皿と茶せんを差し上げた。
戦後の昭和33年(1958)夏、上京して[東恩納寛惇]先生のお宅へ伺ったら、玄関の飾り棚にハチマキとブクブク皿が飾られてあった。なつかしい思い出の品であった。
無一物になった当時である。先生は「ブクブク皿は返すから、沖縄へ持ってゆきなさい」とおっしゃった。私は「ありがとうございます」とお礼を言って、その品をうれしく頂いた。「お礼にブクブク作ってごちそうします」と申し上げ、高嶺夫人の経営する花風という、新宿の料理店へお客をお招きした。
客人は伊江朝助さん、東恩名夫妻、瀬長義直夫妻、高嶺明達夫妻、金城清松夫妻、国場幸太郎夫人であった。水道水を使用したので心配したが、思いがけないほど上等の泡のブクブクに、皆様よろこんでいただき楽しい思い出となった。
持ち帰ったブクブク皿で、友人12、3名集まり、家の庭でブクブクを飲んで月夜に遊んだ。久方ぶりのブクブクとのごちそうはアギソーミンと揚豆腐であった。
かざぐるま/新嘉喜貴美 p79〜81(省略と抜粋)


東京の東恩納寛惇宅に避難したおかげでブクブク皿が無事だったということですね。
しかし凄いメンツが集まるもんです。

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