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大正年間の宮古島平良における商店

「沖縄の都市空間/堂前亮平」の113ページ表からデータを抜き出しました。通り別に分けられていたものを出身地別に並べ替えてあります。
データは<店名・屋号|経営者出身地|主な扱い商品>の順です。また元表中にあった宮古出身者の店舗は除きました。

有銘|那覇|日用雑貨、小間物
上原|那覇|雑貨、後に砂糖委託販売業
上原|那覇|雑貨
大見謝本店|那覇|呉服
大見謝分店|那覇|呉服
嘉手納|那覇|小間物
神元|那覇|塩・専売
金城(カニマッチャ)|那覇|雑貨
金城(カニマルトー)|那覇|雑貨
金城(カニツ)|那覇|雑貨
慶留間|那覇|コンニャク、藍染め
瀬名波|那覇|新聞
忠金物店(ヤマチュー)|那覇|金物
平良真宜|那覇|呉服
名城|那覇|雑貨
名渡山|那覇|雑貨、上布の原料糸、みそ・しょうゆ
野村酒造|那覇|酒
堀川|那覇|履物
宮里(カニサーイチ)|那覇|金物、雑貨、穀物
宮里(ヤマコ)|那覇|日用雑貨、上布の仲介業、石油、カツオ節
山里(カネリー)|那覇|雑貨、茶の卸業

伊良波|沖縄本島|呉服
亀浜|沖縄本島|雑貨
金城|沖縄本島|呉服
源河|沖縄本島|雑貨
城間|西原|文具、印刷
渡嘉敷|沖縄本島|雑貨
當間本店|沖縄本島|呉服
根路銘|沖縄本島|雑貨
宮城|沖縄本島|駄菓子
ミーカーヤー|沖縄本島|雑貨
ミーガマ金城|沖縄本島|呉服
山川|沖縄本島|雑貨

松元|鹿児島|宮古上布の買継ぎ
日向|他県|日用雑貨、文房具類
渡辺|鹿児島|米雑穀、洋品雑貨、砂糖・上布の買継ぎ
鮫島|鹿児島|海産物
原田|鹿児島|薬、穀類、上布・砂糖の買継ぎ
柿元|鹿児島|学用品、穀類、塩
指物工|鹿児島|小間物
西の大阪|和歌山|雑貨、上布買継ぎ
東の大阪|和歌山|雑貨
大野書店|東京|書籍、雑貨
佐藤金物店|四国|金物
鎌田自動車|他県|自動車修理・販売
田中洋品|他県|洋服
藤代|他県|海産物問屋
是枝薬店|他県|薬


沖縄の都市空間/堂前亮平 p113(抜粋と編集)
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平良の寄留人(宮古島)

戦前平良の市場通りと西里通りには50店余りの寄留商人の店が軒を並べて一大商業地区を形成していた。市場通りと西里通りの交差点はスータノユマタと呼ばれ、ここが寄留商人の店の始まりといわれる。スータとは塩田という鹿児島出身の寄留商人がここに居住していたことから呼称されたものである。
商店の建物は多くは瓦葺き一階建てで、一部には二階建てもみられた。商店では砂糖・宮古上布の仲買い、呉服、雑貨、金物、書籍、酒、履物、薬など多種多様な商品が販売されていた。表(※1)は大正時代の平良に於ける商店について、店名・屋号、経営者出身地、おもな扱い商品を示したものである。なお、ここで示した商店は、一般販売の小売・卸売(買継ぎを含む)に限ったものであり、食堂、映画館、理髪店などの飲食、サービス業を除いた。これらの業種にも寄留人が経営していた店は多くみられた。
表から寄留商人の出身地をみると、宮古を除く沖縄県内出身者の店は33店、沖縄県外出身者の店は15店である。ここには宮古出身者の店は2店のみで、1店は薬局、他の1店は一般の雑貨店であった。沖縄県内出身者は那覇出身者がほとんどで、那覇のなかでは泊、垣花の出身者が多くみられた。一方、沖縄県外出身者では鹿児島県出身者が大部分を占めていた。他には和歌山県出身者などがみられる。
県外出身者の商店はメイン通りである西里通りに比較的多く集まっている。
沖縄の都市空間 堂前亮平 p111、112(抜粋と編集)

(※1)をつけた「表」の内容は「大正年間の宮古島平良における商店」で別記事にしました。

那覇出身者がメインで、そのなかでも泊と垣花が多かったということですか。
参考:グダグダ(β) 宮里三郎・忠一宮里 松 (在宮古垣花出身商人)
参考:グダグダ(β) 宮古島の寄留商人

最初の料亭は、旧藩時代に山原船の船乗りを相手に、当時寄留人の集落であった小屋毛にあったとされている。(中略)戦前料亭は約20軒集積し、料亭街を形成していた。宮古の料亭の事をサカナヤーと呼んでおり、笹森儀助の『南嶋探検』にも記されているように、当時の料亭は遊廓を兼ねている場合が多かったようである。一方、この料亭の経営者は宮古の人と沖縄本島とりわけ那覇出身の人たちである。一方、この料亭を利用し支えたのは、船舶の乗組員、勤め人、それにカツオ節、黒砂糖景気時の農漁民それに寄留商人たちであった。
また、この料亭の従業員の女性たちは那覇出身の女性が多かった。そして日常の会話は沖縄本島方言、三線と共に流れる歌も沖縄本島か八重山民謡であったという。
沖縄の都市空間 堂前亮平 p117(抜粋と編集)


この料亭従業員の女性はチージサガイ(辻下がり)で触れた遊廓で働けなくなったジュリではないかと想像しますが、そうであったなら「那覇出身の女性」というのは純粋な那覇生まれではなく辻育ちの人でしょうね。
ただこういう新聞記事もあるのでそうではない可能性もあるかとは思います。

宮古島の寄留商人

まず寄留。

寄留(きりゅう)は、日本の旧法令で、90日以上本籍外において一定の場所に住所または居所を有することである(寄留法1条)。昭和27年住民登録法(後の住民基本台帳法)の施行とともに、寄留法は廃止され寄留という制度は全く存在しなくなった。
寄留 - Wikipedia


このブログでは戦前の沖縄にいた内地出身商人(やその2、3世)のことを寄留商人として扱っています。戦前の宮古島や石垣島にも本土出身商人と沖縄本島出身商人がいて寄留商人として扱われています。
この区別は外部の人間ということで妥当なものだと思われますし、外部とのネットワークを生かして商売するという構造は本土・沖縄間で商売していた内地出身商人と離島・本島間での本島出身商人では大差ありません。
このブログでは那覇・真和志を扱いますが、離島や県内他地域出身商人は寄留商人としてあつかいません(県内出身者は人物カテゴリです)。

本題ですが宮里三郎で検索してみるといくつかヒットします。

「お店紹介13《山小(やまこ)百貨店》」 松谷初美
山小百貨店は、西里通りにある老舗の店だ。現在の店主、宮里康弘さんは3代目である。創業は明治34年。創業者(宮里三郎)は、沖縄本島から渡ってきた。ちなみにその頃、宮古には鹿児島や沖縄本島から多くの商人たちが入ってきた(いわゆる寄留商人と呼ばれている人たちだ)。宮古には明治30年代には36件の寄留商人による商店や事業所があり、宮里さんの先代もそのひとりということになる。商売をする地元の人は少なかったらしい。
ぱずみゃー(初めは)、雑貨を扱う店、宮里商店として始まった。地元のもの(牛や馬、黒砂糖、宮古上布など)を本土や沖縄本島で売り、本島から米、豆、油、醤油などをを仕入れてきて売っていた。昭和初めには、衣料品、化粧品なども加わり、商品も多岐に渡るようになったので、昭和12〜3年宮里百貨店と名前を変えた。その後、屋号の「山小」に変え現在にいたっている。
くまから・かまから vol.62 [くまから・かまから] - メルマ!

http://melma.com/backnumber_33637_1630598/


1915(大正4)年6月には原田直兵衛、渡辺覚之丞、永田龍次郎、宮里三郎ら寄留商人は、宮古通船株式会社を設立し、数隻の木造小型蒸気船を所有して、平良〜那覇間の貨物運送を始めた。1918(大正7)年、沖泊りの汽船と桟橋間の貨客運送も始めるようになり、これまでになく安全で効率的になった。
第二次築港は1917(大正6)年、同じく上原仁徳ほか17人の商人団から(後略)

http://www.wave.or.jp/minatobunka/archives/report/120.pdf
http://www.wave.or.jp/minatobunka/archives/index.html


宮古や石垣の記録を読めば本島出身商人も探せると思うのですが手が回っていません。
このブログでの取り扱い範囲は次のようにします。

本島在住内地出身商人/Category 寄留商人
※県内出生の2、3世も寄留商人カテゴリ
本島在住沖縄出身商人(現沖縄県の範囲)/Category 人物
※県外出生の2、3世も人物カテゴリ
---
本島以外在住内地出身商人/Category 寄留商人
※基本的に取り扱わず
※ただし本島との関係が濃いものを除く(本店支店関係、本島在住者の2、3世など)
本島以外在住本島出身商人/Category 人物
※現在の那覇市の範囲の出身者を除いて基本的に取り扱わない

VFW

Remembering Okinawaにある「Maps of the businesses around Okinawa 1967」の「Map #1 Naha, Machinato」にトヨタとVFWの位置ほかを書き加えました。

http://www.rememberingokinawa.com/page/1967_Business_maps

ちなみに安謝川を越えると浦添になります。「国立劇場おきなわ」ができて何年になるのかわかりませんが、自分が記憶しているのはボロボロの極東放送と廃墟のVFW、そしてローラースケートランドくらいです。
あの一帯の地名は小湾ですが俗称として「ブイエフ」と呼んでいる人もいました。
VFW -> Veterans of Foreign Wars

VFW
http://sargecharlie.blogspot.com/2009/01/from-out-of-my-past-contact-through.html

参考:VFWクラブ跡

首里から見た真和志


画像は下記ページより無断拝借しております(すみません)。
金城町あたりから繁多川方面を望んでいるのだと思うのですがなにもないようにみえます。

http://www.a-nero.com/syuri.html

またページ内には部落内の石畳道の道路拡張の様子がわかる比較もあります。
石畳道は王府時代よりそのままだと思っている方も多いと思いますが、実は水道管他の敷設などで戦後に拡張されています。このあたりは那覇市広報誌の「市民の友」などを参照するとわかります。
識名部落内の道路拡張では識名部落の道路拡張工事を取り上げましたが、昭和中期に古い集落のほとんどは道路が拡張されています。

戦前から旧那覇市では水道の敷設がすすめられていたのですがわずかなものでした。戦後に水道を付設してゆくのですがほぼゼロからの工事なので昭和中期に至っても簡易水道などで済ませている地域も多かったのです。また水道がきていても圧力不足で水が出ないなどの事情もあり、その対応のため上間水タンクなどは作られています。
那覇市の水源も宜野湾などからのものでしたが、水源の水質悪化などのため山原からの水源に切り替えられて現在に至っています。那覇市内で水の質量ともに満足できるようになったのはそれほど昔の話ではありません。

【追記】金城町の道路についてはこれなども参考になるんではないでしょうか。
那覇市首里金城地区における細街路整備の経緯と意義(農村の景観と自然環境, 農村計画)
http://ci.nii.ac.jp/naid/110006330051

戦前の字小禄民俗地図

「戦前の字小禄民俗地図」が掲載されているサイトがありました。

うるくの泡盛(4):うるくニッポン放送
http://oroku.ti-da.net/e1873533.html

小禄
無断拝借済みません... m(_ _)m
※色とポインタは自分が加工してあり少しサイズも縮小してあります。

なかなか目にすることもないかと思うので説明しておきます。
那覇市が制作したと思われる「戦前の○○民俗地図」というのが散見されますが、たぶん那覇市史につけられた「那覇・真和志(首里、小禄)の民俗地図」の調査段階での部分図のようなものではないかと思っています。区域が狭い分詳細な面がありこれも参考にしています。
グダグダ 真和志民俗地図
5.本地図は昭和51年末から昭和53年夏まで約2年近くにわたり、市内各自治会を始め、200余名の古老の協力と助言を得て、まず旧那覇(24町)、旧首里(19町)、旧小禄(12字)、旧真和志(23字)の町字ごとの民俗地図素案をつくり、これをもとにして、四地域の歴史民俗地図を作成、さらに地域に詳しい古老学識経験者による数回の監修を経て完成したものである。那覇市史 資料篇 第2巻中の7 那覇の民俗[付属図]
グダグダ 歴史民俗地図

つまり那覇市製作の「旧○○の歴史・民俗地図」の製作前段階の図です。
自分はこの前段階の図を字史(字誌)や新聞等に掲載されているのをコピーして集めてあるのですがまとめて掲載されている本や資料を知りません。まあ今は字史(字誌)が結構出ていますのでそれを参照するのでもいいんでしょうが商店等や屋号を含めた人名が載っているというのは貴重だなと思います。

末吉

現在の首里末吉町です。

西原間切の西端部に位置し、北は浦添間切の沢岻村・経塚、南は真和志間切の真嘉比村、東は首里及び平良村に接し、村中南部を安謝川が西流する。村の北東部は屋取の大名。浦添から首里に向かう道が通っており、旅の安全を願って謡われていたヤラシイグワイナ(クェーナ)に「平良ふな」と「あだにが」が見える。浦添を経て首里に上る途中の地名として謡われたもの。
絵図村帳・琉球国高究帳の真和志間切に「末吉村」とみえ、高究帳によると高頭75石余、うち田49石余・畠26石余。1670年頃までに西原間切に移管。
1920(大正9)年西原村から首里区に編入され、末吉町となる。その際大名が分離し、大名町となる。
---
1880(明治13)年には戸数138、人口669。
1903(明治36)年には戸数182(士族13・平民169)・人口881(士族72・平民809)。
角川辞典 p182 (省略と抜粋)


もともと真和志間切で西原間切になり、その後首里に編入ということです。首里の範囲は現在の区域よりずっと狭いですのでご注意。
参考:西原町 - Wikipedia


また那覇市史でも旧西原村(平良・大名・石嶺・末吉)は首里とは区別されています。
大名はこんな感じ。

平良村の屋取で首里士族の移住地である。大正9年に独立したが、町内にある御嶽や村川は平良に関係するものである。
那覇市史資料編第二巻中の7、p29

小禄解放地

昭和52年の小禄あたり、航空写真は国土交通省のもので、加工は自分がしています。まだ再開発がされておらず建物が残っていますが、このあと建物が撤去されて野原になり、その後区画されました。新都心もそうですが、ある年代の人達は那覇で野原を駆け巡る遊びをしているはずです。
小禄開放地
整理番号 COK-77-1
撮影年度 昭和52年度
地形図番号 NG-52-27-7
撮影コース C59
国土情報ウェブマッピングシステム
http://w3land.mlit.go.jp/WebGIS/index.html


1977(昭和52)年はまだ自衛隊の道路(図の左側)が開放されておらず、那覇軍港から空港へ向かう高架橋もできていません。現在モノレールが通っている道もまだです。
参考:国道332号 - Wikipedia

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