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農村と魚

浦添から市場への続きのようなものです。
引き続き浦添市史から引用します。

一方、目方が魚市に持っていくほどの量ではない場合とか、小湾に水揚げされ売るのをまかされている糸満の追い込み網などの時には小魚が多いこともあって隣接の部落に売り歩くのが普通であった。それは量が多くなると今の仲西、宮城、勢理客あたりの農村部落にまで及んだのである。これら農村部では日頃、海のものは食べつけなかったが、隣接部落からは薬になるといってそのための注文が良くあった。例えば、のぼせや下げ薬としてはエビ(イセエビ)・イカを、シャコ貝など貝類一般は下げ薬、アバサーは腎臓や高血圧に聞くと信じられていた。海のものは医者の薬より、栄養をつけつつ病気を治すものとして人気はあったのであろう。
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内間や安波茶のしまかたれ会資料によれば、「魚は女が子を産むときにしかありつけなかった」とあり、母乳が良く出るように魚汁を与えた風習と一致する。魚は日頃の食品ではなく、病人食といった扱いであることがわかる。
浦添市史第4巻資料編3 p120


内地の漁村のような魚中心といえるような生活は那覇でも見当たりません(垣花はどうだったのだろうか)。浦添市史では農耕で忙しく海に入る時間は無かったと書かれてありますが那覇や真和志も同じようなものだったのでしょう。安謝では肥料のために海藻をとってきたりしたという記述もあります。

比較的海産物は豊富に食べている。特に牧港、小湾、城間、勢理客は海に近く、魚介類の種類も多く摂取量も多い。城間の中道に朝市が立ち、安謝には糸満の漁師も居住していたので近隣の部落は魚を買って食べていた。
しかし、専門の漁師のいない部落では海に近いとはいえ魚は滅多に獲れず、潮干狩りの暇もないので毎日の食卓にのせるなどはできなかった。農作業に従事していないお年寄りが居る家は割合貝類を食べていたのも潮干狩りができたからだという。西原、前田、沢岻は魚介類の食べ方が極端に少ない。西原では病気や産後にしか魚を食べず、沢岻ではたまに売りにきた魚も買うゆとりがなかったと話している。交通機関の未発達な時代では海から少しばかり遠い地理的条件が食生活に大きく影響したようである。冷蔵庫や氷のない生活では新鮮な魚介類は得難いし、経済的にも魚を買って食べるゆとりはなかった。
浦添市史第4巻資料編3 p203


参考:グダグダ 那覇の漁業民
参考:グダグダ 漁とその対象
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勢理客の水田

浦添の勢理客から安謝を見た写真です。中央に安謝橋があり、手前は水田になっているようです。

この一帯を勢理客城門原と勢理客立山原と呼んでいます。
浦添
対岸の安謝と同じように川の流れが堆積して陸地化した低地です。

浦添市史に昭和11年頃おこなわれた土地改良事業についての記述がありましたので引用したいと思います。

安謝橋側の勢理客城門原・立山原の護岸は山石積みであったので、毎年潮害を受け不毛地になっていた。安和良盛村長は県耕地課に交渉し、不毛地の村有地三万坪余を土地改良事業によって水田地帯にするように願った。しかし補助金は護岸工事と水路工事費しかなく悩んだが、村議会に諮り、区長会で話し合ったら全員実現をさせようということになり、工事費は補助金で充当し、不足分は労賃で負担することになった。
それで整地事業は各字の戸数に応じて大中小にわけ割当された。各字では割当された区域を共同作業で整地作業に取り組み、鍬で掘り起しモッコでかつぎ整地に従事した。(略)護岸工事において、潮水害防止のため自由開閉扉をつけた水門を設けるとともに、悪水路を護岸内側に設けた。また水利としては、小湾川の川口に井堰を設け、その貯水池から用水路で田圃に流れるようにした。水田は一反歩単位に区画整理された。
広大な不毛地が美田と化し、浦添村で一番大きい水田地帯となった。
浦添市史第4巻資料編3 p74(省略編集)

浦添の石工

沖縄本島にはいくつか石灰岩地帯があります。
参考:沖縄県石材事業協同組合:沖縄石の紹介
石にもいくつか種類があり「トラバーチン」は高級材として有名ですが「粟石」も特色のある材料です。沖縄県内ではビルの壁や内装などで目にしたことがあると思います。
引用は浦添市史からですが、那覇でも天久や安謝で採石が行われていたようです。
このブログの扱う範囲は旧那覇と真和志ですが、この二つの地域でほぼ産出しない材料の一番近い産出地域であるということで取り上げます。

牧港の石は、その成分が琉球珊瑚礁と砂から成り立っていて、その塊が粟粒に似ていることから「粟石」と称されている。この粟石は、トラバーチンほどの色艶はないが硬質で、用途も家屋の壁、屋敷囲い墓石などと広い。中でも平板に切り採った石材を「ヒラガー」と称し需要も多く、「マチナトヒラガー」を求めてこの地にやってくる人々は旧美里村や具志川村まで及んだといわれる。

採石場を「イシアナ」と称し、その岩場の持ち主を「イシアナヌーシ」と称す。石は上部から下部へ1丈〜2丈(3〜6M)を、ヒチ(カニガラ)と称する刃の鋭い鉄棒で掘り下げてゆき、「イヤ」や「ヒチャーヂリーユーチ」(斧)でなどの採石道具を用いて切り出す。他の道具として、墨壷、三尺定規がある。
戦前の岩場の持ち主は「ヨナハグヮー」「ジョームイ」「タロウタマイ」「アンガー」「イリナカニシグヮー」「カマーマチジョウ」の屋号をもつ家々であった。

イシバーヤ(石柱)
長さ6尺〜9尺5寸、幅1尺、厚さ8〜9寸の規格に切り取った石で茅葺き家の柱に用いたり、馬小屋の柱に用いた。
ヒラガー(壁石)
平板に切り取った石をいう。規格は、長さ6尺、幅2尺、厚さ6寸である。茅葺き家の壁や屋敷囲いなどに、1尺ほどを地中に埋めて、縦に並べて用いた。

牧港石の採掘は古く、明治時代に遡るとされ、最初のイシチチャー(石工)故メーントゥの翁であろうというのが又吉氏の話であった。本格的に切り出したのは大正時代からで、全盛期は昭和初期から15年間頃で、「ヒラガー」が2円〜2円50銭、「イシバーヤー」が6尺もので70〜80銭、7尺ものが1円、8尺が3円、9尺は4円の値であった。
売値の三分の一は岩場の持ち主、三分の二が石工の労賃であった。さらに遠隔地に搬出する場合は、馬車までの担ぎ賃が5銭貰えた。通常の仕事をした場合の石工たちの一ヶ月の収入はおよそ20円であった。
浦添市史第4巻資料編3 p162〜164(抜粋省略編集)

与那覇堂村周辺の境界

松川の与那覇堂村は明治12年に首里に編入されています。

明治初年茶湯崎村が松川村と改称。
明治12年首里山川村に首里大鈍川村・松川与那覇堂村・首里立岸村(タチジシムラ)を合併。

グダグダ 行政区画の変遷

松川の原名
真和志民俗地図をみると与那覇堂村にも山川カラヤーがありますが、首里民俗地図には観音堂の下あたりが広範囲で山川カラヤーとなっています(上右図)。
首里古地図(下図)では左端あたりが首里山川町です。


明治12年に首里山川町に編入された首里大鈍川村と首里立岸村の位置説明はこんな感じ。
大鈍川村
首里城の北西、首里台地の西斜面に立地し、北から東は山川村・真和志村、西は与那覇堂村、南は寒水川村(スンガームラ)。
明治12(1879)年与那覇堂村とともに山川村に編入。
角川辞典 p113

立岸村
首里城の西、首里台地の西端に位置し、北は与那覇堂村、西と南は真和志間切茶湯崎村(松川村)。南と西の境界を金城川・真嘉比川が流れる。
首里古地図には上地筑登之親雲上・野崎筑登之ら27の屋敷地のほか、台地の南西麓にかけての斜面に水田・畠が広がっている。
明治12年寒水川村・山川村・松川村に編入。
角川辞典 p113


首里西端にあった立岸村は明治12年に真和志間切の松川村と首里の山川・寒水川の両村分割吸収され消滅したということです。
明治12年の再編はややこしいですね...

関連
グダグダ 与那覇堂村
グダグダ 山川カラヤー
グダグダ 行政区画の変遷
グダグダ 松川の原名

浦添の地形

浦添の地形です。
浦添の地形

南はほとんど安謝川が境界線になっています。

テングヮンマタ

内間の端にティングヮンマタという道があります。天願又でしょうか。
図の一番右側で330号線付近になります。
内間旧跡
内間部落の中心部から沢岻に向けてゆく道ですが遊び場でもあったようです。ここでは内間だけでなく那覇・真和志・首里も含む周辺部落の人間が集まって毛遊びに興じたとこに注目したいと思います。

若者達の毛遊びの場所としてよく利用された。月の晩には近隣の部落からも若者達があつまってきた。沢岻、経塚、首里の平良、末吉、真和志の銘苅、古島、安謝、遠くは天久、泊、お隣の勢理客、仲西、宮城等...
道の真ん中に円座になり二才達(ニーセー)が弾く三線にあわせて娘さん達が唄を歌い、二才達は我先にとメーカタ、踊りに夢中になって遊んだ。時には格闘に近い争いになることもあって、夜中の三時頃まで続いたが若者達は何時の間にかどこともなく消えていった。
内間誌 p65(一部編集)


首里は平良、末吉。
真和志は銘苅、古島、安謝、天久、泊(那覇)。
浦添は勢理客、仲西、宮城、沢岻、経塚。
浦添
こうしてみると那覇近郊の農村で人間の交流はあったわけですね。内間誌の別箇所からそれがうかがえる箇所を引用したいと思います。

一年中を通じて若者達の寄り合いの場で、夜の早いうちはマーイシを待ったりして時を過ごし適当な時刻になると毛遊びに連れ立っていった。更に書き添えておきたいことは、沢岻、安波茶、仲間辺から泊市場へ農産物を販売にゆくときの中休み所であって、朝の九時、十時頃になると上記の部落の主婦や娘さん達が甘藷(イモ)、野菜等をいっぱい入れたバーキを頭に載せて次から次へとやってきて道路沿いの石垣に荷物を降ろして十分、二十分と休んで元気を取り戻して泊市場へ向かっていった。
内間誌 p65
前道(メーミチ)
部落内を流れる川に沿って、中の橋を中心にして東西に百メートルくらいづつ伸びている道路が前道で、中の橋西側の小広場が内間の中心的場所でいろいろの行事がここで行われた。
内間誌 p65


これは内間部落の前道(メーミチ)に関しての記述です。浦添の村から市場へゆくには安謝川を越えなければいけないのですが、交通の要所であるその橋を中心とした部落の内間では通行する人間同士自然とお互いに顔を見知っていたと推察できます。
昼間顔を見たことのある人達が夜は毛遊びの場で一緒になるわけですからそれは盛り上がるでしょうな(笑)。

マルグムヤー・イリガーラー

現在の安岡中学校ちかくにあった「マルグムヤー」と「イリガーラー」です。

該当範囲が含まれる広域図はこちら。大嶺原と西原の境界は上の図でも少し見えます。
内間の原名
まず真嘉比から現ジミー近くを通り流れてきた銘苅川の河口があります。そのすぐ上流は大きな弧を描き安岡中側に曲がったあとに浦添側に大きく曲がります。その浦添側に曲がる弧は現在と異なりもっときついカーブを描いていて途中二箇所に深くなった箇所がありました。そこが「マルグムヤー」と「イリガーラー」です。
内間誌から引用します。

(内間部落内の)小川は首里ハンザン山から流れてきたもう一つの小川と前の川原で合流して一本の川となる。合流地点から80メートル位下流に一枚石で渡した橋があって、その下流に幅8メートル・長さ20メートルくらいの溜池状をなした場所、ここがイリガーラーである。
夏になると芋を洗うという表現がぴったりなくらい子供達でいっぱいになり、冬はサーターヤーで使役した馬も洗っていた。夕方近くになると釣り人が糸を垂れている姿も見られフナや川エビがよく釣れたようである。

湾曲した川を更に下ると(略)溜池の形をしたマルグムヤーがある。この場所は部落から離れているので子供達の水遊びの場としてはあまりなじんでいなかったようであったが満潮時には海水が逆流して来て20センチもあるチクラ(注・ボラ)がどんどん上がって来た。子供達はマルグムヤーの上流の浅瀬でチクラ取りなどして遊んでいたし、川バラスも沢山取れたので伝馬船もバラス運搬のため出入りしていた。
内間誌 p64(省略編集)


昔のボラ釣りの想いでを書いてあるサイトがありましたがのんびりしたもんですね。
http://www.town.motobu.okinawa.jp/schoolnet/motobu-e/100kinensi/sz/sz_omoide_t06.html
このマルグムヤーあたりを中心としてほぼ等距離に安謝・勢理客・内間がありますからマルグムヤー周辺は内間だけでなく周辺部落の子供達も遊んでいたことでしょう。
また(内間集落内の)合流地点から80メートル位下流に一枚石で渡した橋があってとありますからイリガーラは交通に便利な箇所のそばにあったクムイ(小堀)でもあります。
高シー
写真は安謝橋を勢理客から見たところです。安謝川河口は大分広いですが、マルグムヤー・イリガーラーは<幅8メートル(もあった)>と書かれるくらいですから安謝川は河口以外現在と大して変わらないくらいの幅だったと思われます。

浦添

那覇の北方で紹介した作戦図を下敷きにした戦前の浦添の集落です。
浦添
戦前にあった県営鉄道の嘉手納へ向かう路線は浦添に内間、城間、牧港の駅がありました。
戦前鉄道

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