現在の首里末吉町です。
西原間切の西端部に位置し、北は浦添間切の沢岻村・経塚、南は真和志間切の真嘉比村、東は首里及び平良村に接し、村中南部を安謝川が西流する。村の北東部は屋取の大名。浦添から首里に向かう道が通っており、旅の安全を願って謡われていたヤラシイグワイナ(クェーナ)に「平良ふな」と「あだにが」が見える。浦添を経て首里に上る途中の地名として謡われたもの。
絵図村帳・琉球国高究帳の真和志間切に「末吉村」とみえ、高究帳によると高頭75石余、うち田49石余・畠26石余。1670年頃までに西原間切に移管。
1920(大正9)年西原村から首里区に編入され、末吉町となる。その際大名が分離し、大名町となる。
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1880(明治13)年には戸数138、人口669。
1903(明治36)年には戸数182(士族13・平民169)・人口881(士族72・平民809)。
角川辞典 p182 (省略と抜粋)もともと真和志間切で西原間切になり、その後首里に編入ということです。首里の範囲は現在の区域よりずっと狭いですのでご注意。
参考:
西原町 - Wikipedia
また那覇市史でも旧西原村(平良・大名・石嶺・末吉)は首里とは区別されています。
大名はこんな感じ。
平良村の屋取で首里士族の移住地である。大正9年に独立したが、町内にある御嶽や村川は平良に関係するものである。
那覇市史資料編第二巻中の7、p29PR