忍者ブログ

グダグダ(β)

メンテナンス中/内容について一切保障できません
3/24アクセス解析再設置/不快に感じられる方はJavaScriptオフを推奨

MENU  ブログ内検索は左のMENUからできます

ENTRY NAVI

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

原域の変化

上間部落の中心地は当り原といいます。

当原(アタイバル)は、その村(ムラ)の中心となる。今帰仁グスクの前もハタイ原という。そこはかつての集落の中心であった。
http://rekibun.jp/21murasikouza.html


引用したページは今帰仁村歴史文化センターのものですが、ここが発行している「なきじん研究」15号に原(はる)について触れられていました。引用部分は本文ではなく、冒頭にある全体解説からです。

今帰仁間切「平敷村略図」に見る原域(第8編)についてであるが、現在の字は以前は村と呼ばれていた。その村は小字から成り立っている。その小字は明治36年の土地整理で確定したと見られる。「平敷村略図」は、現在の平敷の小字以前の小字のすべてと図面になっている貴重な資料である。具体的にどのように組み替えがなされ、現在の小字に落ち着いたのかを知る手掛かりとなる。
「平敷村略図」から、小字(原)名をつける特徴が見出せる。家々のある集落部分をアタイ原(当江原)、集落の前方を前原や前田原、集落の後方を越原(クシ原:後原)、上の方を上原、役職名の掟田原、浜のある小浜原、沢に因んだ沢原、「川を渡る場所」のある渡川原など。今では消えた小字(原)のスカ原は「塩川」、外サク原は「深い迫」など地形やカーなどに因んで名付けられている。
なきじん研究15号 Ⅱ (抜粋と編集)


205ページからの本文では明治29年以前の「平敷村略図」、明治29〜32年の「小字図」などを取り上げています。そのほかには現在の小字(原)との比較、印部石を使っての検証など。

これまで確認された今帰仁村内の印部石(原石)24基の内8基の原名が現在の小字名に存在せず、「平敷村略図」でもみた通り、約42%という大幅な組み替えがなされている。このように、小字での地名議論をする場合、大幅な組み替えがあったことを念頭に入れ、小字域は複数の原域をまとめてあるのではないか、そのことも念頭に入れて議論する必要がある。
なきじん研究15号 p212 (抜粋と編集)


掲載された「平敷村略図」と現在の小字図の違いはかなり大きいです。
以前、土地整理事業以前の原名についての資料を取り上げたのですが、その時にはこれほどの違い(のある可能性)があるとまでは思いませんでした。

印部石(しるびいし)については写真も豊富な「沖縄の印部石/沖縄県地域史協議会」という本があります。
印部石も画像検索するとけっこう出てきますね...
PR

長虹堤周辺の地形

ガーブ川河口(美栄橋)付近の地形を書き込んでみました。
ガーブー(美栄橋)

参考にしたのは「戦前の牧志町民俗地図」「那覇民俗地図」です。
まず現在のガーブ川ですがむつみ橋から現美栄橋付近に向かって直進し七つ墓手前で左折してゆきます。沖映劇場の向かい側は図で灰色で示したように墓地地帯の高台になっています。灰色は墓地地帯と表記されたところですが周囲より高く石灰岩の塊になっています。緑はgoogle mapで木が生えていると確認できる箇所です。
google map:美栄橋
現在緑が残っている箇所、墓地、高台はほぼ一緒です。開発が困難、墓地の撤去が難しい、権利関係等理由はいろいろ考えられますがともかく残っています。

図をみて分かるのは山形屋周辺の高台とガーブーの水面よりは高い牧志集落の間を水が流れているということです。ガーブーが左折しても左側は現緑が丘公園の高台で右側は七つ墓の間の低地を流れています。
長虹堤の途中にあった入り江の側は現在も墓が残るこんもりとした丘で、ガーブーから分岐した流れが入り江に繋がっていたとしても高台の右側を流れるしかありません。
浮島(那覇)で海岸線の形成について考えましたがこの低地は古海岸線の様子を反映しています。
浮き島1
図の左が長虹堤の建設によって右の図へ変化していったわけです。島小の入り江というのは右図の前島付近にある白いところでしょう。図には書かれていませんが明治期の地図にはこの入り江はガーブーと繋がっているとされている。
島小入り江周辺の背後は現在整地されて空き地ですが周囲からわずかに低いのが確認できます。また不自然なほど真っ平らでなんらかの整地が行われたと考えるのが自然でしょう。
また沖映通りのそばは大通りから入るとすぐ少し低くなっている箇所が多いです。

結論は特にありませんが(汗)墓がある箇所はだいたい石灰岩の高台になっていること、過去の地図でみるかぎり平地はあまり土地利用が行われていないこと、改修される以前の那覇の河川沿いは低地になっていること、などからガーブー周辺は川に向かう緩やかな傾斜の湿地と石灰岩の墓地地帯だったと考えます。
ガーブー周辺の基準面は沖映通りではなく周囲の少し低くなったあたりでしょう。
沖縄の海岸でよくある岩の岸壁やキノコ岩が古海岸線の時代の美栄橋の風景だったはずです。

地質図

面白いサイトがあったのでご紹介。

日本シームレス地質図
http://riodb02.ibase.aist.go.jp/db084/index.html


そのほかにはこのページ。

国土調査課 調査データを見る 5万分の1都道府県土地分類基本調査(那覇・沖縄市南部・糸満・久高島)
http://tochi.mlit.go.jp/tockok/inspect/landclassification/land/5-1/4701.html


※画像は下記アドレスの図(5万分の1:地形分類図)を切り出して加工したもので、加工の責任は当サイトにあります
http://tochi.mlit.go.jp/tockok/tochimizu/F3/data/L/4701L.jpg
※成果の利用について「私的利用について、特に制限はありません」となっています
http://tochi.mlit.go.jp/tockok/inspect/landclassification/land/attention.html

ほとんど地形図と重なりますね。
那覇標高図那覇埋立図

関連カテゴリー:土地
関連:グダグダ 船増原・宮城原の低地
関連:グダグダ 那覇市埋め立て地図

安里・大道間の地形

安里・大道間の地形を米軍の地図(左)と現在(右)で比べてみます


左はシュガーローフで取り上げた米軍の作戦図、右は現在の地図の地形を強調し道を書き入れたものです。
安里側にあるM字型の高台はホースシュー、その上の現安里配水所一帯がシュガーヒルです。

大道側にホースシューにくっつくような形の高台は71年のゼンリン地図では確認できるのですが現在は崩されてしまっています。
バイパスを安里十字路から北上してゆくとおもろまち駅の手前左は高い壁になっていますが、この道は真嘉比小学校の高台と安里側の高台に挟まれた切り通しのような地形だったわけです。手持ちで確認できる地図がすでに鉄道が存在する時期のものだけなので実際に切り通し工事が行われたのかどうかははっきりしません。

また栄町のあるあたりの高台も崩されてしまっています。

識名坂/比地川坂

どちらも繁多川にのぼってくる坂道で、識名坂は金城橋を渡って金城前原と魚崎原の間を上ってくる坂、比地川坂は比地川橋を渡って上ってくる坂です。

読みは識名坂はシチナンダビラ、比地川坂はヒジガワビラで坂には「ビラ」があてられています。
識名坂は遺念火(イニンビ)の怪談で有名ですね。

また傾斜道を指すに、サカ地名は皆無で、坂道にはヒラ地名が付与されている。坂道を下から見るのがヒラで、上からはサカと呼ばれる。
グダグダ 原(ハル) 毛(モウ) トー

明治36年土地整理の変革によって、これらの部落の周辺には、村外から転入する者が多くなり、いわゆる屋取部落が発生した。識名に繁多川・真地、与儀に樋川、古波蔵に楚辺・壺川・松尾などの集落が出来て新しい行政区が誕生した。
繁多川
首里の金城坂に相対する識名坂の上にあり。首里系住民の集落。
真地
繁多川と同じく首里系統の屋取部落で南は南風原村に接する。西側の低地をトマ下という。
那覇市史資料編第二巻中の7、p39(一部のみ抜粋)


屋取部落は首里周辺に拡大してますから、首里系の人達にとっても向こうから見た「ビラ」の呼称の方がしっくり来るものだったのかもしれません。

内兼久周辺(那覇の入り江)

この二つの図には内兼久山(孔子廟後方)が見えます。
唐栄久米村と天妃宮明治初年の那覇

大正末年生まれの船越義彰さんは内兼久をこのように記憶しています。
松尾山とそれに連なる内兼久山は、那覇尋常高等小学校(沖縄テレビ)、そして裁判所(郵便局)、孔子廟(商工会議所)、そして大典寺のあたりから潟原交番前に連なる丘陵地帯で、そこには松山小学校、県立二高女、県立病院、知事公舎、その他県庁のお偉方の官舎があり、松風の音もさわやかないうなれば那覇の軽井沢的場所であった。
なはわらび行状記/船越義彰

堂小・内兼久
いまでは跡形もない内兼久の丘ですが、古い海岸線では内兼久の前は入り江で特に左の図では久茂地川のクランク部分そばの入り江がはっきりしています。
1700年以前の海岸線古海岸線
右の図では浮島だった時代の那覇に「内兼久山」「辻山」の二つが見えます。義彰さんの記憶では「松尾山とそれに連なる内兼久山は、那覇尋常高等小学校(沖縄テレビ)、そして裁判所(郵便局)、孔子廟(商工会議所)、そして大典寺のあたりから潟原交番前に連なる丘陵地帯」ですから現在の松山周辺から内兼久跡までは一帯の丘陵のようですから二つに分けて呼ぶ必要性は感じられません。もう一つの「辻山」の方は辻原墓地一帯の丘陵のことでしょう。
旧那覇にはこの二つの丘と低地でできていて、後年古地図の浮き島の範囲から河川の運んで来る土砂によって周囲が陸地化します(久茂地、美栄橋等の久茂地川沿い)。

内兼久は兼久(カニク)の語意から言っても内側にあったカニクという解釈でいいのではないでしょうか。現在の地形をで考えると久茂地近辺が内海であったというのは考えにくいのですが、冒頭で掲げた二つの図を見ると明治初めの頃は久茂地川の河口が小さな湾のようであったことを示しています。
下の図では久茂地(普門寺)、美栄橋が川側の低地であることが泉崎や牧志周辺と対照的にはっきりしています。
浮島

船増原・宮城原の低地

海岸線の変化の続きみたいなもんですが...

那覇の標高図に道をマッピング。
那覇標高図


与儀公園の宮城原、那覇署の宇蘭原、船増原の与儀市場通り、そしてガーブーのそばはすべて低地になってるのがわかります。
ガーブーの左側には裁判所・城岳の高台、松尾・山形屋裏の高台が続きます。そして右手には真和志支所・壷屋・牧志部落の高台があります。
1700年以前の海岸線
那覇の古海岸線
戦前のガーブー流域を写真で見ると見事に何もありません。また与儀公園・神原小中の試験場用地一帯は湿地で戦後暫く何もありませんでした。このあたりは真和志民俗地図でもほとんど空白になっています。
ガーブーは試験場用地の西原(ニシバル)を過ぎると神里原の真ん中を通り水上店舗が並ぶ一帯に入って行きます。
樋川原・神里原
図でも左の松尾、右の壷屋が高台になっているのがわかります。

関連:河川 ガーブー

河川 2

河川の続き、国場川水系について図を載せておきます。
国場川水系
国場川水系_浸想図
http://www.pref.okinawa.jp/kasen/con05/03_kokuba/05_03_kokuba.html

オリジナルは県庁のpdfでそれを少し改変しました。あと違う色で示した川は国場川水系ではありません。

国場川や国場川に合流する川の流域はほとんど那覇市外です。
図の那覇市南部というのは、首里大名にはじまり上間国場から松尾へと続く緩やかな丘陵で周辺地域と接しています。反対に那覇市の周辺をみてみると大体が平野で、周辺のわずかな丘の間をうねるように小さな川が国場川へと合流してゆきます。
ここで掲載した図はサイズを小さくするための対処で細い川を強調し実際より太く描いてありますが、元のpdfでは細い川が細かく蛇行しているのがよくわかります。

那覇市周辺では川筋の修正が行われすっきりしていますが、仲井真あたりの元の川筋はかなり蛇行したものでした。
参考:新橋(国場橋)

× CLOSE

ブログ内検索

アクセス解析

カレンダー

05 2025/06 07
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30

最新コメント

[08/08 なちょうらーざ]
[07/19 shimoji]
[07/19 shimoji]
[03/21 2階の店舗の娘]
[03/05 福島敏彦]

× CLOSE

Copyright © グダグダ(β) : All rights reserved

TemplateDesign by KARMA7

忍者ブログ [PR]