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沖縄主要地・主要商工年鑑

資料のご紹介。
「沖縄主要地・主要商工年鑑/上原 軟剛」(1951)はガリ版刷りで通りの図と店舗名が書かれた本です。

この本は「沖縄・国際通り物語/大濱聡」という本の資料としてあげられていたものなんですが1951(昭和26)年の那覇市の中心繁華街がほとんど網羅されています。ガリ版刷りで読みにくいところもあるのですがよくぞ残っていてくれたと思います(マイクロフィルム複製本)。

こういう良い資料を手にすることが出来ていればしなくていい苦労もあったんではないかと思いますがしょうがないですわな。しかし巻末に資料名があると大分助かります。
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沖縄蚕種会社・古田蚕種

国場組社史に掲載されていた「昭和初期の那覇市街図」から沖縄蚕種会社と古田蚕種の位置をかいてみました。



沖縄蚕種会社は久茂地大通り沿い、古田蚕種は大門通りです。戦前の新聞には蚕関係の広告等がけっこうあります。

沖縄大百科では糸蚕ではなく種蚕を中心として生産していたと書かれています。沖縄は桑が落葉しないことや、蚕の病気(微粒子病)が存在しないなど条件が良く、内地では沖縄産の蚕を組み合わせることによって三毛作のように年三回糸蚕を生産できたそうです。

愛球倶楽部

昭和9年のビリヤード場の広告です。

先ず撞球へ
世界的共通の趣味社交的な撞球適宜な運動に富める球具の善い球場へ
波ノ上大通 別天閣内
愛球倶楽部
前ノ毛入口
第二愛球倶楽部
琉球新報 1934(昭和9)年4月12日


愛球倶楽部は若狭の別天閣にあったようです。また第二愛球倶楽部の前ノ毛は辻の石門通りに近いあたりになります。

瑞泉社(製糸)

松川にあった製糸業の瑞泉社です。
まずはグダグダ 沖縄電気鉄道で使わせてもらった図を再掲。
沖縄電気鉄道

坂下と観音堂の間、金城ダムへ向かう道のあたりに瑞泉社はありました。

瑞泉社
製糸を目的とする戦前の組合。「製糸業法」(1932)に基づき1934(昭和9)に設立された<保障責任繭販売購買利用組合瑞泉社>の略称。沖縄の養蚕は大正末期から広く県下に普及し、産繭実績も年々増加していた。これら各地で生産される繭を合理的に処理し、県蚕業の発展に寄与することを目的に、首里・中頭・島尻地区の養蚕家が中心となり、34年に農林大臣の許可を受け、真和志村松川村に組合員4272人、資本金4万円(2万円は県補助)、釜数22基の設備で設立され翌35年から操業を開始した。途中失火による全焼(1936)という災害もあったが、その実績は年々増加。45年の沖縄戦による焼失まで、組合員7300余人、釜数32基のほか、100人収容規模の宿舎、乾繭倉庫など設備も充実し、県下一円を地区として活況を呈していた。
歴代組合長:太田朝敷、高安玉兎、徳本八一
沖縄大百科事典(省略と抜粋)


国場組の社史に瑞泉社の製糸工場を建設したという記録があります。国場組では昭和15年の明治橋の施工がエポックだったようで、それまでの工事は一覧としてあげられているのですがその中からの抜粋です。

瑞泉社製糸工場新築工事 木造2階建 13850円
郡是蚕種会社新築工事 木造平屋 177700円
鐘紡蚕種会社新築工事 木造平屋 
国場組社史第2巻 p7(一部のみ抜粋)


国場組の創設から昭和15年までの間にこれらの製糸関係の建築工事があったということです。
沖縄大百科事典には「片倉・神栄産業・郡是・昭和・昭栄」などの製糸会社が沖縄に出張所をおいていたことが書かれています(下巻 p792)。

新天地市場の女性たち 5

山川を含む桃原地区は18世紀以降に首里・那覇方面から流れて来た士族たちが住み着いてできた屋取(ヤードゥイ)集落で、古くから農村集落を形成していた備瀬とは性格を異にした。桃原と備瀬とは隣接しているが「侍」と「百姓」の結婚はほとんどなかったという。戦後の人の移動はこうした壁を取り払うきっかけともなった。
戦場(いくさば)の跡を縫い合わす : 那覇・新天地市場の女たち


戦後の混乱は屋取と百姓の間だけでなく、那覇人の離島や山原への偏見も多少取り払ったでしょうね。
現代の人間には地域での差や百姓とサムレーの間の意識差などはわかりにくいかと思います。通婚がなかったというだけでもだいたいはわかるかとおもいますが。
参考:グダグダ 士族の比率

村落社会が成立していた時代は一つの村や字の中だけで一生を暮らすのが普通だったし、交通機関が未発達だったということも原因となり、他地域との交流がほとんどなかったので地域によっての言語差が大きくなった。特に今帰仁(ナキジン)地方や糸満地方、山原地方などの地域は音韻的にも大きく違っていた。

2回目の調査において、話を聞かせてもらった比嘉清光さんと敏子さん夫妻は二人の言語状況がそのことを表している。清光さんも敏子さんも二人とも出身地の琉球語で話すことはできる。しかし、日常生活の中で、二人で会話する機会の時も琉球語は使わずに共通語で話す。二人とも出身は中部地方で距離的には近いが、清光さんは今帰仁地方の出身で敏子さんは本部町の出身だった。今帰仁は「はひふへほ」を「ぱぴぷぺぽ」と発音する沖縄でも特殊な発音の特徴をもつ地域である。一方、本部町は廃藩置県後に首里から没落した士族が流れて住み着いた地域であるので大部分の言葉が首里方言に変化していったので、中部にありながら南部の首里の言葉の特徴を持つ。結果として近距離に位置してるけれど言葉の違いは意思伝達に障害が起こし、精神的にも抵抗が生じるほどになる。そのために琉球語で会話したとしても大意は通じるが、言葉によって聞き直さなければならなかったり、分かりづらい所もでてくるのでストレスが生じることになる。
それほどに沖縄における地域による言語差は大きい。
沖縄の言語と意識に対する社会言語学的考察

http://tokyo.cool.ne.jp/b3959/jyosyo.html
グダグダ ことばの地域差


このような違いがあるなかで那覇人の中で商売するのは違和感もあったでしょう。「戦場の跡を縫い合わす」後半でのインタビューでも娘を那覇人に嫁に出すのに抵抗があったと述べられています。
那覇人のイナカー蔑視は根強いというか、那覇人以外のすべての人間を笑い飛ばすようなところがありますし、言葉や習慣の上でも差がハッキリしているとごまかしようがないわけです。しかしもともと根拠がないレッテル貼りだから偏見なわけで、理由なんて本当は何でもいいわけです。偏見の理由には意味がありません。
参考:グダグダ 那覇人気質
近世でも宮古人は酒飲んで大騒ぎするという認識をもたれていましたが、そのような偏見まじりの認識が現在のようにかわってきたことは戦後の混乱のもたらしたポジティブな面ではないかなと思います。

新天地市場の女性たち 4

1967年の[新天地]市場会名簿をもとにした聞きとりによれば、431人の会員のうち上本部出身者は全体の3分の1を上回り(豊原46、山川31、石川21、北里11、備瀬25など)、本部半島と伊江島の出身者を合わせると約6割を占めた。名簿に記された人たちに「縫い子」として縫製の下請け作業を担った女性を合わせると、この市場にかかわった女性は数千という規模になるだろう。当時、市場内は19の組に分かれていて、それぞれの組は床上げした「台」と呼ばれる店舗スペースを共にした。最大の組は47人の売り子からなり、同じ組には同種の商品を扱う同じシマの出身者がまとまる傾向がみられた。ちなみに備瀬出身者は11組と12組に合わせて12名が集中しており、「パンツ」や「シミーズ」と呼ばれる女性物の下着を扱う人が多かった。
戦場(いくさば)の跡を縫い合わす : 那覇・新天地市場の女たち


431人中134人が上本部出身者、近隣の伊江島と本部半島出身者をあわせると6割の人間が本部・伊江島一帯の出身者だったわけですね。
このあたりで商売に関わっていた本部出身者の身内がいたのですが、彼女と街中を歩くと「アイ!ネーサン ネーサン」と売り場から声をかけられたものです。

市場に流入した人達の多くが小さな商いで生計を立てた。1947(昭和22)年末には壺屋や開南交差点付近などに自然発生的な闇市が形成されていたが、翌1948年、市当局はこれらを管理する目的でガーブ川沿いに公設市場(現在の公設市場衣料部あたり)を設置している。やがてこの市場周辺の一角に衣料売りの女性たちが群れだし、これが新天地市場の原型となった。
詳しい経緯は不明だが、ここで露天の商いを始めた女性たち豊原や山川の出身者達が多かった。そして、彼女達と縁のあった人を媒介に備瀬の女性たちもここに流れ込んだ。

彼女達は品物を売り終えると布地を買って帰り、一台のミシンを頼りに裁断・縫製して、翌日の午前中に市場に売りに出るというサイクルを繰り返した。当時この市場は卸し専門で、小売業を営む人たちが、沖縄本島に限らず、宮古、八重山、奄美など、琉球弧の島々から押し寄せた。彼女達の手作りの衣料はこうして島々に行き渡っていった。やがて新天地市場は、ここに来れば靴以外なら身につけるものすべてが手に入ると表現されるような衣料品の総合卸市場としての体裁を整えていった。
戦場(いくさば)の跡を縫い合わす : 那覇・新天地市場の女たち (省略と編集)


他の本ではこう記述されています。

公設市場に入店できなかったはみだし組は市場路上の売り場を追われ、市場通り南や、えびす通り、丸国マーケット前、今のみつや書店前の空地で、地べたに野菜を広げ、カゴに鶏やウサギを入れ、板箱の上に手作りの簡単服を並べて売っていた戦争未亡人たち。
やがて一角に露天の衣料売りが集中するようになった。夜、ミシンを踏み、翌日には店に出すという生活。52年9月、地主はトタンぶき棟割長屋を建て、この人たちと賃貸契約を交わした。
旧市街は未開放のため、46年秋冬の本土引き上げ那覇人の一部は、開南バス停から下り坂の道路両側にテントをあてがわれ、約80人が入居。井戸がなく、松尾や汪樋川へ汲みに行った。
戦後の沖縄世相史/比嘉朝進 p32(省略抜粋)
グダグダ 新栄通りのなりたち


開南バス停から松尾公園そばを通って浮島通りにいたる一帯が46年の本土引き上げ組、市場周辺ではぐれて集まってきた本部出身者が新天地市場に集まります。
貿易再開までの時期は本土・台湾他との密貿易時代であったわけで沖縄からは米軍物資などが輸出されましたが新天地市場の品物も輸出されたと思われます。一人の売り子が一日でパンツ100枚も縫って売り切るというのは他地域への輸出まで考えなければ数が合いません。

新天地市場の女性たち 3

さて、那覇に移動した人たちはどこに居を構えたのだろうか。1969年時の郷友会名簿(104世帯495人)からは、真嘉比、安里、大道、松川、寄宮、繁多川などの旧真和志村地区に9割近くの会員世帯が集中しているのがわかる。結成から15年たってもなどこれほどの集住傾向がみられたのだから、移動が始まって間もない頃はこの傾向はさらに顕著だったろう。後続のものは先発した親戚や知人をたよって那覇へ向かう。食や住居の面倒をみてもらうといった個々の関係の集積がやがてシマ出身者の集住地域を形成していった。郷友会の連絡も電話がなくてもたやすかった点は、中部郷友会の事情と変わらない。「郷友会が結成された昭和29年から昭和45年頃までは、会員の殆どが安里、大道、松川、寄宮の地に集中的に住んでおり、 連絡調整もスムーズに運び、それに郷友意識と郷友会にたいする協力心は今以上であった」。
こうしてかつて琉球王府のあった首里の丘陵地と古くからの商業地域だった那覇に挟まれた純農村地帯は、終戦後に生活の糧を求めて各地から流れ込む人びとを吸収して急激に人口を増加させていった。
戦場(いくさば)の跡を縫い合わす : 那覇・新天地市場の女たち (省略と編集)


>真嘉比、安里、大道、松川、寄宮、繁多川などの旧真和志村地区に9割近く
>会員の殆どが安里、大道、松川、寄宮の地に集中的に住んでおり


もともとあった集落の周辺を埋めるように人口が増えてゆくわけです。特に川のそばや農地だった場所はあまり人が住んでいませんでしたがそこも住宅地になりました。
特に寄宮は北部出身者だけではなく那覇市内の人間も移住していたり、離島出身の人達も沢山住んでいます。同じように栄町近辺の(旧区画の)大道もそのような感じでした。

人が人を引っ張ってくることで小さなシマが出現します。
市場でも住居でもそうなのですが、それらのシマの中に他シマの人間がわざわざ入り込むよりは同じシマの人間を頼った方が楽だし確実でもあります。そのような傾向が続いていったことで地域の縁を持ったゆるやかな集まりが那覇の中にも出現したのです。

新天地市場の女性たち 2

続きです。


上本部から中南部への人口流出に決定的な影響を与えたのは、戦後、肥沃な桃原平原の中央を貫くように建設された米軍飛行場の存在だった。とくに字面積の約8割を奪われた豊原からの移動は激しく、たとえば戦後20年余りたった1968年の時点で那覇の豊原郷友会を構成する世帯は120、会員は708を数え、それぞれ同時期の母集落の倍ほどの数をしめしていた。そして、各集落を離れた男女を受け入れたのが、中部の基地建設の現場と商業の中心地・那覇だった。
戦場(いくさば)の跡を縫い合わす : 那覇・新天地市場の女たち(省略と編集)


建設された米軍飛行場によって農地が奪われ、住民は中南部の基地ベルト地帯と那覇に流入していきます。
このブログ内でなかなか那覇に帰還できなかった那覇市民のこと、土地割当制度と住宅難、そして土地解放の時期などは前に書いてあります。

那覇の旧市街の大部分は米軍施設に占められ民間人の入域は戦後しばらく許されなかったが、市の東部、真和志村との境界にあたる壷屋と牧志はいち早く解放されている。復興の基点となったこの地域に備瀬を含む上本部出身者が流入、定着し始めたのは1948年頃とみられる。

1954年には、他集落に先駆けて備瀬郷友会10数世帯80名ほどの規模で結成されており、その後、具志堅、北里、山川等の郷友会の結成が続いた。1959年には村単位の上本部郷友会が組織されている。こうした集落や町村単位の郷友会の結成は、上本部出身者固有のものではなく本島北部および離島出身者に共通した動きだった。1940年代末から1960年代前半にかけては北部から中南部に移動した人達がつぎつぎと郷友会を立ち上げ、それが一段落つくと今度は、本島周辺の離島および宮古、八重山から那覇にわたって来た人達が郷友会を組織していった。
戦場(いくさば)の跡を縫い合わす : 那覇・新天地市場の女たち(省略と編集)


北部の人間が復興関連で那覇市内に入って来たのは土建屋が北部出身者であったのと関係があるのではないかと想像します。情報も人づてでしか聞くことができない時期では人のつながりは重要だったのではないでしょうか。

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