さて、那覇に移動した人たちはどこに居を構えたのだろうか。1969年時の郷友会名簿(104世帯495人)からは、真嘉比、安里、大道、松川、寄宮、繁多川などの旧真和志村地区に9割近くの会員世帯が集中しているのがわかる。結成から15年たってもなどこれほどの集住傾向がみられたのだから、移動が始まって間もない頃はこの傾向はさらに顕著だったろう。後続のものは先発した親戚や知人をたよって那覇へ向かう。食や住居の面倒をみてもらうといった個々の関係の集積がやがてシマ出身者の集住地域を形成していった。郷友会の連絡も電話がなくてもたやすかった点は、中部郷友会の事情と変わらない。「郷友会が結成された昭和29年から昭和45年頃までは、会員の殆どが安里、大道、松川、寄宮の地に集中的に住んでおり、 連絡調整もスムーズに運び、それに郷友意識と郷友会にたいする協力心は今以上であった」。
こうしてかつて琉球王府のあった首里の丘陵地と古くからの商業地域だった那覇に挟まれた純農村地帯は、終戦後に生活の糧を求めて各地から流れ込む人びとを吸収して急激に人口を増加させていった。
戦場(いくさば)の跡を縫い合わす : 那覇・新天地市場の女たち (省略と編集)>真嘉比、安里、大道、松川、寄宮、繁多川などの旧真和志村地区に9割近く
>会員の殆どが安里、大道、松川、寄宮の地に集中的に住んでおりもともとあった集落の周辺を埋めるように人口が増えてゆくわけです。特に川のそばや農地だった場所はあまり人が住んでいませんでしたがそこも住宅地になりました。
特に寄宮は北部出身者だけではなく那覇市内の人間も移住していたり、離島出身の人達も沢山住んでいます。同じように栄町近辺の(旧区画の)大道もそのような感じでした。
人が人を引っ張ってくることで小さなシマが出現します。
市場でも住居でもそうなのですが、それらのシマの中に他シマの人間がわざわざ入り込むよりは同じシマの人間を頼った方が楽だし確実でもあります。そのような傾向が続いていったことで地域の縁を持ったゆるやかな集まりが那覇の中にも出現したのです。
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