1967年の[新天地]市場会名簿をもとにした聞きとりによれば、431人の会員のうち上本部出身者は全体の3分の1を上回り(豊原46、山川31、石川21、北里11、備瀬25など)、本部半島と伊江島の出身者を合わせると約6割を占めた。名簿に記された人たちに「縫い子」として縫製の下請け作業を担った女性を合わせると、この市場にかかわった女性は数千という規模になるだろう。当時、市場内は19の組に分かれていて、それぞれの組は床上げした「台」と呼ばれる店舗スペースを共にした。最大の組は47人の売り子からなり、同じ組には同種の商品を扱う同じシマの出身者がまとまる傾向がみられた。ちなみに備瀬出身者は11組と12組に合わせて12名が集中しており、「パンツ」や「シミーズ」と呼ばれる女性物の下着を扱う人が多かった。
戦場(いくさば)の跡を縫い合わす : 那覇・新天地市場の女たち431人中134人が上本部出身者、近隣の伊江島と本部半島出身者をあわせると6割の人間が本部・伊江島一帯の出身者だったわけですね。
このあたりで商売に関わっていた本部出身者の身内がいたのですが、彼女と街中を歩くと「アイ!ネーサン ネーサン」と売り場から声をかけられたものです。
市場に流入した人達の多くが小さな商いで生計を立てた。1947(昭和22)年末には壺屋や開南交差点付近などに自然発生的な闇市が形成されていたが、翌1948年、市当局はこれらを管理する目的でガーブ川沿いに公設市場(現在の公設市場衣料部あたり)を設置している。やがてこの市場周辺の一角に衣料売りの女性たちが群れだし、これが新天地市場の原型となった。
詳しい経緯は不明だが、ここで露天の商いを始めた女性たち豊原や山川の出身者達が多かった。そして、彼女達と縁のあった人を媒介に備瀬の女性たちもここに流れ込んだ。
彼女達は品物を売り終えると布地を買って帰り、一台のミシンを頼りに裁断・縫製して、翌日の午前中に市場に売りに出るというサイクルを繰り返した。当時この市場は卸し専門で、小売業を営む人たちが、沖縄本島に限らず、宮古、八重山、奄美など、琉球弧の島々から押し寄せた。彼女達の手作りの衣料はこうして島々に行き渡っていった。やがて新天地市場は、ここに来れば靴以外なら身につけるものすべてが手に入ると表現されるような衣料品の総合卸市場としての体裁を整えていった。
戦場(いくさば)の跡を縫い合わす : 那覇・新天地市場の女たち (省略と編集)他の本ではこう記述されています。
公設市場に入店できなかったはみだし組は市場路上の売り場を追われ、市場通り南や、えびす通り、丸国マーケット前、今のみつや書店前の空地で、地べたに野菜を広げ、カゴに鶏やウサギを入れ、板箱の上に手作りの簡単服を並べて売っていた戦争未亡人たち。
やがて一角に露天の衣料売りが集中するようになった。夜、ミシンを踏み、翌日には店に出すという生活。52年9月、地主はトタンぶき棟割長屋を建て、この人たちと賃貸契約を交わした。
旧市街は未開放のため、46年秋冬の本土引き上げ那覇人の一部は、開南バス停から下り坂の道路両側にテントをあてがわれ、約80人が入居。井戸がなく、松尾や汪樋川へ汲みに行った。
戦後の沖縄世相史/比嘉朝進 p32(省略抜粋)
グダグダ 新栄通りのなりたち開南バス停から松尾公園そばを通って浮島通りにいたる一帯が46年の本土引き上げ組、市場周辺ではぐれて集まってきた本部出身者が新天地市場に集まります。
貿易再開までの時期は本土・台湾他との密貿易時代であったわけで沖縄からは米軍物資などが輸出されましたが新天地市場の品物も輸出されたと思われます。一人の売り子が一日でパンツ100枚も縫って売り切るというのは他地域への輸出まで考えなければ数が合いません。
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