続きです。
上本部から中南部への人口流出に決定的な影響を与えたのは、戦後、肥沃な桃原平原の中央を貫くように建設された米軍飛行場の存在だった。とくに字面積の約8割を奪われた豊原からの移動は激しく、たとえば戦後20年余りたった1968年の時点で那覇の豊原郷友会を構成する世帯は120、会員は708を数え、それぞれ同時期の母集落の倍ほどの数をしめしていた。そして、各集落を離れた男女を受け入れたのが、中部の基地建設の現場と商業の中心地・那覇だった。
戦場(いくさば)の跡を縫い合わす : 那覇・新天地市場の女たち(省略と編集)建設された米軍飛行場によって農地が奪われ、住民は中南部の基地ベルト地帯と那覇に流入していきます。
このブログ内でなかなか那覇に帰還できなかった那覇市民のこと、土地割当制度と住宅難、そして土地解放の時期などは前に書いてあります。
那覇の旧市街の大部分は米軍施設に占められ民間人の入域は戦後しばらく許されなかったが、市の東部、真和志村との境界にあたる壷屋と牧志はいち早く解放されている。復興の基点となったこの地域に備瀬を含む上本部出身者が流入、定着し始めたのは1948年頃とみられる。
1954年には、他集落に先駆けて備瀬郷友会10数世帯80名ほどの規模で結成されており、その後、具志堅、北里、山川等の郷友会の結成が続いた。1959年には村単位の上本部郷友会が組織されている。こうした集落や町村単位の郷友会の結成は、上本部出身者固有のものではなく本島北部および離島出身者に共通した動きだった。1940年代末から1960年代前半にかけては北部から中南部に移動した人達がつぎつぎと郷友会を立ち上げ、それが一段落つくと今度は、本島周辺の離島および宮古、八重山から那覇にわたって来た人達が郷友会を組織していった。
戦場(いくさば)の跡を縫い合わす : 那覇・新天地市場の女たち(省略と編集)北部の人間が復興関連で那覇市内に入って来たのは土建屋が北部出身者であったのと関係があるのではないかと想像します。情報も人づてでしか聞くことができない時期では人のつながりは重要だったのではないでしょうか。
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