山川を含む桃原地区は18世紀以降に首里・那覇方面から流れて来た士族たちが住み着いてできた屋取(ヤードゥイ)集落で、古くから農村集落を形成していた備瀬とは性格を異にした。桃原と備瀬とは隣接しているが「侍」と「百姓」の結婚はほとんどなかったという。戦後の人の移動はこうした壁を取り払うきっかけともなった。
戦場(いくさば)の跡を縫い合わす : 那覇・新天地市場の女たち戦後の混乱は屋取と百姓の間だけでなく、那覇人の離島や山原への偏見も多少取り払ったでしょうね。
現代の人間には地域での差や百姓とサムレーの間の意識差などはわかりにくいかと思います。通婚がなかったというだけでもだいたいはわかるかとおもいますが。
参考:
グダグダ 士族の比率村落社会が成立していた時代は一つの村や字の中だけで一生を暮らすのが普通だったし、交通機関が未発達だったということも原因となり、他地域との交流がほとんどなかったので地域によっての言語差が大きくなった。特に今帰仁(ナキジン)地方や糸満地方、山原地方などの地域は音韻的にも大きく違っていた。
2回目の調査において、話を聞かせてもらった比嘉清光さんと敏子さん夫妻は二人の言語状況がそのことを表している。清光さんも敏子さんも二人とも出身地の琉球語で話すことはできる。しかし、日常生活の中で、二人で会話する機会の時も琉球語は使わずに共通語で話す。二人とも出身は中部地方で距離的には近いが、清光さんは今帰仁地方の出身で敏子さんは本部町の出身だった。今帰仁は「はひふへほ」を「ぱぴぷぺぽ」と発音する沖縄でも特殊な発音の特徴をもつ地域である。一方、本部町は廃藩置県後に首里から没落した士族が流れて住み着いた地域であるので大部分の言葉が首里方言に変化していったので、中部にありながら南部の首里の言葉の特徴を持つ。結果として近距離に位置してるけれど言葉の違いは意思伝達に障害が起こし、精神的にも抵抗が生じるほどになる。そのために琉球語で会話したとしても大意は通じるが、言葉によって聞き直さなければならなかったり、分かりづらい所もでてくるのでストレスが生じることになる。
それほどに沖縄における地域による言語差は大きい。
沖縄の言語と意識に対する社会言語学的考察
http://tokyo.cool.ne.jp/b3959/jyosyo.html
グダグダ ことばの地域差このような違いがあるなかで那覇人の中で商売するのは違和感もあったでしょう。「戦場の跡を縫い合わす」後半でのインタビューでも娘を那覇人に嫁に出すのに抵抗があったと述べられています。
那覇人のイナカー蔑視は根強いというか、那覇人以外のすべての人間を笑い飛ばすようなところがありますし、言葉や習慣の上でも差がハッキリしているとごまかしようがないわけです。しかしもともと根拠がないレッテル貼りだから偏見なわけで、理由なんて本当は何でもいいわけです。偏見の理由には意味がありません。
参考:
グダグダ 那覇人気質近世でも宮古人は酒飲んで大騒ぎするという認識をもたれていましたが、そのような偏見まじりの認識が現在のようにかわってきたことは戦後の混乱のもたらしたポジティブな面ではないかなと思います。
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