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一銀通りの切り通し造成

一銀通りの補記として。

茶色が那覇民俗地図にある旧道です(といっても新県道が存在する昭和の初め頃)。
図の右下から国際通り(新県道)に向かってくる道筋はほぼ同じ、国際通りを横断し久茂地小学校に至る道もほぼ同じです。那覇高校から松尾消防署の道筋が拡張され車両対応されたのに対しそこから先は拡張されませんでした。松尾消防署側からまっすぐくるとまっすぐではなく斜めになるように道が繋がっていますが、これはまっすぐ進むと丘になっていたためだと思われます(現在も裏手には墓があります)。
一銀通りには丘を切り崩して道を通す切り通しによって作られた箇所がありますが、それは国際通り裏手の墓のある一帯から連続しています。

「市民の友」107号(1959年8月)には一銀通りの切り通し工事中の写真が掲載されています。
一号線と国際通りとを結ぶ都計幹線道路として丘を切りくづし、見事な舗装道路になった一銀通り(59年6月25日完成)
市民の友 1959年8月1日 第107号(抜粋)


現在も一銀通りを国際通りから進むと左手は高台になっていますし、信号がある交差点から左折して少し進んだあたりの裏手は墓地のままです。
一銀通り周辺で面白いのは、旧道が車両対応になったところとそうでないところが対照的であること、拡張されなかった久茂地小側は橋の位置まで変わったこと、そして現在と過去では道の意味合いが切り放されかつて連続していた道だとと考えにくくなっていることとでしょうか。
一銀通りは松尾消防署裏に新しい道が作られて那覇高校から直線だけで繋がるようになったので余計に昔の道筋を考えるのが少し難しくなるでしょう。
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那覇市役所の位置(戦後)

那覇市役所の戦後編です。

先遣隊那覇へ 1945年11月10日、国頭の避難先から陶器、瓦工業をおこし、那覇の復興をはかるため103人の先遣隊が壷屋に入る。
壷屋に区役所 46年1月3日先遣隊の家族も集まり壷屋区役所をおく。
壷屋区を那覇市へ 1946年4月4日、壷屋区を那覇市に昇格。初代市長に当間重剛氏を任命、戦後の都市行政がスタートした。
市場敷地に天幕 1947年1月、牧志町の現市営市場敷地内に天幕を張り、仮市庁舎とする。
仮庁舎を移転 1948年11月、台風被害により樋川の開南小学校内の仮庁舎に移転。  
コンセットで執務 1949年4月、仮庁舎を牧志の現グランドオリオンの敷地に移転、コンセット2棟を設置、執務体制を整える。
かわらぶきの平屋 1950年4月、コンセットをかわらぶき平屋に拡張改築し、都市計画行政にそなえる。
天妃小学校に移転 1953年5月、都市発展と行政規模の拡大により、旧天妃小学校に移転。以降13年使用する。
市政の殿堂完成 1965年9月18日、地下一階、地上5階、一部9階の鉄筋コンクリートで市庁舎を完成。盛大記念式典と4日間にわたって祝賀行事を催す。
市民の友 1965年9月15日 第181号(省略と抜粋)


泉崎の現敷地の他には与儀公園なども候補に挙がっていたようです。与儀公園近辺は官公庁街になる可能性もあって、電電公社、郵便局、南方連絡事務所(Wikipedia)などもありました。みんな移転してしまいましたが琉大病院や那覇病院などもありました。

那覇市役所の位置(戦前)

市民の友に那覇市の役所の移り変わりがまとまっていたので抜粋します。
1965年の第181号は新庁舎落成記念号のようになっています。

那覇市のあゆみ
親見世 旧藩時代の那覇四村・西、東、泉崎、若狭の行政全般を管理した。
親見世役所 明治11年4月、西本町4丁目の旧里主所を親見世役所とした。同年12月、親見世役所内に、久米村役所、泊村役所をおき明治13年2月両役所を合併した。
那覇役所 明治13年6月、親見世役所を那覇役所とした。大門前の海岸通の埋立地に、西、東、泉崎、若狭、久茂地、久米、泊の順で、一棟の家屋を仕切って、各村は事務をとった。
那覇区役所 明治29年上之蔵1ノ4に那覇区役所をおく。その都市、勅令第19号により沖縄県区制を施行、27名の議員を選挙那覇区会を設置、自治体としての行政がはじまった。区役所は、島尻郡役所のなかにおかれ、口調は斉藤用之助島尻郡長が兼任した。明治41年、勅令第42号により、区制が大幅に改善され区長は官選から民選になった。 明治43年、那覇区会は、郡役所の建物と敷地を8800円で買収することを決議、島尻郡役所は若狭町に移転した。
庁舎を建設 大正8年、当間重鎮区長の時代に、庁舎を建設した。設計は京都大学教授武田伍一工学博士。
那覇市役所 大正10年5月20日、沖縄にも一般市制が施行され那覇市となり、都市行政がはじまった。
空襲で焼ける 昭和19年10月10日、米軍による大空襲で市庁舎は焼失した。
紅房に移転 市庁舎が焼けたので、真和志村古波蔵3061の「紅房」に移転した。
役所を分散 昭和19年11月戸籍課を牧志町2の4に、勧業課、衛生課を壷屋町2丁目に分散移転した。
民家を借りる 昭和20年2月真和志村安里の民家に移転。
市役所を解散 戦争が激しくなり、昭和20年3月23日、市役所を解散した。
市民の友 1965年9月15日 第181号(省略と抜粋)


以前まとめたものを再掲しておきます。
1879年(明治12年) 沖縄県庁を設置。以降沖縄の行政の中心に。また、それまで那覇四町と呼ばれていた西・東・若狭・泉崎へ、新たに泊・久米・久茂地を編入。
1896(明治29)年 沖縄県区制の施行により、那覇区となる。
1896(明治29)年4月1日 郡制施行に伴い、島尻方(真和志間切・小禄間切(略)17間切7島
1908(明治41)年4月1日 島嶼町村制施行に伴い、島尻郡に糸満町(兼城村から分立)と真和志村・小禄村(略)1町22村2島
1921年(大正10年)5月20日 特別区制を廃止し、市制を施行して那覇市となる。
グダグダ(β) 那覇はどう変わったか(63年) 3


那覇市のサイトにある歴代市長は市制施行(大正10年)以降のみですね...

http://www.city.naha.okinawa.jp/mayor/rekidai/index.htm

識名部落内の道路拡張

識名部落内の道路拡張工事の記事が市民の友にありました。

道路が一躍二倍に
子供の遊び場も完成
四ヶ月にわたる失対事業による部落再開発工事で、識名部落は車両が自由に出入り出来るようになり部落の人々は、この再開発工事にいたく感謝している。
那覇市識名の道路拡張と中央子供の遊び場の落成祝賀会が[65年]5月8日午後2時半から識名公民館前で(略)行われた。この道路拡張工事は、市の失対事業費8901ドルで失対労務者延べ6165人が就労して、昨年[64年]10月に着工、4ヶ月かかって1月30日に巾4米、延長1650米の道路を完成したもの。(略)
字識名は真和志地区でも旧い部落の一つで殆どが戦前の高い石垣をめぐらしてあるため道路の巾が狭く、これまで一米半から二米ほどしかなく、車の出入りもできず、文化生活上、大変不便をかこっていたのを区民が無償で石垣や家屋の一部を取り壊し道路拡張工事に協力してできたものです。(後略)
市民の友 1965年5月15日 第177号 (抜粋と編集)


旧来の部落内の道路はこんなものだったと。
>殆どが戦前の高い石垣をめぐらしてあるため道路の巾が狭く、
>これまで一米半から二米ほどしかなく


昔の那覇の幅員は大通りが三間、脇道は一間無いし二間、小路(すうじ)と言えば四尺程度に過ぎなかったが、
那覇今昔の焦点 -那覇の今と昔を語る- p96


1間=6尺=1.82m、1尺=30.3cm

那覇はどう変わったか(63年) 5

1963年の市民の友の座談会の最後の部分から抜粋します。
連続して取り上げて来たんですが、一般的な話に終始しているので取り上げなかった部分もあります。

復興の基礎は都計
埋立で頑張った重民さん
[真栄田]都市計画の裏付けをやったのは当間重民さんですよね。
[一同]そう。
[真栄田]辻原の墓地整理や泊の埋立てを思い切ってやった。それが那覇市の発展を約束したようなものでした。シーツ長官の時でしたが、当時の軍政府に交渉して政府は埋立地をとろうとした。それで重民さんは社大党から脱党して頑張った。
[新垣]当時は、みんな社大党で、市職員も殆どそうでした。
[真栄田]埋立地や港湾も政府がとりあげるということだったがやがて市に譲渡するということになり、みんな万歳を叫んだが重民さんは涙で声も出ないほどでした。
[新垣]那覇市の復興は重民、康和、重剛の三代で基礎ができたようなものだ。
[長嶺]小禄は戦後、高良に閉じ込められていた。多くの土地が軍用地にとられましたね。
保存したかった首里城
[儀武]首里は地域的にも遊園地が適当だと考えて、観音堂付近の岩を割るのをやめさせたことありましたよね。
[徳田]首里城がなくなったのはなんとしても痛恨ごとですね。
[儀武]首里城の保存ということでほんとに惜しい。末吉は風景がいいので遊園地にしようと思ったんですが…。 今のうちなんとかしたいもんですね。
[古堅]地主がはっきりしませんね。
[儀武]那覇市は沖縄の首都として、今後の問題は市庁舎の建築ですね。
[古堅]来る議会に提案します。
[儀武]バージヤ長官の時でしたか市庁舎をつくってやろうかということでしたが。
[真栄田]市役所は戦後今の市場にカバ屋で出発、元開南小学校跡から4区のグランド・オリオン通り、それから今の天妃校あと、五回目には立派な、大きな庁舎をつくるべきですね。那覇は戦争で灰燼に帰したんだから、造ってやろうといっていた。アメリカの援助をあおいだらよい。
[新垣]バージャー長官もシーツ長官もそういっていたんだから。今でも変わりないと思う。
[徳田]有意義なお話をお伺いしました。それではこれで終わります。ありがとうございました。
市民の友1963年6月15日 第154号(一部編集)


那覇市の復興は重民、康和、重剛の三代で基礎ができたようなものだ」は昭和24(1949)年から31(1956)年までの期間ですね。
当間 重民 S24.12 - S27.2
又吉 康和 S27.3 - S28.9
当間 重剛 S28.11 - S31.11
http://www.city.naha.okinawa.jp/mayor/rekidai/index.htm


>市役所は戦後今の市場にカバ屋で出発、元開南小学校跡から4区のグランド・オリオン通り、それから今の天妃校あと、五回目には立派な、大きな庁舎をつくるべきですね。

カバ屋はテント小屋です。

那覇はどう変わったか(63年) 4

1963年の市民の友の座談会から抜粋します。

那覇の犠牲になった真和志
[真栄田]ウルクン、ニッポンガヤー(小禄も日本ですか)という言葉(笑)はいつ頃からですか。
[長嶺]小禄に電灯がついたのは私が小学校の頃で、小禄に、真つ先についたものだから、それから先でしょう。
[徳田]では翁長さん、古い時代の真和志について…。
[翁長]私が役所にタッチするようになったのは最近ですが、若い頃の記憶からすると、純粋のマージンチュは安謝、安里、松川、与儀、古波蔵、上間、識名、国場ですね。中央部は全部寄留民でした。
[徳田]なにか真和志の特徴といったものは?
[翁長]首里でもない、那覇でもない。両方あわせて二で割ったようなもの、しいていえば真和志の特徴- そういうことがいえますよ。那覇の発展は、真和志の衰亡史であると、つまり那覇の発展を語ることは、真和志の衰亡を語るようなものですよ。首里には誇りがあるが、真和志にはない。性格的には中性無煙みたいなものですよ(笑)。
[徳田]ケムリもたたなかったんじゃないですか(笑)。
市民の友1963年6月15日 第154号(一部編集)


座談会ででてきたた真和志の部落をマッピングしました。
真和志地区の部落
これまでグダグダと書いてきたようなことはこれくらいの年代の方にはあたりまえのことなんですよね。「安謝、安里、松川、与儀、古波蔵、上間、識名、国場」が古い集落でその近辺に屋取などができていったわけです。真嘉比が抜けてますけどもどうなんでしょうか。
図にしてみると「真和志」という統一性がないのは必然であっただろうなと思われます。
それぞれの部落から那覇へ商売にゆくというなら真和志北部と南部の間の交通はさほど必要とされないわけです。

部落をそれぞれ書いてみると城岳周辺の楚辺には那覇からの寄留民、壺川には地方や那覇の人達、繁多川には首里系屋取、銘苅は安謝から分かれていて首里系の屋取、古島は真嘉比から分かれていて首里系屋取、大道は安里から分かれていて首里系屋取等々です。
道路ができて人が集まって来たのは上之屋、壺川、大道周辺、開南近辺(学校が出来た)です。
明治から沖縄戦まではけっこう長い期間なわけで、簡単にざっと言い尽くせるもんではないですが、ゆっくり追っかけてゆきたいと思います。

那覇はどう変わったか(63年) 3

1963年の市民の友の座談会の冒頭部分から抜粋します。

財政豊かな区時代
職員は封建的、物は安かった
[古堅]那覇市は、5月20日に市制施行42周年を迎えることになっていますが、きょうは過去の那覇を御存じのみなさんに集まっていただき、いろいろお話をお伺いしようと思っております。どうぞ、おくつろぎになってお話しください。
[徳田]きょうは“市政の移り変わりを語る座談会”ということですが、いろいろみなさんが御存じの過去の出来ごとなどをお話してもらいたいと思います。それでは82歳になられる島袋和楽さんもおみえになられておられますので明治24年に那覇区長を島尻郡役所長が兼任していたという、その当時のもようを、島袋さんお願いします。
[島袋]私は最初小学校の代用教員をしておりましたが、山城正剛さんが助役になられた時、書記として役所に入りました。当時島尻郡役所長は斉藤用之助さんで、助役は、東町の仲本政世さんでしたが、助役になって一年足らずで亡くなりました。山城さんはその後任でした。
[徳田]当時は郡長とかみんなヤマトンチューですね。
[島袋]そうです。
[徳田]役所はどこにありましたか。
[島袋]塔のあった場所ですよ。建物は一つだったが、右側が島尻郡役所、左側が那覇の役所でした。
[儀武]われわれの頃は、首里ですよ。電話も尚家が一番で、二番は役所(笑)でした。首里は財政の面で大分困っていました。当時、家禄というものがありましてね。ウドン、トンチ(御殿・殿内)は、それが一時に半年分だとか一年分とそういうふうに入ってくる。その公債が売買出来るものだから、ジンコー山城なんかそれで儲けた(笑)という話もありました。帽子業とか、商売人はそれで倒産した者が多く、首里の衰退した原因になったんですね。
[徳田]家賃二千貫、染屋小のカミちゃん身請け(笑)といわれたのもその頃ですね。
[儀武]今でいう一括払いですよ。家禄の一括払い(笑)。
市民の友1963年6月15日 第154号(一部編集)


戦前の制度をまとめます。
1879年(明治12年) 沖縄県庁を設置。以降沖縄の行政の中心に。また、それまで那覇四町と呼ばれていた西・東・若狭・泉崎へ、新たに泊・久米・久茂地を編入。
1896(明治29)年 沖縄県区制の施行により、那覇区となる。
1896(明治29)年4月1日 郡制施行に伴い、島尻方(真和志間切・小禄間切(略)17間切7島
1908(明治41)年4月1日 島嶼町村制施行に伴い、島尻郡に糸満町(兼城村から分立)と真和志村・小禄村(略)1町22村2島
1921年(大正10年)5月20日 特別区制を廃止し、市制を施行して那覇市となる。
1953(昭和28)年10月1日 真和志村が市制施行し、真和志市となり郡より離脱(同市は1957(昭和32)年12月17日に那覇市に編入)

http://ja.wikipedia.org/wiki/島尻郡http://ja.wikipedia.org/wiki/那覇市より抜粋。

銀行山城はそういうこともやってたんですね。
※ジンコー山城 ---> 山城高興(ギンコウヤマグシク)
話の中で一括払いが揶揄されているのは、1956(昭和31)年のプライス勧告(軍用地土地代一括払い)の記憶も新しかったからだと思われます。
63年当時の那覇市役所は天妃小学校敷地、65年に久茂地へ新庁舎が出来て移動します。戦前の那覇市役所は見世の前近くにあり塔がありました。しかし63年時点で未だ建築されていない那覇市役所は2011年現在では老朽化で取り壊しというのも時代の経過を感じますね。
そして後半。

[真栄田]区役所時代の面白い話をきいたことがありますよ。当時のつとめ人はみんなサムレーなんですね。庶民はいない。それが退庁時間になると、煙草盆をポンポンたたいている。そういう所へ用事でいこうものなら“テンヤ、ンーチヨーミ” つまりもう時間だというんですね。そうして“用事があったら家にこい”という。仕方なく家にいくと“無学のムン(者)や役所にこい”(笑)
というふうに追い返されたというんですね。
[徳田]島袋さん当時の給料は?
[島袋]私が12円、いい方でした。雇いが9円で…
[徳田]当時の米一升はいくらかおぼえておられませんか。
[島袋]よくおぼえていないが、弁当をつくるのに3銭分の牛肉を買えば十分でした。
[徳田]明治27、8年の日露戦争後に土地の整理が行われたようですが。
[島袋]首里城内に整理局があって測量は立会いでやったが、出張旅費が相当あった。後の市長当間重慎さん兄弟もやっていた。当時、那覇市の財産は裕福でした。部落の土地は市がとり、泉崎の仲島グムイとか、垣花の学校前の馬場とか、ユマチ(那覇四町)の財産はみんな那覇にひきつかれたものです。
[長嶺]私が役所入りしたのは昭和の始め頃で、1円も出せば酒がたらふくのめた時代ですよ。今の5ドル以上ですよ(笑)
[古堅]いやそれ以上でしょう。
市民の友1963年6月15日 第154号(一部編集)


当間重慎(1876-1923)は初代那覇市長で当間重剛・重民兄弟の父ですから整理局のあれこれは重剛・重民兄弟のことでしょう。
最後に役所の写真。右が戦前の市役所です。左の市役所庁舎もまだ記憶に新しいんですがもう歴史になってしまいました。
那覇市役所

【追記】
対談中で出た尚家の電話番号ですが沖縄県人事録/楢原翠邦編(大正5)での尚家で、「尚典」の電話番号が1番になっているのが確認できます(画像の左下)。

那覇はどう変わったか(63年) 2

1963年の市民の友の座談会から抜粋します。

もたついた合併問題
面積は全国でビリだった
[徳田]小学校の鉄筋-那覇尋常や泊はいつごろ出来ましたか。
[島袋]最初に出来たのは泊でした。
[徳田]当時、洋風建築をつくれと熱心な市長がいたとか-
[古堅]昭和2、3年で、あれは小嶺[幸慶/S3~S6]市長ですか。
[島袋]小嶺市長は熱心な方でした。プールもあの人が作った。スポーツに理解のある人でした。
[徳田]那覇の近代化-水道が出来たとか、道路が改修されたとかどのように変化があったか、また区画整理は大変だったでしょうね。大門前通りとか、ヤージョー(屋門)があって…。今の久場川町問題みたいに…。
[真栄田]昭和16年頃、合併問題で調査したことがありますよ。都市は道路の占める率が30%から40%でなければならない。それが那覇の場合、たったの8%ですよ。当時の面積は5平方キロありました。面白いことには昭和15年、市は全国で204あったが、面積では首里が203番目で那覇は204番目でした。いかに市として小さかったかがわかる。人口では那覇が75位で密度は2位でした。それで当間(重剛)市長時代[S14~S17]に合併が叫ばれたのです。
[古堅]沖縄市ですね。
[儀武]首里は偉い人が反対した。
[長嶺]小禄も絶対反対(笑)。
[真栄田]15年(※昭和)ですよ。丸山芳樹さんが合併問題で来たのは。
[古堅]真和志は賛成でしたか。
[翁長]反対でした。合併できなかったのは、小禄、真和志、それにスイウエーグニという風にセクショナリズムが濃厚だったからですね。地域根性が強く、“ナーフワンチュニ、クソビラリーネーデージ”(笑)
-那覇人の下敷きにされては大変-そういう気持ちがあったんですね。それが戦後はのびのびした。
[儀武]首里は最後まで反対だった。
[長嶺]戦後合併を進めたのは私ですよ。
[儀武]首里は心配しましたよ。
[翁長]取り残されると大変だから(笑)
市民の友1963年6月15日 第154号(一部編集)


丸山芳樹は都市計画の専門家、久場川町問題は団地建設をめぐるあれこれだと思われます。
那覇は小禄・真和志・首里と合併しても小さな市であることは今も変わりがありません。

歴代市長は下記アドレス参照。
http://www.city.naha.okinawa.jp/mayor/rekidai/index.htm

まぁ、戦前の首里は首里ウェークニですし(笑)、小禄や真和志は農村地帯で文化が全く違います。

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